大阪難波のCASで、土曜から始まった笹岡敬個展。
先々週の土曜までCASでやっていた「私の恥ずかしい」展のトークの司会に大阪に行っていて、一週間あとの笹岡敬展は見られないなと残念に思っていたら、幸いにも私がいた先週の月曜に既に作品設置が終わったとのことで、微調整前の空間を拝見。
なので、以下は最終的な展覧会の、つまり、昨日からはじまった展覧会見ての文章ではないのだが。
風雨の強い月曜日、大阪で数件の画廊をまわったあと、CASのドアをあける。
ここでは一昨日まで「私の恥ずかしい」展後半の、大人アーティスト数人の作品がスタイリッシュに展示されていて、私が企画したわけではないけれど、図らずもそのトークの司会をした。
アーティストの中には初対面の方もいたが、そもそも「何が私にとって恥ずかしくて、見る人にとって恥ずかしいのか」ということから、意外と深い話を聞けて、刺激になった。その模様はCASのホームーページのアーカイヴにもあるのだが、それは、ともかく、笹岡敬の空間である。
もとい、なぜか、笹岡さんの作品には雨があう。そんなことを感じつつ、ドアをあけたのだ。
暗いが、パッとあらわれた空間には、大きな聖堂に現れた「宗教画」を見た時のように、目の前が開けるスケール感があった。聖堂で見る宗教画は、大抵暗く、ロウソクの光くらいでみる、具象といえば、具象なんだけど、見えているものは「揺らぎ」であるように、私はいつも思うのだが、その、感じ。
置かれているのは小さなガラスのコップと、LED電球という仕掛けである。
これまで、光、水、それによって生じる光の影、ゆらぎ、決してみることのできない実体みたいなことを、これと同じ論理で制作してきたけれど、LED電球の発達によって、ここまで小さな仕掛けでそれができるようになったとのこと。なるほど。
確かに、これまで見て来た笹岡敬の作品と、同じと言えば、通底しているのだけれど、いい意味でものすごく、裏切られた感じ。
いや、裏切られたというのは正しくない。
自分の方が、今まで、この作品の持っているスケール感を見落としていたのだということなんだろう。
(と、謙虚な気持ちになった)
作家や作品と長く付き合っていると、つい、全ての作品について分かったような気持ちになるが、そんなことは決してないのである。当然、作家は全てにおいて先に行くのだからという当たり前の事実を突きつけられたのだ。
二点の作品のうち、正面は人の移動や空気の揺らぎによって、画面が揺らぐ。
右側の壁面は、ほとんどその揺れがない。
おそらく、揺れの少ない方の光の見え方が、完全にストップして、静止してしまえば、全てのことが完全に整うのだろうと思いつつ、なぜか、LEDは光源もふわ~としていて、複雑にして淡い色なのだと、知れたのである。
先々週の土曜までCASでやっていた「私の恥ずかしい」展のトークの司会に大阪に行っていて、一週間あとの笹岡敬展は見られないなと残念に思っていたら、幸いにも私がいた先週の月曜に既に作品設置が終わったとのことで、微調整前の空間を拝見。
なので、以下は最終的な展覧会の、つまり、昨日からはじまった展覧会見ての文章ではないのだが。
風雨の強い月曜日、大阪で数件の画廊をまわったあと、CASのドアをあける。
ここでは一昨日まで「私の恥ずかしい」展後半の、大人アーティスト数人の作品がスタイリッシュに展示されていて、私が企画したわけではないけれど、図らずもそのトークの司会をした。
アーティストの中には初対面の方もいたが、そもそも「何が私にとって恥ずかしくて、見る人にとって恥ずかしいのか」ということから、意外と深い話を聞けて、刺激になった。その模様はCASのホームーページのアーカイヴにもあるのだが、それは、ともかく、笹岡敬の空間である。
もとい、なぜか、笹岡さんの作品には雨があう。そんなことを感じつつ、ドアをあけたのだ。
暗いが、パッとあらわれた空間には、大きな聖堂に現れた「宗教画」を見た時のように、目の前が開けるスケール感があった。聖堂で見る宗教画は、大抵暗く、ロウソクの光くらいでみる、具象といえば、具象なんだけど、見えているものは「揺らぎ」であるように、私はいつも思うのだが、その、感じ。
置かれているのは小さなガラスのコップと、LED電球という仕掛けである。
これまで、光、水、それによって生じる光の影、ゆらぎ、決してみることのできない実体みたいなことを、これと同じ論理で制作してきたけれど、LED電球の発達によって、ここまで小さな仕掛けでそれができるようになったとのこと。なるほど。
確かに、これまで見て来た笹岡敬の作品と、同じと言えば、通底しているのだけれど、いい意味でものすごく、裏切られた感じ。
いや、裏切られたというのは正しくない。
自分の方が、今まで、この作品の持っているスケール感を見落としていたのだということなんだろう。
(と、謙虚な気持ちになった)
作家や作品と長く付き合っていると、つい、全ての作品について分かったような気持ちになるが、そんなことは決してないのである。当然、作家は全てにおいて先に行くのだからという当たり前の事実を突きつけられたのだ。
二点の作品のうち、正面は人の移動や空気の揺らぎによって、画面が揺らぐ。
右側の壁面は、ほとんどその揺れがない。
おそらく、揺れの少ない方の光の見え方が、完全にストップして、静止してしまえば、全てのことが完全に整うのだろうと思いつつ、なぜか、LEDは光源もふわ~としていて、複雑にして淡い色なのだと、知れたのである。