『ポーランドの前衛美術』生き延びるための「応用ファンタジー」
加須屋明子著・創元社
美術の潮流である西洋美術を中心にした場合、日本をはじめアジア各国の美術の流れもまたポーランドなど東欧の美術の状況も周縁であるということを改めて考えさせられた。
これまで東欧の美術については、著者でもある加須屋さんが国立国際美術館勤務時代に紹介されていた「転換期の作法ーーポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術」や、ヴォディチコ、バウカなどの作品に出会って来たのみである。
私のポーランドへの認識は、一度は消滅した国であるとか、ユダヤ人の大虐殺とか、ワイダの映画、首都がワルシャワだくらい、東欧には行ったこともないので加須屋さんが毎年研究のために行かれて、その様子をSNSなどで知らせてくれる、クラコフなどの地名を知ったというようなかなり貧困なものである。
つまり、ヴォディチコのように国を捨てて海外で制作を続けている世代の作家の活動や、それ以降の世代の作家の活動や、文字通り闘って勝ち得た「ホーランドの前衛」表現について、単発的にふれて来た知識でしかなかったのだ。
本書で述べられている様々なポーランドの前衛美術、中でも1967年の終わり頃に結成された「5人の秘密のクロにカル」(オカルトやチベット密教に興味が高まりユングの「内的構造の変更」について議論された。)などは全く知らなくてこれは面白そうだなと思った次第。
本書で結論としてまとめられている「芸術作品は社会の要請に応じた側面を持ち。激動の現代社会において、従来型の芸術作品とは異なる要素が見られるようになり、また社会からも必要とされている。そのような中でポーランド現代美術を位置づけることが可能である」
「社会の要請に答える目的だけでなく、人間存在や空間、時間認識に新たな発見をもたらすような、形而上学的価値を持つ作品もポーランドで多く発表されてきた」
「混迷を極める21世紀において芸術の果たす役割は一層重視されるが特にポーランドの優れた成果を「応用ファンタジー」と名付け、その重要性を指摘する。(一部抜粋)などは、この本を読むまでは体系づけて考えたことはなかった。
政治的な側面とアートという表現、戦後の日本ではこれはかなり乖離していたと思う。
前衛というのは後衛がいなければ意味がないが、戦後前衛世代が亡くなって行く中、
正直言って日本のアートの状況は混沌としている。
もちろん、アーティストはたくさんいるし社会問題を表現として扱っている作家も、空間や時間を優れて表そうとしている作家もいるが、そういうものにリアリティが無かったというのも事実だろうと思う。
3.11以降、いや、本当は二十年前の1.17や、9.11だって世界や日本にきっかけとなることがたくさんあったのだが、3.11以降の政治のあり方の急速な右傾化など否応無しに我々にその欠如したリアリティをなんとか取り戻さなければならないという危機感が生じてきたようだ。
実際に3.11以降に自らの作品の本質を問い直したアーティストもいる。もちろん、それとは関係なく自己の作業を淡々と表現へと昇華させることにも意味がないわけではないが、しかし、ポーランドでは、そういうことが脈々と受け継がれ、厳しい状況下でまさしく「生き延びる必然性から生まれ、狂気の一歩手前に踏みとどまってユーモアを交えつつ過酷な状況を逆手にとりながら智恵と技術を結集し、想像力を駆使して開いてゆく絶えざる試みの連続」であったのだな、と。
そして、私たちが見失っているけれど私たちの回りにも形を変えて様々な現実が表現や、人間の自由を脅かそうとしている現実を見つめるために本書が開いていこうとすることに共感を覚えるのである。
加須屋明子著・創元社
美術の潮流である西洋美術を中心にした場合、日本をはじめアジア各国の美術の流れもまたポーランドなど東欧の美術の状況も周縁であるということを改めて考えさせられた。
これまで東欧の美術については、著者でもある加須屋さんが国立国際美術館勤務時代に紹介されていた「転換期の作法ーーポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術」や、ヴォディチコ、バウカなどの作品に出会って来たのみである。
私のポーランドへの認識は、一度は消滅した国であるとか、ユダヤ人の大虐殺とか、ワイダの映画、首都がワルシャワだくらい、東欧には行ったこともないので加須屋さんが毎年研究のために行かれて、その様子をSNSなどで知らせてくれる、クラコフなどの地名を知ったというようなかなり貧困なものである。
つまり、ヴォディチコのように国を捨てて海外で制作を続けている世代の作家の活動や、それ以降の世代の作家の活動や、文字通り闘って勝ち得た「ホーランドの前衛」表現について、単発的にふれて来た知識でしかなかったのだ。
本書で述べられている様々なポーランドの前衛美術、中でも1967年の終わり頃に結成された「5人の秘密のクロにカル」(オカルトやチベット密教に興味が高まりユングの「内的構造の変更」について議論された。)などは全く知らなくてこれは面白そうだなと思った次第。
本書で結論としてまとめられている「芸術作品は社会の要請に応じた側面を持ち。激動の現代社会において、従来型の芸術作品とは異なる要素が見られるようになり、また社会からも必要とされている。そのような中でポーランド現代美術を位置づけることが可能である」
「社会の要請に答える目的だけでなく、人間存在や空間、時間認識に新たな発見をもたらすような、形而上学的価値を持つ作品もポーランドで多く発表されてきた」
「混迷を極める21世紀において芸術の果たす役割は一層重視されるが特にポーランドの優れた成果を「応用ファンタジー」と名付け、その重要性を指摘する。(一部抜粋)などは、この本を読むまでは体系づけて考えたことはなかった。
政治的な側面とアートという表現、戦後の日本ではこれはかなり乖離していたと思う。
前衛というのは後衛がいなければ意味がないが、戦後前衛世代が亡くなって行く中、
正直言って日本のアートの状況は混沌としている。
もちろん、アーティストはたくさんいるし社会問題を表現として扱っている作家も、空間や時間を優れて表そうとしている作家もいるが、そういうものにリアリティが無かったというのも事実だろうと思う。
3.11以降、いや、本当は二十年前の1.17や、9.11だって世界や日本にきっかけとなることがたくさんあったのだが、3.11以降の政治のあり方の急速な右傾化など否応無しに我々にその欠如したリアリティをなんとか取り戻さなければならないという危機感が生じてきたようだ。
実際に3.11以降に自らの作品の本質を問い直したアーティストもいる。もちろん、それとは関係なく自己の作業を淡々と表現へと昇華させることにも意味がないわけではないが、しかし、ポーランドでは、そういうことが脈々と受け継がれ、厳しい状況下でまさしく「生き延びる必然性から生まれ、狂気の一歩手前に踏みとどまってユーモアを交えつつ過酷な状況を逆手にとりながら智恵と技術を結集し、想像力を駆使して開いてゆく絶えざる試みの連続」であったのだな、と。
そして、私たちが見失っているけれど私たちの回りにも形を変えて様々な現実が表現や、人間の自由を脅かそうとしている現実を見つめるために本書が開いていこうとすることに共感を覚えるのである。