室井絵里のアート散歩

徒然現代美術&感じたこと、みたもの日記

戦争無くならないものと考えて、二度と戦争はしないと考えるべきなんだろう。

2015年08月17日 | アート他
終戦記念日、敗戦記念日、解放記念日。
どれもあまりしっくりこない。

昨日からのドラマとかも私が子供時代よりは、嘘つぽい。
小学生の頃、おじいさんや、おばあさんに戦争のことを聞きなさいという夏休みの宿題がでた。
おじいさんは、あまり語らなかった。
おばあさんが言ったことで覚えているのは、サツマイモを育ててつるまで食べたと、ステブルファイバー、多分人絹・着るものが無くなったということ。
母は、八月十五日には14歳だったはずだが大阪の空襲の火を千里山から眺めたのがまるで花火のようだったというのと、
豊中の女学校から学徒動員されたけど、何かに雲母をおくという簡単な作業で、授業も無いし、本読んだりして遊んでいたとか、
校庭で空襲で亡くなった友達がいたらしいんだけど、忘れたとか。サツマイモのつるはおいしかったとか。

家人の父は、大学生だったから招集は免れて一歳上の兄が戦争にとられていたから会津田島の神社を継がなきゃならないかと覚悟していたと。
母は12歳くらいだったが山形で農業をさせられていたし、ジャガ芋ばかり食べたから今でもあまり食べない。
この人の父親は軍人さんだったので義母は子供の頃日本各地を転々としたという。
私の周囲では、直接戦争にとられた人はいなくて、戦死した人もいない。
後から、母方の大叔父が長崎で被爆していたらしく被爆者手帳をもっていたとか、聞いたが、本人からは何も聞いていない。


NNNドキュメントで「海の記憶・父からの手紙」という番組を夜中に見ていた。
戦争中に、トラップ諸島で多くの民間の船が沈んだという。
その中で最大の悲劇、740人が亡くなったという「愛国丸」という豪華客船に乗っていて、
爆薬を積んでいたからアメリカ軍の攻撃受けて2分で真っ二つになった船に乗っていた松岡さんという方の父からの手紙というのをおったもの。
「愛国丸」は大阪商船の船だったらしい。

私の祖父山本道三は、早稲田をでた後外交官になりたかったらしいが、大阪商船に勤務していた。
戦争中はだから、物資が結構に豊富だったらしい。
戦後四十代だったが、勤務先を辞めた。
そのことを祖母愛は愚痴っていたが、なんとなく、彼がなぜ仕事を辞めたのかわかったような気がして、なんとなく泣けてきた。

昨夜の情熱大陸で、谷川俊太郎が「戦争は無くならないもの」と考えると言っていた。
そう、今が「戦前」なのか「戦間」なのかと思うので敗戦も、終戦も多分解放も私にはしっくりこなかったんだろう。

今年の暮れに、母と母の一番下の妹は元大阪商船の船に乗って旅する計画を立てているらしい。
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追悼・前衛世代がまた亡くなった。

2015年08月15日 | アート他
一昨日から、いろいろとあったが。
昨日の午後、鴨居羊子の初期のパートナーさんだった森島瑛さんが亡くなったと、岡本太郎美術館から知らせがあった。
五年前に鴨居羊子展をした時に会った若手のキュレターの名刺が多分残っていて、娘さんが知らせてきてくれたようだ。
遅くにできた娘さん一家とも離れて暮らしていた。
新聞記者時代を通して、ダンディな人であったが、ついこの間まで地下鉄に乗って市内にでかけ、好きな画廊により、お酒を飲んで街を散歩していた。
享年93歳。東京芸大油画出身で、戦争中は出征して諜報部員だったという噂もある。戦後鴨居羊子と同じく大阪読売新聞を経て、鴨居が設立したチュニックの補佐役として鴨居の初期時代を支えた。鴨居羊子とは晩年決裂し、それを関西では司馬遼太郎さんなんかが不思議がっていた。
その司馬さんも亡くなって久しい。奥さんの緑さんも春に亡くなって、形見分けの品が実家に届いていた。
後からいろいろと調べていたら、結局今東光や司馬遼太郎や、鴨居羊子と岡本太郎をつなげたのはこの森島さんだったということもなんとなくわかった。本人は、たぶらかしていたが、岡本敏子さんの記録によると鴨居羊子より早くに森島さんと岡本が親交があったのがうかがえた。
私が最期に交わした会話は、夏前に暑くなった時に片山真理さんのテレビ番組をみてと電話して、そのあと、みたよ、面白かったな~ありゃすごいはという会話だった。
そのあと、母に「絵里ちゃんが電話くれて嬉しかったわ、それにあの片山真理ちゃんいうこもすごいな、面白い子がでてくるな」という電話もかかったらしい。
最期の日は、娘婿が昼ごはんを一緒に食べ、よく食べ、よく話して、あれはまだ相当長生きするねと帰宅した夜に近所の人から亡くなったという知らせが入ったという。
飄々とした人だったな。
岡本太郎が、万博のリサーチに大阪に来た時に同行したとか、そういう話の中身をもっと聞きたかったんだけど、まぁ、そういう話はなんかたぶらかされた。
そういえば、小林くんのキリンプラザでの白桃房のシンポジウムの会場でも偶然あったりしたな。80年代の後半だったっけ。
2月に大阪で展覧会やるときにはみてもらいたかったのにな。
なんだか、森島さんらしい。寂しいけれど。明るい、死だ。しかしやはり戦後前衛世代がまた一人逝ってしまった、喪失感は大きい。謹んでご冥福を祈る。
ちなみに、若手キュレーターは今東光の弟日出海さんの孫にあたる今は群馬の前橋アートセンターにいる、吉田くんの名刺です。私はいまさら名刺交換する仲でもなかったので、名刺渡してないし。彼のがあったのがなんか、面白い。

一日遅れて、でも、娘さんからハガキが届きました。

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