室井絵里のアート散歩

徒然現代美術&感じたこと、みたもの日記

お化け煙突のこと

2006年04月28日 | アート他
昭和三十九年に、取り壊されたお化け煙突のこと・・・その頃は、私はまだ四歳だったし、記憶おげろげ。関西にいたから、遠い東京のことだったけど、日本全国にまるで一本が四本に見えるというお化け煙突伝説は伝わった。それって、ちよっと前にはやった学校の花子さんとか、口裂け女、蜘蛛女もいたけど、という「都市伝説」の走りだったかも。私は、お化け煙突見たこと無いし、よくわからないけど。関東育ちの友達に世代変えて色々聞いてみたところ、多摩川からもそれは見えた・・かも知れない。ちよっと私の上の世代には。それは、一本だったり、四本だったりしたよと、多摩川からも。ということだ。でも、それって千住じゃなくて、川崎あたりだったんじゃない・・・とこの辺り「記憶」は「曖昧」の「水底」へ。それが取り壊されたのは「東京オリンピック」の年と符号する。東京オリンピックで、東京を、美麗都市にするということだったのか。私的には、その年子供心にガチャガチャチャンネル変えてもどれも同じ映像だということで怒り失望し、まわしたあげく高価なテレビのチャンネルを壊してしまって叱られたっけ。(sarunami)

今日二回目の唐ゼミ「お化け煙突物語」の本公演を見た。

唐さんが見られたのから、さらに一昨日私が拝見したゲネプロから、さらに進歩してたのはさすが。関さんもメイクもうまくお母さんらしくなってしたし、前田くんも息子みたいし、小川くんも着流しに気合はいって、よかった。彼のファンも多いみたいで。母のように?(現世の世代的には)嬉しくなった。

唐さんのお芝居、私は自分が青春時代から見ていて気になっていることが多数あるけれど。それは、その時に「起こった」
「事件」を芝居に取り入れているところ。唐さんのは、だから、現代の歌舞伎に通じるんだ・・・・。と、子供心に思ったがそういう感じ。それをどんどん破っていきつつ、ちょっと上の世代にも受けるのは「演出」の難しさかなと思うものの、そんなもんもん、「はねのけたら」いい。どんどん。

中野敦之演出は、時代とか、時代の雰囲気を少くらい(こうるさく?)言う、人たちをこえて、今日はテントで二十代から、六十代までうけてました。



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劇団唐ゼミ★第九回公演 お化け煙突物語

2006年04月26日 | アート他
劇団唐ゼミ★も、第九回目の公演となった昨秋の国立劇場を経て一年ぶりの青テントでの公演となる。今日は、そのゲネプロを見せていただいた。

横浜国立大学 特設テント  4/26,27,28  横浜駅西口からバス
新東京タワー建設予定地 特設テント 5/3,4,5 東部伊勢佐木線・業平橋から徒歩三分
吉浜町公演 特設テント 5/19,20,21 JR石川町・徒歩二分
いずれも十八時半開場、十九時開演。

karazemi@yafoo.co.jp

昭和三十九年になくなったという、下町千住のシンボルであったお化け煙突、四本の煙突が見るところからによって一本に見えたり、二本になったり、三本になったりしたという。
メチルアルコールを売り、息子を育てた「母」と、そのメチルアルコールによって盲人になった三人の盲人。

国鉄に勤め、従軍していた彼らと、彼らを「慰問」に行った玉ノ井の女郎と、その育ての母に育てられた主人公江ノ島カイ。
ひよっとして、この主人公カイは戦争孤児だったかもとか、カイとかって工場で手の肉を分け合った金田は何者?
と、またトロッコになった病院のベットに入院していた女と、その妹など、何か、お化け煙突とともに時代の大きなうねりを感じさせる作品だ。初演は、1981年。「戦後は遠くなりにけりと」という言葉が使われ始めた頃ではなかったか。

主人公カイ役の、椎野裕美子ははじめに出て来る時の男装の麗人から、女郎の娘とさげすまれることを恐れつつ、金田に憧れながら工場で働いていた娘の雰囲気と、また、人をさす魅力をもつ「眼力」をもった女性の魅力をうまく演じていた。歌も踊りもうまい。金田役の渡辺幸作も、はじめから意図して近づいてきたカイに、知らずに魅かれていくという少しふがいないような二枚目のイメージがぴったり。この二人の名前がドイツ語の男女の名前として入れ替わるという、逸話も唐さんっぽい。

三人の盲人の中では、杉山雄樹の蝉丸が圧巻だった。一瞬にして時代と場の雰囲気を変えてしまうのはさすがだ。上野のお猿の電車の車掌役の安達俊信はお猿を連れてお化け煙突に登ったものの、そこで目が見えなくなって猿を煙突の奈落に落としてしまった役で、ちよっと泣ける。盲人に見えないようなかっこのいい伊吹卓光も、それがかえっていい雰囲気を誘っている。

また、入院患者の古川望とその姉につきそっている禿恵のなんか「昭和~」という雰囲気が面白い。昔の病院は、結構長く入院していることができたし、入院患者の中には色々と面白い人もいた。(自分が高校の頃入院していた時でも、なんか患者は変な人ばかり。詩人とか、二輪のレーサーとか。癌の母につきそっている娘とか。そういう人たちと一ヶ月あまりも一緒に生活していたっけか)そういう人のもつ「物語」が、今の病院からすっかり失われているが、その風情がこの二人によって作り出されている。

少しだけ残念だったのは、関緑の「母」の役が「母」のようにおぞましくなかったところ。後、前田裕巳の息子がもう少し変で時にはもう少し少年ぽくてもいいかも。この二人の絡みは、重要なんだけど、それがまだ見えにくい。

また、ラストシーンで金田をおいて去るカイを迎えに来る役の小川尊も、着流しでかなり身を持ち崩した風はかっこがいいのだが、それまでに出ていた医者と盲人の琵琶弾きという群部の役とのイメージとの演じ分けが難しいのかな。一目で惚れさせてしまい、向こう、東京ゼロ地帯へと、カイをさらって行く位のラストシーンにおける重要な気迫がまだ見られない。渡辺の金田役と、一瞬にして拮抗する位の力を発揮してくれたらもっといいかなと思う。いずれにせよ、他の役者さんも明日から本番に入り、日々変化していく舞台が楽しみ!です。唐組の春公演と同時期に、二つの作品を見るのは贅沢な楽しみ方でもあります。

夜はまだまだ冷えるので、暖かくしてぜひおでかけください。



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To The Human Future Flight From The Dark Side展

2006年04月24日 | アート他
水戸芸術館 5月7日まで

水戸芸術館 逢坂恵里子さん企画。

第一室のアントニー・ゴームリの作品は、まるでイルージョンのようにも見え、これまで見た彼の作品の中で最も面白いと思えた。人間の肉体は、決して確固たる固まりではないから、それがよく表現されていたと思う。また、ヴィル・ヴィオラの作品は、男女が二分されて水に顔をつてけいくものだが、水と、鏡面、それと画面の問題がよくあらわされていた。

さて、他に展示で気がついたのはジェームズ・ナクトウェイと広河隆一の写真作品が一室に展示されていることだ。どちらが良いではなく、同じような現実を映した写真であっても、日本的感性で撮られたものはある「象徴性」がそこにみてとれる。だが、ナクトウェイはもっと「現実的」な構図である。そういう対比は、こうして改めてみると興味深い。

今回、新作を発表したスゥ・ドーホーの作品は、見せているものが落下傘とその下に首から下の身体であるにも関わらず、なぜか解放された空間を作っていたのが印象的だ。これは、多分この展覧会全体のもつ二犠牲をあらわしていたんだろ。

会場には谷川俊太郎、トルストイ、茨木のりこなどの文章が、展示の意味を補うために提示されているのが、私的には気になった。これは余計ではないか。対比していくという意味ではわかるのだが、言葉や、意味の説明で補わなければならない「作品」は、やはり美術作品としては劣る。従って、自ら展示を「言葉」で補うことじたいは、美術館にせよ、美術の現場として私は緩やかな自殺行為のように思える。展示だけで、十分に訴えかけてくるものがあるのにもったいない。

まー、美術館に来る一般の方々のためにこうしたのかな。でも、一般の人を侮ってはいけない。感性の鋭い人は、たくさんいるんだから。ついみせる側は、説明したり、言葉で補おうと思うが、それが啓蒙する側と、啓蒙される側みたいな構造を生みがちであるということを見せる側は忘れてはならないということではないだろうか。人類の未来、それに対する慈悲に満ちた気持ちを逆説的に展示されている。そこから感じたのは、そして、私は同時にそもそもダークサイドから、逃走しなければならないのか、ダークサイドに、身を投じてもいいのかも、首が無くても光の方に昇華されるのも、首無くてもいいんじゃないのか。そういうことを、考えさせられました。




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危ない、私の感覚。

2006年04月24日 | アート他
最近防犯に効果があるからということで、奈良市と広島市で外灯を青色蛍光灯に変えるというニュースをテレビでみた。

2年にわたるマンションの理事長職の中で、これが私的にヒットしてしまった・・・らしい。

現代美術の仕事をしているせいか、好きとか嫌いの前にこのテレビの映像がすごく「シュール」と思ってしまったようで、あ、これ共用部分といっても恒常的な変更じゃないんからいいかなーと、自分の棟の目の前の駐輪場に取り入れてみた。
これが、結構すごい反発をくらっている。そりゃ、寒色嫌いの人もいるので当たり前だ。

さて、色の問題は面白い。だって、チベット密教の世界では、青と白の仏様の色が混ざることでそれは金色になる。金色は暖色かも。色が統一されることなく、色々混ざっている今の日本の街並って、意外と、統一されているよりいいのかもしれない。
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ちよっと、お金出してみたので本音

2006年04月19日 | アート他
最近唐さんのお芝居を招待してもらっているけど。美術も関係者だから、招待されていることが多い。だけど、本当はどっちもお金を払ってみることが、私的には正しいと思う。最近、高いなぁ七千円と思いつつ、三田佳子さん主演の「秘密の花園」を北千住でみた。舞台美術は、朝倉摂、この1010シアーターを作った時に助言した人も、多分朝倉さん。

今回の、三田さん主演はこういう絡みが多かった。
唐さんのお譲さんも、可愛い踊り子の役で出ていた。

そういうのは、一切ともかくとして。三田さんの台詞まわしが、新劇ぼくて・・・このお芝居、意外と新橋演舞場あたりでも可能かもと思った。それは、唐さんが望んでいるか、いないかはともかくとして、単なる可能性としてはあり得るのかもと思えたのだ。

だって、唐さんのお芝居どこか泉鏡花に通じるところがあるし。それは、水とか、光。それは、舞台ではスペクタル性として表現可能だということを、今回みてとれた。

トイレ休憩で、横のご婦人が「女の一生を思い出したわ」と言っていた。それが誰の作といえば、林芙美子、誰の主演かは森光子だけど。

単に年齢だけを重ねたのが良いとはいえまい。

三田さんの二役の一葉は、樋口の一葉さんを連想させる。一葉さん、若くして死んだが確か、秘密の花園の舞台の日暮里あたりで生きていた。

舞台美術の、摂サンも、おじょう育ちだが日暮里育ち。
主役の三田さんは、大阪生まれ。
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「秘密の花園」三田佳子主演

2006年04月16日 | アート他
昨日、北千住の丸井十一階、1010シアターではじまった唐十郎作「秘密の花園」三田佳子主演版の初日に行った。高橋康夫プデュース、演出三枝健起、相手役に大澄賢也、梁山泊の金守珍、状況のメンバーでもあった十貫寺梅軒、大久保鷹など状況ファンにも嬉しい顔ぶれ。もう1人、唐さんの愛娘で、最近金守珍作の映画「ガラスの使徒」でデビューもした、大鶴美仁音が新しく付け加えられた「まほろば」という、オルゴールの中のバレエを踊るお人形の少女の役で参加している。
中学生ながらも、バレエ歴十一年で、台詞はないが他の俳優さんたちにひけをとらない舞台ぶりで、ラストシーンにも重要な印象を与えていた。

また、舞台美術の朝倉摂の舞台の作りが、私がこれまでみた唐のテント芝居以外の舞台の中では一番シンプルに良かった。部屋がある時はまわりに本当に花をつけた樹木のある、どこか森の奥の部屋のように見え、一転最後に部屋が消えたら、そこはただ下町の道のはずれだったとしか見えない。何か、呪文にかかって主人公が通っていた2年間の記憶とそれがまさしく「秘密」の「花園」だったのだという印象が強く残った。三田佳子さんも、二役でずっぱりの役への挑戦で、ずいぶん痩せたとのこと。私個人は、三田さんのは姉の双葉役の方が俄然好きだった。一葉については、初演の緑魔子さんのみたいにも見えたりして、私は三田さんの貴婦人みたいな毅然とした雰囲気の方が多分好きなんだろうな。
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初日のパーティで、朝倉さんと少し舞台についてお話した。「舞台設定の日暮里の辺りは、私の生まれ育った家のあるところなので、そう。楽しんでそんなイメージを作りやすかったのよ。」と楽しそうに話しておられた。唐さんも朝倉さんの舞台には楽しんでおられて「せっちゃん、ありがとう」と言ってらしたのが印象的だった。
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浜松市・秋野不矩美術館

2006年04月15日 | アート他
掛川あるいは、浜松から天竜浜名湖線で小一時間。日本画家、秋野ふくさんの生誕地である、天竜にある美術館。
建築家藤森照信が、隅々まで建材にまで気を配り、山の中腹に贅沢に建てられている。素足で、木の敷物の上や、薄い大理石を敷き詰めた部屋を歩き、気に入った絵の前でじっと座って見ることもできる。

生前の秋野さんの京都・北山美山のアトリエに伺ったことを思い出した。周囲の雰囲気、美術館内の雰囲気も同じ空気を醸し出している。また、秋野さんが好んで描いたインドの土の家のようでもある。

非常に不便なところに建てられているにもかかわらず、訪れる人も多く、また、小さいながらも濃密な時間を過ごすことのできる美術館でした。
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鈴木治作品展-抽象陶芸と用の器 展

2006年04月14日 | アート他
掛川の資生堂アートハウス  7月2日まで、無料。

京都の前衛陶芸家の集まりであった、走泥社の八木一夫と並ぶ鈴木治の陶芸作品の没後初の個展。
掛川の資生堂アートハウスは、ゆったりとした敷地で建物としてもかなり余裕がある。鈴木治は、抽象的な陶芸作品を作っていたが、私の実家でも使っている用の器も結構たくさん作っている。

実は、結婚の祝いにいただいた青色青磁の花入れと、私が小さい頃鈴木さんの展覧会で見て気に入った抽象的な花入れは大切にしているので、この展覧会色々と考えさせられた。

これを企画したキュレーターの福島さんは、鈴木のお宅でもてなされた様々な器を、鈴木が焼いたものというのに驚き、そういうものを作っていたことが広く知られていなかったと感じたということだ。

私は、少し見解が異なる。つまり、先に私がもっている花器からだ。

花器という意味では、後年結婚祝いにいただいた青磁のものは形も完成され、美しい。
一方、子供の頃展覧会会場からいただいて来た方は、片口が欠けていて、花入れとしては使いずらい。模様も抽象的だ。
ちなみに、子供の頃頂いた花入のいきさつ。展覧会会場で「絵里ちゃんどれが好きや」と聞かれて、私は頂いたのと同じ形だけれど、白いゆうやくのかかってない茶色に青の模様の方を指して「これが好き」と言った。「ほーそーかー」と言われて、後日「あれは売れてしもたさかい」と、同じ形だが、白い薬で青い模様の作品が送られてきた。今思えば、鈴木がてがけた泥象の作品の土色と同じ土色の方を私は好きだと言ったわけだが。その上に青を使っていた、あの作品のことは今でも鮮明に記憶している。私は、鈴木は、形の人であると同時に色の人だったと思う。

用とか用でないは、鈴木にとっては二の次であっただろうし、用と抽象は作家にとっては分けるべきものでなく、一連の作業のうちであっただろう。だが、用と抽象を二分してしまう見てへの配慮から、作家は生前はそのことを分けて発表もしていた。

さて、鈴木さんの談の中に゛八木一夫さんが私の仕事を見てね「陶器やなくて衛生食器作っているみたいや」と言いまして゛が笑えた。INAXとかTOTOのは衛生陶器らしいけれど。鈴木さんも八木さんも京都の陶芸家であり、時代に反した前衛家であり、また、京都芸大の「構想設計学科」を作る構想もした、大学人でもある。去年、八木一夫については京都近美と、庭園美術館で没後二十数年目の大規模な回顧展があった。しかし、もっと深く走泥社を作り、解散したこの人たちのことを考えてみる展覧会があってもいいのかもしれない。

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チェ・ウラム展

2006年04月13日 | アート他
森美術館で開催中の「東京ベルリン展」の一部屋・森美術館・ギャラリー2で見られる韓国人作家の作品。5月7日まで。

工芸と工業、静と動。あるいは生殖とその結果みたいな・・・作品。

機械的に動く作品は、何かを求めているようで、それに応えているのも何かに応えているようで、実は何も結実しないというシュールさがあった。機械的には、ちゃんと動いていて、テクノロジーアートとしては百点に近い。その意味で、いたって工芸的。もっと広い空間での展示があったら面白かったのになぁ。
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The Art of Passat-ism

2006年04月12日 | アート他
丸の内界隈の、丸ビル、丸の内 MY PLAZA、丸の内オアゾの三つのビルの一階エントランスで、それぞれフォルクス・ワーゲンの新車の展示と、14人の現代美術の作家たちの作品が展示されるという企画。 4月8日に終了。

最近すっかり高級になった感の丸の内界隈の散歩と、「風」がテーマになっているそうだがワーゲンの新車も楽しめた。さすがワーゲン、かっこいいなぁ。つい、ミーハーなので車に乗ってみたりしてしまいました。

作品の方は、沖啓介さんのビデオインスタレーション、タムラサトルさんの山が山を登る白いマシーン、片山雅史さんの千個の光の絵画作品など中堅の実力派作家の作品が並ぶ。

中国の作家、谷文進のニューヨークで集めたという人毛によって作られた世界188カ国の国旗、の作品は天井から吊るされて圧巻だった。

さて、これを企画されたギャラリスト上田さんの文章。゛アーティストよ「画廊を捨てよ。町へ出よう」゛これは、寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』から思い浮かんだということ。

寺山修司のこの本については、私は中学生から高校生の頃、ちよっとバイブル的な書物だった。その意味では、三十年経っても変わらないというのには、同感できるものもあるし、町に出ようというのは、これじゃないかもという思いもある。うーむ。実は、免許もってないけど。持っていたら、スピード狂だし、危ない奴を自覚している私。風は、実は二輪の方が切れるし。
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東京ベルリン/ベルリン東京展

2006年04月12日 | アート他
東京ベルリン/ベルリン東京展  森美術館 5月7日まで

日本におけるドイツ年を記念して企画された展覧会。ドイツのベルリンと東京という二つの戦渦にあった都市での、芸術の交流の歴史や、それぞれの都市での当時の様子などを11のセクションに分けて展示している。
近代美術や、建築、演劇、前衛美術、現代までをそれぞれの都市で発生した様子を追っている。大規模な展示で、双方の関係性も追うことができる。
コンテンポラリーアートのセクションでは、ベルリン側の作家の作品展示だけになっていたのが少し気になった、来年のベルリンで開催する時は、逆にここには日本の作家が紹介されるのだろうか。
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湘南の生シラス丼

2006年04月02日 | アート他
先日ご近所の先輩が「春になるとシラス丼を食べにいくのよね」と話してくれた。湘南地方、特に腰越漁港でシラス漁が解禁になるこの季節から、腰越や対岸の江ノ島では生シラス丼が食べられる。そのことは、前から聞いていてもともとジャコ好きなので憧れていたし、この数日頭の中が生シラス丼でいっぱいになっていた。

江ノ島も行ったことないしなぁと、行ってみた。風が強いと生シラスはあがらないそうなので、今日の雲行きが心配だったけど。

インターネットと流行のオシャレな店ではなく、オーソドックスに食べたかったのであえて裏道の民宿の食堂に。
一日五食限定の生シラス丼と、生シラスのかき揚げ(生シラスと玉ねぎの相性が美味!)と、江ノ島ビールで満足した。

江ノ島では、弁財天と岩屋にも行って、ミニ観光気分も味わった。
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Rodin Carriere/ロダン カリエール 展

2006年04月02日 | アート他
VOCA展のついでに、上野の国立西洋美術館で開催中の「ロダン カリエール展」へ 6/4まで。

ロダンは「考える人」などで日本でもおなじみの、フランス近代彫刻のオーギュスト・ロダン、そのロダンより十歳近く若いが十九世紀末のフランスの象徴主義の作家としてロダンとも親交の深かった画家ウジューヌ・カリエールの展覧会。

二人の素描や、彫刻、絵画など交流の軌跡もみえるような展覧会となっている。滋味だが、興味深い展覧会だ。

ところで、ロダンの作品はやはり力がある。二人の作品をこうして改めて並べてみると、カリエールの作風はロダンにものすごく影響を受けていたことが伺い知れる。カリエールのボーとした曖昧模糊とした雰囲気は、昔の日本の人にも受けたのか、詩人谷川俊太郎の父の哲学者が゜、カリエールを必ず再評価される画家として評価していたらしい。

そんなこと知れたので、楽しかった。

ただ、カリエールの作品で「習作」とタイトルにあるのが気になった。だって、習作とそれ以外に大差ないしなぁ。習作にだってサインはある。だいたい作家にとって、未完と完結はどこにあるのだろうか。
習作とはなんぞや、と、誰が習作って決めたのってのが気になった。今度「習作」について研究してみなければ。

上野の森はその日ちよっと寒かったが満開の桜と花見の人を堪能し、東照宮別院にも行ってみた。
予定していたプラド美術館展は、まープラドに行ったことあるしパスして、そのまま秋葉原まで歩いて、流行のメイドカフェのかわいいお姉さんにチラシをもらったりして、なんか美術と巷を堪能してしまった。
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VOCA展

2006年04月01日 | アート他
The Vision Of Contemporary Art 2006    3/30まで、上野の森美術館

主に平面の今日ということで、日本全国の批評家・ジャーナリスト、美術館学芸員らが推薦者になり四十歳以下のアーティストを推薦し、賞が与えられるというVOCA展も今年で十三回。
若手作家の登竜門的な展覧会としても、注目されてきた。

関係者的には、推薦者とその言葉を確認しながら観るというのもなかなか面白い。

今回私的にヒットしたのは、熊本県立現代美術館の若き館長・南嶌宏氏が推薦した横山博之さんの油彩。タイトルは「私は絵を描く」だ。絵の具が投げつけられたようにもみえる、抽象絵画は、六十年代の「具体」の描いていたハプニング絵画みたいでもあり、力強い。計算されているのか、されていないのかわからないが人をひきつける力強さをもっているのだ。
会場の他の作品が、チマチマとまとまっているのに(失礼)比べて、身体ごと「絵」に惹き付けられるていくような強度がある。

カタログの文章を読んで、思わず笑えた。

この作品はすでに存在している「絵」をモティーフに描かれているという。その作者はなんとコンゴというチンパンジー。つまりチンパンジーが描いたであるということだ。

チンパンジーに絵筆を渡す人の意図とか、色の選択はどうなっているのかなどと小難しく考えてしまうところを止めにして、人間の絵画論とは無縁のチンパンジー君の行いの結果とそれをモティーフにしたこの作品について、南嶌さんは「・・・私たち人間の絵画論などとは無縁の地平から立ち上がる、殴り描きともいうべき動作のの痕跡にさえも、概念というにはもっと濡れた観念に近い実存として、私たちが先験的に捉えて来た「絵」を刷り込ませようとする。その暴力的な根拠について、画家という立場から、その解明をはかろうとするのである。・・・」との述べている。

個人的には、熊本在住のこの作家をここに推薦している南嶌さんにエールを送りたいな。
作品がもつも批評性にもエールを送りたいが、残念ながら賞は逃がした。賞の選者ってセンス無いなぁ。

今年のVOCA賞は小西真奈さんの作品。実際の景色をベースにした風景画を描いている。写真の蜷川実花さんの作品など、文字通り写真作品も増え、VOCAの絵画的要素は薄れてきているように思えた。
小西さんの作品は、夢の中のワンシーンみたいで画面の奥深く広がる風景の中に描かれている人物に目が吸い寄せられるし、技術的にも高度だと思う。ただ、どうも人を立ち止まらせる力には欠けるんじゃないのかなというのが、私には少し物足りないところだ。ま、今注目をあびている小西さんの受賞は妥当なのかもしれないが。
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