江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

空知集治監の開設

2008年07月10日 | 歴史・文化
 江別迄の鉄道工事が竣工し、札幌・江別間の仮運輸が始められた明治15(1882)年7月、幌内炭山に近い市来知(いちきしり)村に空知集治監が設けられました。

 市来知(いちきしり)村の空知集治監の収容囚徒は、定数1,200名でしたが、最大で3,000名を収容できる大規模なもので、幌内炭山の労働力の補給源としての設置でした。囚徒の多くは刑期12年以上終身刑までの者で、炭山使役ということで過半数は2,30歳代の屈強な者が選ばれていました。それでも坑内作業は12時間交代制で、しかも十分な補強もされていない枝杭での採炭作業でしたから、打撲や崩落による事故が頻発し、負傷者も多かったようです。このため、逃走を図る者が多く、開坑以来10年間で354名が脱監、このうち就縛173名、斬殺66名で、残り115名が逃走に成功していました。

 樺戸集治監の脱監は235名で、うち就縛160名、斬殺32名で逃走に成功したのは43名だから、樺戸に比べると空知集治の逃走成功率は、非常に高い。樺戸集治監の背面は山岳・原生林地帯、前面は石狩川という地形上の問題で逃走を防いでいるのに対して、空知集治監の場合は札幌・小樽へ向かうに便利な鉄道路線が通っていることが逃走の意思をかき立てていました。

 逃走した囚徒は、幌内鉄道の線路上をひた走り江別へ向かいました。そして、江別停車場を望む千歳川(江別川)の東岸に身を潜めて、鉄道橋突破のチャンスを窺うのが常でした。
 
 幌内炭山の開坑と幌内鉄道の開通、そして、空知集治監の開設は、札幌周辺の治安維持に新たな問題を提起したのでした。江別分隊の屯田兵十戸では力不足の感は否めませんでした。
(参考)当ブログ7月 5日(土)「対雁郵便局から江別郵便局」
    当ブログ7月 4日(金)「駅逓所開設」
    当ブログ7月 2日(水)「札幌ー対雁ー江別ー岩見沢道路開通」
    当ブログ6月24日(水)「石狩川沿岸」
    当ブログ6月22日(月)「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅誕生
    当ブログ6月18日(水)「わが国におけ電信の始まり」
    当ブログ6月12日(木)「村名選定ー江別村」

註)「江別屯田兵村百二十年の歩み」江別屯田兵村遺族会, 26-27頁。
写真:「野幌(大麻)大橋梁を走る石炭列車」
   江別市郷土資料館2008年複写許可を得て掲載いたしております。
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