真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ニッポンの猥褻 好色一代記」(1993『ニッポンの猥褻』の2008年旧作改題版/製作・配給:新東宝映画/監督:深町章/脚本:瀬々敬久/製作:田中岩夫/撮影:稲吉雅志/照明:渡波洋行/編集:酒井正次/助監督:原田兼一郎/監督助手:榎本敏郎・徳永恵実子/撮影助手:小山田勝治/照明助手村上真也スチール:津田一郎/録音:銀座サウンド/現像:東映化学/出演:橋本杏子・アイリーン・林由美香・石川恵美・岸加奈子・山本竜二・池島ゆたか・平賀勘一・清水大敬・荒木太一・快楽亭ブラック・久保新二)。出演者中荒木太一が、(今回?)新版ポスターには荒木太郎。同じくポスターには謳はれないが、今作は新東宝映画創立三十周年記念作品とのこと。因みに、四十周年はといふとこちら
 御馴染み水上荘にて自伝『ニッポンの猥褻―我が半性 性学者橋本鉄』の執筆に取り組む性学者・橋本鉄(久保)を、編集者に乞はれ様子を見に来た娘の知佳(林)が訪ねる。既に勃たなくなつてはゐるが、鉄は文学のモチベーションにと大胆にも知佳の女陰に顔を埋めつつ、来し方を振り返る。
 大正元年、鉄六歳の時。ここでの子役が、荒木太一なのか?オープニング・クレジットに荒木太一といふ名前を見た際には、荒木太郎の旧名義かとも思つたのだが、ここに少年鉄として登場するのは、明らかに荒木太郎とは別人で実際の子供だ。軍人の父・貫平(清水)は明治天皇崩御に続く乃木大将夫妻の殉死に被れ、自らも妻のイネ(岸)と自害しようと意気込みながら、どちらが先かと刀を奪ひ合ふ内に、指先を切つただけで元来腑抜けの貫平は怖気づき、その場の勢ひでイネと致すと後追ひなんぞ何処吹く風、二人性の悦びと生の喜びとを噛み締める。一方、そんな両親の様を襖越しに目撃した鉄は性に目覚め、自慰を覚える。本来この件は鉄の原体験といふトピックに加へ、安吾の『堕落論』にも通ずる、浅墓な精神主義に対するありのまゝの人間性の優位を描いた重要なシークエンスであつたのではないかとも思はれつつ、清水大敬に負けてしまひ、貫平の無様さ不甲斐なさばかりが際立つた感は惜しい。
 続いて鉄十七歳の時、以降鉄役久保チン。平賀勘一は、当時橋本家に出入りし依然童貞の鉄を導く、明確に宮武外骨をモデルとした宮滝骸骨。別に、外骨その人で別に構はなかつたやうな気もしないではない。骸骨は鉄に、伊耶那岐命(久保チン)と伊耶那美命(橋本)とが、ヤリ方が判らないゆゑ鳥の交尾を真似た後背位で、いはゆる国産みに挑んだエピソードを語る。恐らくは間違ひなく、ピンク映画史上最大のスケールを誇る濡れ場であらう、何せ国産みである。新東宝創立三十周年記念も伊達ではない、瀬々敬久書くも書いたり、深町章撮るも撮つたり。骸骨は鉄が童貞であるのを看破すると、鉄を浅草十二階下の私娼窟へと連れて行く。そこで鉄の筆を卸して呉れる娼婦・クララが、橋本杏子の二役。私娼窟に踏み込み、春本を出版した咎で骸骨を連行する憲兵二人組(山本竜二と池島ゆたか)に、クララは着物の裾を自ら肌蹴ると「ここ―女性性器―が猥褻だつてのかい!?あんた達もここから産まれて来たんだよ!」とエモーショナルな啖呵を切る。ところで、憲兵はクララの方はショッ引かなくてもいいのか?直後に関東大震災で私娼窟は壊滅、クララは行方不明になる一方、以来鉄にとつて橋本杏子は運命の女に、猥褻とは何かといふ問題は生涯を通じて探求するテーマとなる。橋本杏子の熱演が素直に胸を打つクララ、と小ネタが箆棒にデカい骸骨篇が、今作中最も力を得たパート。
 二・二六事件の戒厳令下、待合にて既に相手を帰した鉄と、未だ来ぬ相手を待つ女(石川)とはその場の成り行きで体を合はせる。一物をチョン切らうとしてみせたり互ひに首を絞め合つたりと、妙にアグレッシブで猟奇的な女のセックスに鉄は舌を巻くが、女の正体はほどなく世間を騒がせる阿部定であつた。女が待つシルエットしか見せぬ男とは、無論吉蔵といふ寸法である。バラエティといふ面に於いて豊かではあれ、正直阿部定篇は、風俗映画といふ色合に止(とど)まる。
 大東亜戦争敗戦後、鉄は性に悩める男女のためのクリニックを開業する。ハーフの容姿を買はれた快楽亭ブラックは、クリニックに相談に訪れるMP・ジョージ。何処の誰なのか晴れやかに判らないアイリーンは、その妻・キャシー。このアイリーンが女優部最小の貧乳を誇る―別に誇つてゐる訳ではない―点については、ここは折角本物のパツキンを連れて来た以上、形はさて措きせめて如何にもといつた大きさが欲しいところではあり、大いに画竜点睛を欠くといへよう。件全般的にも、ジョージが自らはマゾヒストであるのではないかといふ疑念を抱き、だとすると、さういふ変態性癖はお堅いマッカーサーに嫌はれるのではないか、といふ鉄を訪ねた動機自体は奮つてゐるものの、結局その後の久保チンと快楽亭ブラックの文字通りアイリーンを間に挟んでの大騒ぎは、単なるコントである。なほ恐ろしく余談ではあるが、鉄とジョージが代る代るキャシーに咥へさせるカットは、恐らく生尺を吹かせてゐる。
 その後、時代の移り変りに伴ふ、風紀の紊乱に疲れを覚え山村に閑居した鉄は、ディスカバー・ジャパンだとかいふ方便でそんな片田舎を「戦争を知らない子供たち」を歌ひながらホッつき歩く、クララそつくりのヒッピー娘・幸子(橋本杏子の三役)と出会ふ。鉄は幸子との間に子を設けるが、幸子は知佳を早産で生むと、それまでの荒淫が祟つたか、産後の肥立ちが悪く赤子を鉄に遺し早世する。今際の間際の幸子は鉄に、知佳が実は鉄の娘ではない旨を明かす。
 結局堂々と全篇をトレースしてのけたが、再び現在。書きかけの『ニッポンの猥褻』を読み自身の出生の秘密を知つた知佳が涙を落とす傍ら、呑気に寝呆けてゐた鉄は目を覚ます。すると鉄は猥褻の本質とは、自分にとつて唯一残されたフロンティアである近親相姦であるなどとやをら思ひ立ち、正確には義理の娘に猛然と襲ひかゝるものの、まんまと撃退されるストップ・モーションがラスト・ショットである。尤も、事ここに至ると、大きな疑問が残らぬでもない。まづ第一に、猥褻の本質とは近親相姦であるといふ勇敢な飛躍に、如何せん躓かざるを得ない。それは単に、類型の範疇に過ぎぬのではないか。仮にこの場合父と娘といふ、関係ないし禁忌こそが猥褻といふ概念の根幹を成すといふのであれば、極論すると正当な夫婦同士であつたならば、白昼公衆の面前で夫婦の生活をオッ始めたとて構はないのか、といふ話になる、さうはなるまい。そもそも、よしんば近親姦のタブーこそが猥褻の本質であつたとしても、だとすればなほのこと蛇足にも思へるのは、知佳の父親が鉄ではないと、わざわざ文字通り言ひ残して幸子は死んだのである。鉄と知佳による近親相姦は、厳密には単なる連れ子であるといふ意味に於いては、いはば擬似に過ぎないともいへよう。いよいよお話を畳む段に及んでのちぐはぐさが、いや増すばかりである。大体が猥褻とは何か、何を以てして猥褻となすのかなどといふテーマ自体、端からから固定的な概念でもなければ実質的な価値基準でもなく、いつてみればその時々、個別の事案事案によつても変化する社会政策上の方便である、といつた側面の方がより重要でもあるのではないか。個別の当該作品が規制されるや否やに関しては、議論も分かれゝば利害も絡み、呑み込める呑み込めないは当然あるにせよ、所詮は水物。さう割り切つてしまへば、放つた下駄が明日の天気が晴れと教へて呉れるか雨と教へて呉れるか、といつた物の弾みと殆ど変りもない話で、無闇に余計な腹を立てるまでもあるまい。それは当否や是非以前に、より運不運に近しい事柄でもなからうか。

 云々とルーズな与太を吹いてしまつたが、徒に些末なんぞ囚はれずサラリとおとなしく観る分には、折々のスターや果ては神様をも引き連れた久保新二が、激動の大正・昭和といふ時代を、あまつさへ時空すら超えて下心を頼りに賑々しく駆け抜けて行く一代記は、スケール感も感じさせ矢張り見応へがある。正しく周年記念に相応しい、ピンク―にしては堂々たる―大作といふに吝かではない。それでゐて最終的には、林由美香にブッ飛ばされた久保チンの情けない表情で締め括つてみせる辺りが、また天晴ではないか。野上正義とのW主演によるピンク映画版「真夜中のカーボーイ」、「髪結ひ未亡人 むさぼる快楽」(1999/監督:川村真一/脚本:友松直之・大河原ちさと/2002年に『愛染恭子 むさぼる未亡人』と改題)と同様、久保新二を語る上で欠かせない一作であるにさうゐない。


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