真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「催眠エクスタシー 覗かれた性交癖」(2007/製作:旦々舎/提供:オーピー映画/脚本・監督:山﨑邦紀/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:大江泰介・関将史/助監督:横江宏樹・小山悟/編集:㈲フィルム・クラフト/音楽:中空龍/挿入歌:廣川雅規/録音:シネキャビン/現像:東映ラボ・テック/キャスティング協力:株式会社スタジオビコロール/出演:北川絵美・佐々木麻由子・荒木太郎・吉岡睦雄・三浦漣徳・佐々木基子)。
 キャリーバック片手に、“眠らない女”微睡(まどろみ/北川絵美)が街々の風景をデジカメに収めて歩く。自称全く眠らない微睡は、自分は人間の母親から生まれて来たのではなく何か宇宙から落ちて来た生命体で、眠らない分、人の二倍の速さで加齢して行くといふ幻想に囚はれてゐた。背景の電話ボックスから、ロボットダンスのやうにせり上がりながらカット・インする小業を見せつつ、ガリバー(荒木)が微睡に熱い視線を注ぐ。ガリバーはガリバーで、本来ならばいはゆる巨根とされるサイズの自らの男性自身が、徐々に収縮し、やがては消失するに至るといふ恐怖に怯えてゐた。ところで微睡がシャッターを切る毎に淫靡な妄想に震へるのは、女の裸を見せる方便といへばそれまででもあれ、狂ほしいほどにまるで意味がない。
 一方オットー・ランクの肖像が掲げられた、リバース研究所。勿論御馴染み浜野佐知の自宅こと旦々舎総本山であるのは、この期にいふまでもあるまい。所長・アヤメ(佐々木基子)の下、窒息状態に快楽を覚える県会議員候補・グルジア(三浦)、自分のヴァギナは締めつけが甚だしく、男の一物を押し潰してしまふといふ強迫観念に苛まされる弁護士・東堂切子(佐々木麻由子)、苛烈な拘束状態に喜悦する医師・網雄(吉岡)らが催眠治療を受けてゐた。
 後に破門されるやうな形で袂を分かつものの、いはゆるフロイト一派の精神分析家・オットー・ランク(1884~1939)。今作はランクの提唱したバーストラウマ理論を大胆に採用した、といふか詰まるところはさしたる工夫も欠き都合よく援用した、山﨑邦紀十八番の奇人博覧会、あるいは変態さん大集合である。
 その道に勿論通じてゐる訳でもないゆゑ適当にザックリ片づけると、バーストラウマ理論にあつては、誕生から出産までを四つの過程に分類する。第一過程:母親と完全に一体化した、至福の状態。第二過程:子宮の中で成長するにつけ、段々と窮屈さを覚えて来る期間。少なくとも今作に於いては最も重要視される第三過程は正に出産の過程で、胎児は産道で激しく締めつけられ、圧迫される。そして最終の第四過程では終に外界に剥き出され、圧迫からは解放される。それは同時に、母親との一体感の喪失と独り世界に取り残された孤独とを意味する。バーストラウマ理論とは要は第二過程以降の心理的、肉体的ストレスがトラウマとなり、その後の個々人の人生を大きく左右するとかいふ理論である。変態性行や神経症を“失敗した芸術”と捉へるランクの発言も、繰り返し引用される。
 様々な奇想、怪思想に支配され、現実社会からは零れ落ち気味の変人達が組んづ解れつの狂想曲を奏でる桃色万華。さういへば、何時もの山﨑邦紀にとつてはお家芸であるかのやうにも一見思へるが、今作は実に底が浅く、芸がない。各々の妄想、イデオロギー、あるいは特殊性癖はバーストラウマ理論、の通俗的換骨奪胎の枠内に予め押し込められ、しかもガリバー含め微睡以外は、既に専門家の治療下にすら置かれてゐる、物語に想像力の働く余地といふ意味での遊びがまるでない。加へて、そこに外から現れた微睡の登場によつて、六十億ある人の心が抱へた種々多々の問題を、出来合ひの一理論で整理づけ、解決して行かうとする浅墓な営みを蹴倒すダイナミズムが開陳されるとでもいふのならば兎も角。結局ガリバーに誘(いざな)はれた微睡も、切子らの協力を受けアヤメの治療を受けるといふ展開には何の面白味も感じられない。微睡との語らひの中でガリバーが繰り出す、父親との関係を重視したフロイトに対し、母親とのそれに重きを置いたランクの方がより東洋的で、日本的であるなどとする発言に至つては、黙つて聞き流せば何となくアカデミックな風を垂れてゐるやうに聞こえかねないのかも知れないが、実のところは欠片たりとて論理的ではない。全く理解に苦しまざるを得ない、大好きな監督でもあるので敢て仮借なくいふが、理に落ちる以前の失敗作である。ここから先は極私的な志向、あるいは嗜好でもあるが、乱歩いはくの現し世は夢であり、夜の夢こそ誠とするテーゼこそが、福田恆存の『一匹と九十九匹と』にも最終的には連なる、全ての物語を統べるべく真実であると固く信ずる立場からは、夜の夢を現し世の地べたに無様に着地せしめんとする物語に対しては、激しい拒否反応にも似た抵抗を禁じ難いものである。
 2006年浜野佐知最終作「SEX捜査局 くはへこみFILE」に提供した脚本では、銀幕を震撼させる大いなる充実を轟かせた山﨑邦紀ではあるが、理にすら落ちてゐない今作(一月封切り)に加へ、続く2007年浜野佐知第一作「魔乳三姉妹 入れ喰ひ乱交」(三月封切り)脚本に際しても、拡げた風呂敷を全く回収し損なふ醜態を曝す。ピンクは一本きりと後は薔薇族映画の一本に止(とど)まつた2006年に対し、2007年は監督作ももう二本発表してゐるので、再起を大いに望むところである。

 数少ない収穫は潔く役者に特化して欲しい荒木太郎の倒錯演技と、自分のヴァギナが男の一物を押し潰してしまふ強迫観念に囚はれた切子と苛烈な拘束状態に喜悦する網雄とが、アヤメの催眠療法に導かれセックスする。その模様をアヤメと眺めてゐたグルジアいはく、「正に竜虎相搏つ戦ひですね」、この台詞は可笑しかつた。ところで同じことを度々繰り返すのも心苦しいことこの上ないが、吉岡睦雄のカラ騒ぎは、山﨑邦紀の論理性に対しては阻害要因たり得るやうにしか思へない。グルジア役の三浦漣徳は吉岡睦雄よりはマシに見えるが、それは要はマイナスよりはゼロでも大きく見える、といふだけの情けない次第である。網雄役はなかみつせいじで、グルジアは柳東史では何故にいけないのか。
 挿入歌、といふか要はエンディング曲の廣川雅規は、二十年一日のインディーズ感覚で、変態性行や神経症を“失敗した芸術”と称するランク先生に対し感謝を連呼する。ガチャガチャと安きに過ぎるトラックながら、個人的には嫌ひでない種類の音楽ではある。一本の商業映画を締め括る楽曲にしては、矢張り相応しくはなからうが。


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