真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 

奇談  


 「奇談」(2005/原作:諸星大二郎《連作『妖怪ハンター』内、『生命の木』》/監督・脚本:小松隆志/プロデューサー:一瀬隆重/出演:藤澤恵麻・阿部寛・清水紘治・菅原大吉・柳ユーレイ・草村礼子・ちすん・土屋嘉男・白木みのる、他)。
 言ひ訳といふ訳でもないが、予めお断りしておく。当方ドロップアウトは、諸星大二郎は殆ど全く読んでゐない。色々と、常にも増して頓珍漢なことをいひ出すやも知れないが、全てのジャンルの原作つきに関して、原作からは全く別箇の物としての評価、といふのはあらうべきではない、などといふこともあるまい。といふ態度、もしくは姿勢から、開き直つて観て来た映画のみからの感想を、例によつて手前勝手に漫然と述べる。
 正直な所、諸星大二郎の特異な―マンガ―世界を実写映画化、あるいは予告篇の出来からいつて、期待してはゐなかつた。寧ろ、何ぞ仕出かして呉れるのではなからうかといつた、別の意味での期待すらしてゐた。それ故、二度観に行かうとして財布を忘れたり時間が合はなかつたりして観に行けなかつたことに、ひよつとしたところの何某かの大いなる意思の存在を感じもしたところである。が、結論からいふと、全くいい意味で裏切られた。実に面白かつた。

 民俗学を専攻する大学院生・里美(藤澤)は、七歳の時に神隠しに遭つた体験があつた。里美はその後発見されたが、その前後―二ヶ月だつたつけ?―の記憶は喪はれてゐた。加へて、一緒に神隠しに遭つた新吉少年は、未だ発見されてゐなかつた。里美は閉ざされた自らの過去を求めて、当時母親の出産を控へて親戚の下に預けられてゐた、東北の隠れキリシタンの里として知られる渡戸村を訪ねる。渡戸村には“はなれ”と呼ばれる部落があつた。はなれの住人は、全員成人しても七歳児相当の遅れた知能しか有しなかつたが、不死を噂されてゐた。はなれは村の者からは忌み嫌はれ、村八分の状態にあつた。里美がはなれに興味を示すと、それまで友好的だつた村の者も、途端に態度を変へた。村役場の人間(菅原)に案内されてゐたところ、里美は村の教会に記憶の断片を見出し、中に入る。そこにはカトリックの神父(清水)と、地球上に人間以外の別途の進化を遂げた知的生命体の存在を主張し、学会を追放された異端の民俗学者・稗田礼二郎(阿部)とが居た。翌日、村とはなれとの間にある、かつて隠れキリシタンの大量処刑が行はれた山で、はなれの住人・善次の、まるでキリストのやうに十字架に磔にされた惨殺死体が発見される。

 禁じられた智恵の実を食べた罪により、楽園を追放されてしまふイブとアダムの他に、生命の実を食べてしまつた、もう一人の造物主が作り給ふた人間・ジュスヘル。ジュスヘルは智恵は持たないが、永遠の命を持つた。不死のジュスヘルの子孫によつて地上が一杯になつてしまふことを懼れた造物主は、彼等に“いんへるの”の呪ひをかける。“いんへるの”に於ける永劫の苦しみを負はされたジュスヘルの子孫達は、“くりんと”によつて“ぱらいそ”へと導かれることを待ち望むのであつた。そして、生命の実の生る生命の木とは、実は日本にあつたのではないか?劇中文献内より“世界開始の科の御伝へ”と称される諸星大二郎によつて再構築され新たに編み出された、全く新しい聖書異伝。もしくは新しい原罪。物語、あるいは謎解きは“世界開始の科の御伝へ”を軸に、時空を超えて七歳の姿のまま発見された新吉や復活を遂げた善次を交へ、目まぐるしく動き出し、やがてスクリーンに、地獄と天国―への召還―とが展開される。
 諸星大二郎の独特な画風を、実写映画化の中で再現することなど、初めから求めたりはしない。地獄、と天国とを描く為に用ゐられたCGも、バジェットの問題にのみ逃げ込むのも如何なものかも知れないが、映像表現としてはお世辞にも高いレベルにあるものではない。が、然し、そこには尻の穴の小さな原作ファンからの誹謗も、口さがない映画ファンからの嘲笑をもものともしない、何とはあつても諸星神話を映像化するんだ、といふ頑強な覚悟が窺へた。そこが何よりも素晴らしいと思ふ。天空に実写で堂々と屹立する巨大な十字の光芒に、私は開き直つたエモーションを感じた。

 ここからは些かならずネタバレである。微妙に焦点はボカしてあるので、敢へて字は伏せずに済ますところである、悪しからず。

 ジュスヘルの子孫達は、“いんへるの”に於いて地獄の業火に焼かれる。不死の彼等の苦しみは、未来永劫に続く。然しラストで彼等は伝説通り、復活を遂げた“くりんと”によつて“ぱらいそ”に導かれて行く。一緒に行かうとする新吉を、行つちや駄目だと里美は止める。だが新吉は、人間の世界への決別を告げ、ジュスヘルの子孫達と共に“ぱらいそ”に旅立つ。七つのガキにどうしてそのやうな心的契機が芽生えるのかは正直リアルタイムで観てゐた時点でも疑問だつたが、ともあれ。ここから、頭から判つてゐた上で、思ひ切りギアを間違つた方向に入れる。何はともあれ、何とはしても新吉は現し世を捨て、“ぱらいそ”に旅立つて行く。今既にある、ありのままのこの世界に於いて、どうにも居心地の悪さを抱へてしまつてゐるやうな連中、どうにもかうにも居場所を見付けられないでゐる者共、改めて申すまでもないが、小生ドロップアウトはその口のトップランナーでもある。だから周回遅れでいいんだよ、といふか、そのレースにはそもそも参加してなくてもいいんだよ。さて措き、さういつた者共にとつて、たとへそれが逃避でしかなくとも全く別の世界への脱出、もしくはこの世界の終末のイメージすらもが、如何様に甘美なエモーションを喚起するのか。といつた至極単純極まりない事実にすら思ひ至らぬ者は、たとへ原作からはかけ離れてゐたとて、映像表現としてよしんば稚拙であれ、映画が詰まらないだとか何だとかいふのは二千年早い。おとなしく皆と列を組んで、何かのドーム公演でも観に行かれてゐれば宜しい。

 等々といひ募つてゐると、全く見るべき所の無いストレートな駄作を、与太者ドロップアウトが殊更に偏狭な見方をして持ち上げてゐるかのやうに思はれるかも知れない。まあ多分にさうであることは、我ながら否定しはしないが。が、然し。この映画には、ひとつだけ極めて有効に機能してゐる飛び道具がある。それは反則バリバリの白木みのるのキャスティングではなく、稗田礼二郎役の阿部寛である。単なる色男としてデビューするも何時の間にやら、性格俳優を取り越して異能とすら称へ得るレベルにまで達した我等が阿部ちやんの過剰なハッタリ演技は、全般的に弾不足感の強烈に否めない映画の中で、スクリーンすらはみ出して拡げられた大風呂敷に、リアルではなくしてもリアリティー、説得力を与へる。次々と繰り広げられるこれまで信じて来たものとは全く別の聖書異伝に、戸惑ひ狼狽へるばかりの神父を演ずる、清水紘治の大仰な芝居振りも又然りである。舞台は昭和四十七年、本当にその頃の女の顔に見える藤澤恵麻の面立ちも捨て難い。裏を返せば、リアルタイムの感覚では必ずしも美人ではない、といふことにもなるのだが。

 稗田礼二郎といへば、その昔既にすつかり太つてしまつてゐたジュリーが演じてゐたのも・・・・・ま、いいか。その話は(;´Д`)


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