年金暮し団塊世代のブログ

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フェルメール作品メモ(#29)  レースを編む女

2009年09月09日 | フェルメール


The Lacemaker, 「レースを編む女」
1669-70, oil on canvas mounted on panel, 23,9 x 20.5 cm,
Inscribed top right : IVNeer (IVM in ligature)
Musee du Louvre, Paris, France


レース編みで前屈みのこの少女は専用のテーブルに座っている。 赤と白の糸が垂れ下がっている青い縫い台がテーブルの近くに置かれている。 近くには聖書か祈祷書と思われる羊皮紙のカバーをかけた小さい本がある。
 フェルメールは注意深く視点を選んでおり、少女を低い位置から見て、顔が手の近くにあり、これが少女が仕事に専念している様子を強調している。 更に少女を画面の近くに置いて、鑑賞者の注意がこの小さな絵のエッセンス、針とボビンを持った手に向けられるようにしている。

ルノワールが、「ルーブルにある世界で最も美しい二つの絵」と言った一つがこの絵。
2本の張りつめた糸が絵の柔らかな雰囲気に一種の緊張感を与えている。 彼の絵の多くは壁に絵が掛っているが、この絵では代わりに右上の壁に彼のサインがある。

フェルメールの最も可愛らしい絵の一つであるこの絵では、若い女が手芸に必要な針とボビンをぴんと張って、前屈みになってレースを編んでいる。 レースの編み台と大きな青の縫物クッションの後方に、だが前景に非常に近く座り、一つの作業に全神経を集中しており、彼女の熟練さと画家の技巧に魅了されて、鑑賞者も同じように凝視してしまうことになる。

鑑賞者の情緒的な引きつけられ方はフェルメールの作品の中でもユニークである。 小さなサイズからくる絵の親密さ、そのテーマ、四角張っていない構図が、イメージと現実の間の壁に挑むかのように鑑賞者を引きつける。 フェルメールは女の窮屈なポーズと、心理的に積極的で強烈な色である明るい黄色の胴着を通して、彼女が仕事に専心していることを強調している。 彼女のヘアスタイルさえもが、窮屈だがリズミカルな流れのような、彼女の物理的且つ心理的な現在の状態を伝えている。 彼女の額と指を照らす光のくっきりとしたアクセントが、この辛い手芸に要求される根気、精密さ、そして構想力を強調している。

フェルメールは、このシーンを間近に観察する時に起こる視野の奥行きの違いという視覚現象を模擬している点でも鑑賞者を引きつけている。 彼は、少し開いた縫物クッシヨンから垂れ出ているぼんやりした色糸の幻覚を眼に最も近い視野で創り出す為に、花柄のテーブルカバーにまでこぼれ落ちているその液体のようなフォルムを、赤と白の絵の具で柔らかく流れるような筆使いで描いている。 そのほやけたフオルムが視線を前景から、少女の居るはっきりとした焦点の合う中景に導き、更に、明るい壁に対する柔らかい少女のシルエットのある遠景に導いて行く。 こぼれ落ちている色糸とカールした髪が、彼女の仕事を周囲から切り離し、ボビンのぴんと張った糸に対する視覚的な引き立て役になっている。

フェルメールは生涯光と色に対して非常な感受性を持ち続けたが、それらの自然な状態を時として構図上の理由から変更している。 この絵の前景にある赤と白の糸のぼんやりとした形状と素材感は他の絵には無く、「#21/赤い帽子の少女」(c.1665)の右前景にある獅子頭の頂部飾りが最も近いものと言える。 ぼんやりした破片のような頂部飾りのように色糸の視覚効果は暗箱Camera Obscuraによるイメージから引き出したものであろう。 実際、Nicolaes Maes(1634-93)の“A Woman making Lace" (1655)やCasper Netscher (1639-84)の“The Lacemaker" (1664)のようなレースを編む女の伝統的な描写とは異なっているこの絵の小さくまとめらた四角張っていない構図は、暗箱の使用から出てきたものであろう。
 女の四角張っていないポーズを小さいサイズで描いた親密さや、視野の奥行きの明らかな違いは、暗箱が使われたという仮説を裏付けるものだが、フェルメールは暗箱からキャンバスに投影した像をそのまま描いたのではない。 彼の構図に対する感性がそうした可能性を否定している。

オランダの文学と絵画の伝統では、レース作りへの勤勉さは家事の美徳を示すものであり、フェルメールはテーブル上の羊皮紙でカバーされた小さな本や黒いタイで、このテーマを補強している。 本には特徴が示されていないが、祈祷書か聖書であろう。
 しかし、そうした教訓的な関心事は、この小さいがダイナミックなイメージでは二次的なものである。 ここでの関心事はレース作りという手芸よりもむしろ、創造する人間の能力といったものである。


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