ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

<金素雲・藤間生大の論争>再考④ 民族主義的な韓国文学史の叙述について

2010-11-08 23:49:14 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 1つ前の記事<金素雲・藤間生大の論争>再考③の最後に「日本統治期の文学の見方について、韓国では近年変化が見えはじめているように思いますが、それについては次回。(・・・って、またいつになることか?)」と記しましたが、一気に続けて書くことにしました。

 先に、韓国では李陸史の「青葡萄」のような一見抒情詩ととれ、それで正しいかもしれない作品についても祖国独立を希求した詩とする見方が強いということを書きました。そればかりか、金素月の詩までもそのように解釈する人さえいます。

 韓国を多少なりとも知る日本人なら、韓国人による歴史叙述のほとんどが民族主義の色濃いレイヤー(色眼鏡といってもいいが・・・)を通して書かれていることを承知していることでしょう。
 10月28日の記事で紹介した富川の漫画ミュージアムの展示も、非常に大きいと思われる日本漫画の影響等は完全に除外されているし、最近目を通したキム・ミヒョン編「韓国映画史」(キネマ旬報社)も、読んで得るところの多い本ですが、日本統治期に上映されたであろう多くの外国(日本・欧米)映画や、その影響等の記述はほとんどありません。戦後についても基調は同じです。

 本論の文学史に戻りますが、以前からなるほど、と思いつつ読んだのが「ハングル工房 綾瀬 - 僕の朝鮮文学ノート 9811」というサイト内の「金素月の「七五調」問題と「比較文学」」と題された記事。
 それによると、学問の分野の常識では(たぶん)驚くべきことですが、北朝鮮・韓国には<比較文学という学問がありえない(orありえなかった>ということです。
 つまり、日本統治下での朝鮮文学に対する日本あるいは西欧文学の影響を論ずること自体が、「韓国の作品は西洋や日本を模倣したというのか。それはわが民族の主体性・独自性を否定するものだ」というように非難される状況が続いてきたそうで、そのような中で「研究者の世界も商売」だから、「あえて反発の予想される論文」は書こうとしなかった、ということです。
 したがって、具体的に金素月の作品について記された論考をみても、彼の七五調の韻律を(そのようなものがなかったにもかかわらず)<伝統的な七五調>に拠っている、と解したりしているそうです。(20年の間で例外的に金允植「韓国文学史」(1973)だけが<日本の七五調>の影響と記しているとか・・・。)

 現在も韓国で最も愛されている詩人金素月は私ヌルボも好きですが、彼の作品の魅力その1の韻律に親しみを覚えるのはやはり日本の七五調と共通したものが感じられるからで、魅力その2のやや退行的なやるせない詩情も、彼が日本にいた当時(1923年)に流行っていた「船頭小唄」(詞・野口雨情)等々、当時の日本詩人の作品にあいつうじるものではないかと思ってきました。
 ※1つ前の記事で紹介した学習書「中学生が必ず読むべき詩」にも金素月の「オンマヤ ヌナヤ」が載っていますが、その説明には「民謡調の3音の伝統的韻律をもっている」とあります。

 「ハングル工房 綾瀬」の記事は次のように結ばれていますが、これこそ私ヌルボの言いたかったことをよくぞ言ってくれました、って感じで、ちゃっかりコピペさせていただきました。

 1920年代、衝撃的であり(現代の感覚でいえば)少女趣味の素月の一連の詩が、新鮮なものとして歓迎された事情は、理解しよう。いや、理解すべきだ。素月の衝撃、それは 1920年代の朝鮮には、あまりにも大きな衝撃だった。 
 そしてそれが「日本の」七五調の「影響」下にあることは、朝鮮文学の恥部ではない。1920年代の青年にとって、それが大きな発見であり、それを自分自身のリズムに取り込んで行く過程こそが、彼の文学的成果ではなかったか。
 もし それが「日本の影響」下にあるから文学的価値がないというなら、植民地下における「ほとんどすべての」文学的努力は価値がない。それは北であれ南であれ、その論理でいくなら、朝鮮人はみずから「ほとんどすべての」文学的価値を否定することになるだけだ。


 さて、冒頭に「韓国では近年変化が見えはじめているように思います」と記しましたので、その根拠を若干あげます。
 ネット上で探すと、日本に来ている(or来ていた)韓国人研究者によって「韓国人留学生文学青年たちの日本近代詩理解および西欧詩との接触」、「朝鮮人詩人への日本近代詩の影響」と題されたまさに比較文学の観点からの論文が書かれています。(後者ではやはり金素月の詩の韻律を「韓国伝統の三・四・五調(七・五調ともいわれる)」としていますが。)

 また、学校での国語教育について、この5月「朝鮮日報」連載の<萬物相>で「文学を殺す国語教育」(日本語版)と題された一文が載せられていました。
 この記事は契約してないと見られないので要点を記します。

 詩や小説のテスト問題は、当の作者自身も答えられないような出題もある。文壇では「国語の教科書が文学を殺している」という批判もある。「詩で『夜』といえば、当然のように時代の闇につながり、『星』が出てくれば理想世界に対する憧れとして解釈される」という指摘が代表的だ。退屈な国語の時間が、楽しいはずの文学を型にはまった知識に塗り替え、未来の読者を追い出している、というのが文壇の意見だ。
 これに対して、直後に高3の女生徒シン・インシルさんの投稿がありました。
 それによると学校では生徒が「自分が感じたように、詩の意味を拡大解釈するのは禁物」で、「真理は、ひたすら文学の参考書解説書のみにある」とのことです。
 シンさんは「文学を愛する学生として、私は学校の文学の授業が、もう少し作品の解釈の自由を可能にしてほしい」とも記しています。「正解だという解釈も一つの視点に過ぎないから作品の内容の意味を問う設問は無意味」、「感想は、文字通りの鑑賞で、作品を感じて自分の人生に照らして、いくつかの考えを交わすことができる授業になってほしい」が、「現在、我が国の教育条件上、期待するの大変なのかもしれない」と結んでいます。

 しかし、「朝鮮日報」にこのような記事が載ること自体、状況が変化してきているのかなと思うのですが、いかがなものでしょうか?

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 李陸史の「青葡萄」は祖国独... | トップ | 韓国内の映画 Daumの人気順... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

韓国の小説・詩・エッセイ」カテゴリの最新記事