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李陸史の「青葡萄」は祖国独立を希求した詩か? <金素雲・藤間生大の論争>再考③

2010-11-07 20:29:15 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 本ブログでは、完結していないシリーズがいくつもあります。当然ながら、書きにくい所にさしかかるとつい先延ばしにしてしまうためで、中には何ヵ月もほったらかしになっているものも・・・。今回もその1つなんですが、ハラを決めて書き始めます。

 発端は6月21日の記事で紹介した文芸誌「朝鮮文学」(1970~74)。
 その第2号所収の梶井陟「金素雲・藤間生大の朝鮮詩論争」について、次の2回にわたって取り上げました。

 ・7月10日<金素雲・藤間生大の論争>再考①日帝時代の朝鮮詩から、祖国喪失の哀しみと憤りを読みとれるか? 
 ・7月12日<金素雲・藤間生大の論争>再考②えっ、金素月の「つつじの花」も抵抗詩!? 

 今回は、日本統治期の抵抗詩人・李陸史(1904~44)の代表詩「青葡萄」(1939発表)の解釈がテーマです。

 論点は、これが純粋な抒情詩か、それとも祖国独立を希求するという寓意が込められた抵抗詩なのか、という問題です。

 まずはその詩を見てみましょう。

 青葡萄    李陸史 (金素雲訳) 

내 고장 칠월은        わがふるさとの七月は
청포도가 익어가는 시절  たわゝの房の青葡萄。

이 마을 전설이 주절이 주절이 열리고   ふるさとの古き伝説(つたへ)は垂れ鎮み
먼데 하늘이 알알이 꿈꾸며 들어와 박혀  円(つぶ)ら実に ゆめみ映らふ遠き空。

하늘 밑 푸른 바다가 가슴을 열고  海原のひらける胸に
흰 돛단배가 곱게 밀려서 오면    白き帆の影よどむころ、

내가 바라는 손님은 고달픈 몸으로  船旅にやつれたまひて
청포를 입고 찾아온다고 했으니    青袍(あをごろも)まとへるひとの訪るゝなり。

내 그를 맞아 이 포도를 따먹으면  かのひとと葡萄を摘まば
두손을 함뿍 적셔도 좋으련      しとゞに手も濡るゝならむ、

아이야 우리 식탁엔 은쟁반에     小童よ われらが卓に銀の皿
하이얀 모시 수건을 마련해 두렴   いや白き 苧(あさ)の手ふきや備へてむ。

 一読して、この詩のどこが抵抗詩なのか、疑問に思う人がほとんどではないでしょうか?
 7月4日の記事でもふれた林容澤「金素雲『朝鮮詩集』の世界」(中公新書)は、次のような文学評論家・金トクハン氏の所説を紹介しています。

・李陸史の故郷は安東で、そこは内陸で海はない。つまりこの故郷とは、民族全体の郷土=祖国をさす。
・「白き帆舟」はやがて到来すべき「明るい未来」を暗示している。
・「青袍まとへるひと」、原文では「내가 바라는 손님(わが待ちし客)」とは、祖国独立を象徴する語。
・最後の2連は、わが待ちし客(=独立)を迎えての饗宴と、それを待つ憧れの表現。


 この解釈は、まったくの空想の産物でもなく、李陸史が南京にいた時に所持していた翡翠の印章に刻まれていた「詩経」中の詩と、それについての陸史自身の随想等と関連づけられています。
 その説得力が、0%とも100%とも思えないところが問題で、私ヌルボ、正直なところよくわかりません。

 日本の統治期の朝鮮人詩人の作品について、7月12日の記事で分類した次の3つに分けて考えてみると・・・

(A)植民地支配に対する抵抗の意志を持ち、その思いを明確に書いた抵抗詩。 
(B)抵抗の意志はあったが、厳しい状況の中で、直接的な弾圧を避けるため、隠喩等を駆使して書いた作品。
(C)自覚的な抵抗の意志はなく書かれた抒情詩等。


 ・・・この(B)に該当する作品は、まさに(A)の明確な抵抗詩とはとられないように作者が苦心しているわけで、そのようにも解釈できるということが作品の眼目といえるでしょう。

 しかし、この「青葡萄」を抵抗詩とみる解釈が、自然石を旧石器と見誤るのとは違うと言い切れるかどうか?

 ところで、「金素雲・藤間生大の朝鮮詩論争」の中で梶井陟先生は次のように記しています。

 「青ぶどう」「ふるさとの古き伝説」、そして「海原のひらける胸」や「かの人」に、この詩人がどのような想いをこめたものか、わたしにはこうと断定することができない。この詩を「若干のペーソス」「いささかのノスタルヂア」と理解することもできるだろうし、また朝鮮の詩なるがゆえに「日本帝国主義」に結びつける立場も当然あるだろう。
 しかし、ここに一つの仮定を持ちだそう。
 それは、この詩に何の注釈もつけずにこの詩を紹介したばあいと、陸史の「文学を通しての抗日運動」(宋敏鎬)という経歴を、できるかぎり詳細に知らせたのちに読ませたばあいの、読者の受けとめ方のちがいはどうかということなのだ。
 おそらくは十人のうち九人までが、知る以前と以後の反応に大きな差が出てくるにちがいない。それがあたりまえなのだろう。
 これは詩の理解力などというもので律しきれるような性格のものではないと思うのだ。


 この一文が書かれたのが1971年。私ヌルボとしては、以後の40年の時の流れを痛感するばかりです。今、李陸史の抗日の経歴を読み、作品に込められている(かもしれない)寓意を知って、深く感動する人は十人のうち何人くらいいるでしょうか?

 「金素雲『朝鮮詩集』の世界」によると、韓国では以前から上述のような「祖国独立の念願を込めた郷土愛を芸術的に詩化させたものと見る向きが多い」とのことです。

 韓国のサイトをいくつか見てみると、たしかにそのような見方が多いようですが、ほとんどそのような解釈ということでもなさそうです。

 ヌルボが持っている「중학생이 꼭 읽어야할 시(中学生が必ず読むべき詩)」(2003)という学習書にもこの詩が載っているのですが、それには<主題>として<祖国光復に対する熱望(または豊かで平和な現実への渇望)>とカッコつきながら併記されています。さらに<討論する>の項目に、「抵抗詩とみる解釈と、純粋な抒情詩としてみる解釈について、各自の考えを述べなさい」というテーマが掲げられています。

    
【「中学生が必ず読むべき詩」。韓国の中学生レベルの<文学常識>を知るには便利な本。】

 この「青葡萄」の問題にかぎらず、日本統治期の文学の見方について、韓国では近年変化が見えはじめているように思いますが、それについては次回。(・・・って、またいつになることか?)

 →<金素雲・藤間生大の論争>再考④ 民族主義的な韓国文学史の叙述について

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