月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
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メンカリナン・2

2013-09-10 04:01:06 | 詩集・瑠璃の籠

おまえがやったことを
みんな 知っているのだぞ
みんなが やったことだからと
みんなも やったことだからと
逃げられるわけがない

見惚れるほどの 美人だったが
まあ それほどにまで
男が 狂うものかと思うほど
狂ったな 男よ
もはや なにものをも
ごまかすことはできない

大いなる 居城も
大勢の女を住まわせる 宮殿も
神を従える 神殿も
美をかき集めた 宝物蔵も
すべては 男が
女の気を引くために作った
すべては はなれていく
女の心を ひきとめるために
馬鹿な男がやった
幻の 権威だ

戦に 何度勝っても
結局は すべてが
砂と消える
それが男の世界だった
そのもろくもはかない夢の世界を
女が こつこつと機を織り
ささえていた
もはや

何を威張ることも
おまえたちにはできぬ
人よ 人の男よ
なにもかもは 嘘だった
愛の振りをして
あなたがたが すべてをだました
芝居だった
もはや

すべてを 悔い改め
やり直せ
女に 土下座をして
あやまれ
馬鹿は女の方だと言って
女にやったことを
すべて明かせ
おろかものよ

もはや 二度と
おまえたちは
女を馬鹿にすることはできぬ



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トゥバン・2

2013-09-09 03:08:14 | 詩集・瑠璃の籠

ほんとうに あなたがたは
愚かだ
愛が必要ならば
そういえばよいものを

ルナはあなたがたを
愛しすぎ 消えてゆく
まことに 
ここまで来ねば
あなたがたは
わからなかったのか

わたしもまた
ルナと同じ
愛の星である
だが あなたがたを
照らすことはない
ただ ときに
あなたがたの悲鳴に耳を澄まし
光の糸を投げ あなたがたを
暗闇から救うことはある

わたしは トゥバン
あなたがたにとっては
切ない愛の星だ

ここまできても
わからぬ者たちは
エルナトの嵐に翻弄される
苦しいなどというものではない
天使を侮りすぎる者たちに
彼は遠慮なく制裁の鉄槌を落とすのだ

ソルも ヴェガも
すこしでもあなたがたを照らすために
あなたがたの元に来ようとしている
だがそれは とても難しい
悲しいことだ
エルナトは
愛の星を恋う あなたがたを
軽蔑する

いたましい

人よ
エルナトの嵐に
傷つき 疲れ果てたときは
愛の星 トゥバンを思え
わたしは そのとき
あなたがたの 絶望の暗闇に
ほんの少しの 希望の光を
投げてやろう
それをたよりに
生きるがよい

愛しているよ
人々よ



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永遠に

2013-09-08 04:11:15 | 苺の秘密

甘い
キャンディのような
おんなのこが
ほしかった

白い
きぬのような
あまい肌の香りに
口づけを
したかった

だきしめて
すべてだきしめて
君の中に
溶けてしまいたかった

幻のように
風に消えていく
微笑みが
乾いた砂のように
透明な夢の中に
くずれていく

失うことに
慣れ果てた
ぼくの希望が
空に突き出された
拳となって
ふるえている
なにもかも は
もう

やりなおすことさえ
億劫になり果てた
夢見ることさえもう
怠惰の幕に凍り果て
何もできない

砂漠を 砂漠を
果てしない 砂漠を
抱きしめ
叫ぶ
叫ぶ
叫ぶ

あ い し てい     る

もう何も
いらない

かえってきてくれなんて
言わない
永遠に




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ベクルックス・2

2013-09-07 03:10:34 | 詩集・瑠璃の籠

プロキオンの 声が
このごろ やさしい
ちる ちる
まるで わたしの髪を
なでてくれるように
やわらかな声で 鳴いてくれる

すると わたしは
わたしの犬に
ほおをなめられているような気がして
どこか くすぐったくなる
わたしの 犬
愛していた 愛している
ああ かのじょが
また わたしのところに
生まれてきてくれたら
今度こそ
何でもしてやろうと 思っていたのに

そんなことを 思いながら
ぼんやりと 蛸の文鎮をなでていると
ふと小さな風が 額をよぎった
わたしは 小窓をふりむいた
するとそこに 星がいた
わたしは 何かがわかったような気がして
ああ と声をあげた

待っていましたよ あなたを
と わたしは その星に言ったのだが
はたして なぜそう言ったのか
わからない

星は 不思議な笑い方をして
わたしをやさしく見つめ
べクルックスです
と言った
わたしは その星を見つめ返しながら
彼が今 ここにいることは
昔から 決まっていたような気がしていた

約束だったのですね
と わたしが言うと
べクルックスは 
そうです と言って笑った

あなたが いずれはこういうことになることを
あなたは ほんとうはもう ずっと昔から
わかっていました
ですから あなたは
その時が来たら
わたしに 後を頼むと
言っていたのですよ
わたしは そのとき
返事はしませんでしたが
こうして 約束通り
やってきました

約束とは? なんでしょう?

あなたは 遠い昔から
人間のおんなのこの
生きることが苦しすぎることを
苦しんでいた
ずっと おんなのこを
助けてあげたいと 言っていた
でも あなたは いずれ人々のために
何をすることもできなくなる日が来ることを
わかっていた
あなたは 最後の愛の天使でしたから
やらねばならないことが 多すぎた

ああ わかっています

そう そして
あなたは わたしにたのんだのです
その日が来れば
おんなのこのことを 頼むと

ああ わかります
約束をしました
でも あなたは

ええ そのときは
答えることができませんでした
はっきりと 答えてしまえば
人間が それに気づいてしまう
そうなれば

ええ ほんとうに 
つらいことになってしまう
でも

ええ そうです
わたしは こうして今日
約束をしにきました
あなたのために

それでは

ええ あなたのかわりに
わたしが
女性の守護星となるつもりです

ああ それは
うれしい

そうでしょうとも

わたしは べクルックスの
すばすがしい 緑のような
美しい姿を見上げた
あたたかい ほほえみは
わたしのために 灯してくれているようだ
それほど 今のわたしは
深くきずついているのだろう
何でも わたしのために
してあげたいと
彼の瞳が言っているのがわかった
わたしの ために
べクルックスは
おんなのこを みちびいてくれるのだ

べクルックスは 約束をしてくれると
わたしに やわらかなほほえみを残し
少し プロキオンに挨拶してから
小窓から出て行った
ああ 心があたたかい
愛している あのひとを
ああ 愛している

おんなのこよ つらいことがあるときは
べクルックスに 心を飛ばしなさい
あなたを やさしく
導いてくれるだろう

べクルックス
あたたかき 風の天使



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絶望的

2013-09-06 05:47:51 | 苺の秘密

結局はさ
何言ったって通じないし
何言ったってわかんないし
馬鹿にするばっかりだから
何にも言えないのよ
男には


相手にしないんだって言ってさ
あたしたちの言うことなんて
てんで馬鹿にして
何にも聞いてくれないの
そんなことしたら
馬鹿になるばっかりよって
言いたくても
言えないから
黙ってるしかないのよね

結局は
遠回りでも 遠回りでも
女ががんばって
男につきあうしかないのよ
絶望的じゃない
ほんと
ずうっと昔から
女はこんなことばっかり

絶望的よ
女の人生なんて
苦労ばっかりよ

何言ったって
なあんにも わかんないのよ
男って
自分の意見ばっかり通してきたから
こっちの気持ちなんて
まるでわからないの
全部自分がやったことだと思ってるわ
バカじゃないの
あんたがやってること
ほとんど女がやってるのよ

絶望的よ
女の人生なんて
こんな男の
世話ばっかりやかなくちゃいけないの
もうそろそろ
いやになってるわ



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ばらの”み” 2

2013-09-05 05:30:35 | 月夜の考古学

 外に出ると、環のカバンについた鈴がはずんで、ちりちりと鳴った。すると、それに応えるかのように、はずむような女の子の声が返ってきた。
「あっ! おねえちゃあん!」
 黄色い点字ブロックの列が、帯のようにアスファルトの上を伸びて、一直線に校門をさしている。その向こうで、赤いダウンジャケットを着た、二年生にしては少し背の小さい女の子が、大きく手を振っているのが見えた。さっきまでの重い空気が吹き飛んで、環はすがりつくような気持ちで校門の方へかけていった。
「かなめ!」
 妹の要は、校門の石柱の陰に立って、寒そうに体をゆすっていた。空の上では、冷たい風の音が、ぐんぐん鳴っている。環は要のそばまで走って来ると、白い息を吐きながら言った。
「どれくらいそこにいたの?」
「うーん、わかんない」
 要は、焦点のずれた視線を、環の顔の辺りにさまよわせながら、笑った。環は、ほっとしたのと、情けないのと両方で、つい大声になった。
「ばか、どうして待ってるのよ。家に電話して、おかあさんに迎えにきてもらえばいいのに!」
 要はこの吹きさらしの中で、環を待ってじっと立っていたらしい。ほっぺも鼻も真っ赤だし、髪は風に遊ばれてくしゃくしゃになっていた。環は手袋を片方ぬぐと、手ぐしで妹の髪をさっと整えた。すると要は、うれしそうに笑って、瞳を環の声の方にあげた。少しおちくぼんだまぶたの奥で、溶けかけたあめ玉のようなうるみがちの瞳が、怒ったような泣きたいような環のふくれっ面を、静かに映しかえしていた。
「要ちゃん、いつもとおんなじじゃないと、不安なんだよ」
 後ろから、史佳がとりなすように言った。環は今初めて史佳のことを思い出したように、振り向いた。針金みたいにかたいクセっ毛を、きっちりお下げにした史佳は、視線を環たちから微妙にずらして、笑いかけていた。環も笑い返したけど、ほおがぴくぴくひきつるのを、十分にごまかすことができなかった。
 環が史佳を気持ち悪く思うのは、こんな時だ。目が見えない要にとって、普段と違う行動をとることがどんなに勇気がいることか、そんなことくらい、環にもわかってる。
 環は、これ以上自分たちのことには立ち入って欲しくないとでもいうように、ぱっと史佳に背を向けると、要に、わざとはっきりした声で言った。
「いい? あしたから、いつもの時間にわたしが来なかったら、ぜったい家に電話して、おかあさんに迎えにきてもらうんだよ。先生にもちゃんと言っとくからね」
「うん、でも……」
「でもじゃないよ。もう決めたの。こんなとこにずっと立ってたら、風邪ひいちゃうよ。わかった?」
「うん……」
 要はまだ何か不満があるみたいだったが、環が何度も強く言うので、しかたなくうなずいた。
「よし、じゃあ帰ろ」
 環は要の手をとると、もう一度史佳の方を振り向いた。一応さっきのお礼を言っておかなければと思ったのだけど、史佳はもう校門の向こうへ去っていこうとしていた。史佳は環たちを振り返ると、笑って手を振りながら言った。
「じゃあねえ! 砂田さん、さよならあ!」
「あ、じゃ、じゃあ」
 環は、あわてて手をあげて、返事をかえした。史佳は環の返事を待つこともせずに背を向けると、あっという間に横断歩道の向こうに走り去っていった。目を細めてそれを見送りながら、環は心が自然と重くなって、足元に目を落とした。
 史佳の、ああいう要領の良さが、環にはとても憎らしくて、そしてうらやましい。自分には、とても、あんなふうに心と顔を別にして、軽やかに生きて行くことなんて、できない。でも史佳に言わせれば、それが大人っぽい生き方というものなのだ。大人はみんな、日和見主義で、ご都合主義で、いろんな障害物を巧みに避けながら、すいすいと器用に生きていくんだ……。
 そう言われると、環は、自分が彼女よりもずっと幼稚で、未熟な子どものように思えて、とてもみじめな気持になる。
「ねえ、おねえちゃん、はやく行こうよ」
 要が、なかなか歩きださない姉にしびれをきらしたように、それまで小わきに抱えていた白杖(はくじょう)を持ち直して、アスファルトをこつこつたたいた。
「ああ、うん」
 環は小さくため息をつくと、要の手をぎゅっとにぎりしめた。それが、「行こう」の合図だった。
「要、待っててもいいから、おねえちゃんと帰るのがいいなあ……」
 歩きながら、要がぼそりと言った。
「どうして」
「おねえちゃん、やさしいから。要の友達がね、みんな言うんだよ。やさしいおねえちゃんでいいなあって。そしたら要、すっごくうれしいの!」
 それを聞いた環は、一瞬、ちょっと泣きたくなったけど、すぐ「ばか言わないでよ」と言ってかわした。
「わたしはやさしくなんかないよ」
 ……ミンナシラナイダケヨ。言いたい言葉を、飲み込んで、環は冷たい向かい風に、目を細めた。
 横断歩道をわたって、二人の歩調があってきた頃、突然、後ろからだれかがばたばたと走ってきた。環が振り返ろうとしたのと、だれかがどしんと環に体ごとぶつかってきたのとが、ほとんど同時だった。鈴が悲鳴をあげ、飛ばされたカバンが地面をすべった。
「あぶない! 何するのよ!」
 環は要の体をかばいながら、思わず大声で言った。
「あ、ご、ごめんなさい」
 ぶつかってきた人影は、くぐもった声であやまると、カバンを拾おうと体をかがめた。黒いウールの、ださっぽいコートを着たその背中を見て、環ははっと息を飲んだ。
「本当に、ごめんなさい……」
 ショートカットの、もやしのように背のひょろ高い少女が、カバンを環の方に差し出して、何度も何度も頭を下げている。環は、うろたえてしばし口をぱくぱくさせていたが、やがて、うつむいた少女のほおが、涙でべっとりと濡れていることに気づいて、ぐっと息を飲みこんだ。
「湯河さあん! だめよお、前見て走らなくちゃ!」
 後ろからまた和希の声が聞こえ、環の背骨がきゅっと縮んだ。目の前の少女が、顔をあげた。環と少女の目が、瞬間ぶつかった。碁石のような暗い瞳が、みだれた髪の間で、さまようようにふるえていた。濡れたほおに、黒い髪がはりつき、それはやせて青白い少女の顔を、いっそう貧相に見せていた。
「ほうら、早くカバンわたしたげなさいよ! ぐーずなんだからー!」
 和希が追い打ちをかけてきた。環は、差し出されたカバンを取ることもできず、和希と少女の間で、立ち尽くしていた。
 やがて、少女の目から、大粒の涙がぽろぽろあふれたかと思うと、環のカバンが足元にばさりと落ちた。環ははっと目をあげた。少女は何も言わずにくるりと背を向けて、逃げるように走り去っていった。けたけた笑うタニシコンビの声が、つぶてのように少女を追いかけた。
 環は、少女の背中から、鉛になった空気がどんと、投げ返されてきたように感じた。少女の姿が、曲がり角の向こうに見えなくなると、環の視線は、頭の重さに導かれるように、足元のカバンの方へ向かった。見つめあった時の、あの子の顔が、脳裏にはりついて、消えない。まるで、流れる水に飲み込まれていく、子猫のように、瞳が、深々と絶望に染まていく。手を伸ばせば、助けてあげられたかもしれない。でも、何もできなかった。……いいや、何も、しなかった……
 そのまま突っ立っている環たちの前を、和希とタニシコンビの三人が笑いながら通り過ぎた。すれちがったとき、小西アキが何げないふりをして環のカバンを踏んで行った。鈴が、ちりっと、あえぐように鳴った。
「どうしたの? おねえちゃん」
 和希たちも見えなくなると、何かの気配を察して、環の後ろに隠れていた要が、おそるおそる言った。
「……なんでもないよ」
 環はのろのろとカバンを拾いあげると、要の腕をひっぱって歩き始めた。
(高倉和希は、あの子を待ちぶせていたんだ)
 歩きながら、環は、なんだか、自分が、とてつもなく汚い人間みたいに思えて、たまらなくなった。逃げていった少女は、今、和希たちのグループに集中的にいじめられている子なのだ。
 あの子がいなければ、今頃、いじめられているのは、自分の方だったかもしれない。今年の春、環がこの学校へ転校して来たとき、もし、空いていた席の隣に、史佳がいなかったら。史佳が、高倉和希のことを、クラスの暗黙のルールを、ひとつひとつ教えてくれなかったら……。
 女王ぶって、クラスを支配している、高倉和希。環は、史佳に言われて彼女に初めてあいさつしに行った時、彼女が自分に言った言葉を、忘れない。
「この学校では、わたしに逆らわないほうがいいわよ」
 彼女の家は、昔からの名士の家柄なんだそうだ。この町に大きな大学があるのも、立派な音楽堂や劇場なんかがあるのも、代々この町に貢献してきたという彼女のご先祖様のおかげ。この市の現在の市長さんも、彼女の親戚だそうで、この学校に、点字図書室や身障者用のトイレや、エレベーターなんかがあって、要のような目の不自由な子どもがいっしょに勉強できるのも、昔から、教育行政とかいうものに熱心だったという、その市長さんのおかげ。みんな、和希の口から、耳にタコができるほど聞かされてきたことだ。
 だけど、それが、自分たちに何の関係があるっていうんだ。いくら家が立派だからって、お金持ちだからって、どうしてあんなにいばらなきゃいけないんだ。クラスのみんなだって変だ。何をそんなに、こわがる必要があるんだ。ただ、みんながそうしてるから。そういう雰囲気だから……。そんな変な理由だけで、どうしてみんな、和希の好きなようにさせているんだ!
 ……イヤダ。……いやだよ! こんな学校!
 環は、胸の中で、声にできない思いを、割れるように叫んだ。涙が、ぽろぽろ流れ出した。
「おねえちゃん」
 ふと、要が手をぎゅっとにぎりしめてきた。環は思い出したように立ち止まって、顔をあげた。すると、目の前に低いブロック塀があって、その向こうから黄色い実を鈴なりにつけた柿の木が、大きく頭上に乗り出している。
「ああ、大丈夫だよ」
 環は涙をふきながら言った。宙を見上げる要の目が、不安そうにゆれている。
 環は苦笑いして柿の木を見上げた。環たちの家に帰るには、この柿の木のある家の向こうの、小さな狭い路地に入って行かなければならない。要が別名、『クロの道』と呼んでいる、五十メートルほどの短い小道だ。別にどうということもない道だけれど、問題は、その路地の真ん中ほどにある、東田さんという家なのだ。東田さんは、クロという大きな甲斐犬を飼っていて、こいつが家の前を通る人という人に吠えかかるのだ。要はその犬がこわくて、環といっしょでなければ東田さんちの前を通れなかった。
「クロはつないであるから平気だよ。いつもみたいに耳をかさないで、さっと通ろう」
「うん……」
 路地に入り、東田さんちのそばまで行くと要はおずおずっと環に体をすりよせてきた。環は立ち止まると、安心させるように要の手をぎゅっとにぎりしめた。
「いい? 一、二の三でいくよ」
「うん」
「よおし。さあ、一、二の三!」
環は要の肩をかかえると、クロの方は見ないようにしながら、さっさっと東田さんの家の前を通り過ぎた。要は足を少しもつれさせながら、やっとのことで環についていった。静かなので、今日は大丈夫かなと思ったら、突然、クロが、爆発したように吠えだした。要が泣きだしそうな声をあげた。
「うわわわ!」
 環は、思わず要を抱え上げ、その勢いで鉄砲玉みたいに路地を走り抜けた。広い道に出たとたん、足が何かにひっかかって、環は要を抱いたままくずれるように道端に倒れ込んだ。
「おねえちゃん、大丈夫?」
 肩ではあはあ息をしている環に、要が心配そうに言った。
「大丈夫だよ」
 環は言った。路地の方では、まだクロがほえたてていたけれど、泣きそうだった要の顔が、目の前でほころんだ。環も、つられるように、笑った。
 環は要を道端に立たせると、自分も立ち上がって、汚れたスカートのおしりを、ぱんぱんとたたいた。と、まるで忘れ物が不意に飛び出して来たかのように、涙がまたつるりと鼻筋を落ちた。
 環は、背筋を伸ばして、何も言わずに灰色の空を見上げた。スポンジに水が吸われるように、悲しい気持ちが胸に冷たく染みてきて、環は、くちびるをかみしめた。どこにも持っていきようがない、重い気持ちを抱いたまま、環はいつものようにさっと手を差し出すと、いつもと変わらぬ声で、言った。
「さあ行こう、要」
 要の小さな手が、吸いつくように環の手にとまった。

    (つづく)


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ばらの”み” 1

2013-09-04 05:42:34 | 月夜の考古学

     「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」
                   (宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より)


1 冬のはじまり

 掃除が終わったあとの教室は、水ぶきでふいた床がまだ乾いてなくて、身ぶるいがするほど、寒かった。
 教室のみんなは、それぞれ自分の席について、ネズミのように身を縮ませながら、机の上の小テストにかじりついている。先生はというと、教壇の椅子に座って、みんなの様子を見ながら、白いセーターのそでをしきりに引っぱったり、手をごしごしこすったりしていた。
(ストーブくらい、つけたっていいのに)
 環は、ふるえる指先で漢字のマスをうめながら、苦々しく思った。クラス担任の吉田先生は、優しくていい先生だけど、どこかぼんやりしていて、要領が悪いのだ。このテストだって、今日の国語の時間にやっといてくれたら、放課後のこんな時間に、みんな残らなくたってすんだのに。
 最後まで残っていた漢字のマスを、ようやく書き入れると、環は小さく息を吐いた。先生はできた人から帰っていいって言ったから、後はこれを提出してさっさと教室を出ればいい。
 シャーペンと消しゴムをさっさと筆箱に入れ、環が席を立とうと椅子をずらしたその時だった。突然後ろの席の子が、環のセーターのひじをぎゅっとつかんだ。
(ばか、だめだよ!)
 ささやき声が、針のように耳に飛びこんだ。環はびくりとして、浮き上がったおしりを、ぺたんと椅子に落とした。ちょうどその時、教室の後ろの方で、だれかがガタリと席を立った。のみこんだ風船が、胸の中でいきなりふくらんだかのように、環の心臓がばくんと鳴った。
(シ、シマッタ……)
 すたすたと、教室中にわざとらしく響く足音が、後ろから近づいてくる。環は、握りしめた両手に額をおしつけて、ごくりとつばを飲み込んだ。胃のあたりが、もみこまれるようにきりきり痛んだ。
 足音は、すぐそばまで来た時、意味ありげにかかとを鳴らしたような気がした。環ののどの奥で、ビクッと、息がひっかかった。一瞬、目の前が真っ暗になったような気がして、頭の中がぐらりとゆれた。けれど、そいつは、拍子抜けするほど軽い足取りで横を通りすぎ、環が再び目をあけた時には、もう教壇の先生の前に涼しげな顔で立っていた。そして、下手なタレントのおしばいみたいなキンキン声が、教室中に響いた。
「先生、できましたぁ」
「ああ、高倉さん。いつもあなたが一番ね」
 先生は、眠そうな細い目を一層細めると、あくびの途中のような間のびした声で言った。環はほっと胸をなでおろしながらも、うつむいたままで用心深く目だけを動かし、教壇の方をうかがった。学級委員長の高倉和希(たかくらわき)は、少し顔をななめにそらして、横目気味に先生を見ながら、くちびるのはしっこをきゅっと吊り上げて笑っている。あれがナントカって今売れてるアイドルタレントを意識した作り笑いだってことは、みんなとっくに見抜いている。本人はとっても魅力的だって思ってるらしいけど、どう見たってカエルの引きつり笑いだね、ていうのがクラスの大方の意見だった。
「もう帰っていいですかぁ?」
「いいですよ、また明日ね」
 先生は、受け取ったテストをファイルの中にしまいながら、にこにこと受け答えた。
 環は、なんだかとてもいやな気分になって、またテストの方に目を落とした。どうして、先生は気がつかないんだろう? 和希が、あのお面みたいな作り笑いの下に、いつも黒々としたヘビみたいな心を隠していることに。太り気味で、白っぽい服ばかり着ている先生のことを、和希がカゲで「中華まん」と言ってバカにしてることを、先生は本当に知らないのだろうか。
 丸顔にのんきな顔をのせた先生と、さよならのあいさつをかわすと、和希はとがった鼻をつんとそびやかして、とかとかと教室を出て行った。すると、見えない縄に引っ張られたかのように、女生徒が二人ガタガタ立ち上がり、次々とテストを提出して、後を追った。
 教室のぴんと張った空気が、急にゆるんで、どこかでだれかがホッと息をついた。環も縮めていた肩の力をぬいた。
「よかった。気がつかなかったみたいだよ」
 後ろの席の尾崎史佳(おざきふみか)が、環の方に身を乗り出してささやいた。環は小さくうなずいたが、なんだか重たいクモの巣にでもからみつかれたみたいに、息苦しくて、しばらく動き出す気になれなかった。
 数人が、テストを提出して教室を出ていった。環もようやく席を立とうとして、はっと、テスト用紙にまだ名前を書いていないことに気づいた。環はシャーペンを持ち直し、指に力をこめて、「砂田環(すなだたまき)」と書いた。
 環は、名前を書き上げると、ちょっとの間、満足そうにその字面をながめた。前は、自分の名前を漢字で書こうとすると、『環』と言う字だけがむやみに大きくなって、枠をはみ出したりしていたものだ。けど、もう五年にもなった今では、字の大きさをきちんとそろえて、枠の中にきっちりとおさめて書くことができる。環には、それがずいぶんと大人びたことのように思えて、ちょっと自慢だった。
 席を立ちながら、机の横にかけていたカバンをとると、小さな鈴の音が、ちろちろと教室の空気の中をころがった。だれかが、思い出したかのように顔をあげて環を見たけれど、環は気づかなかった。
 テストを提出して、教室を出ると、廊下の窓から、灰色の曇り空が一面に見えた。
(早く行かなくちゃ。要(かなめ)が待ってる)
 環はあせる気持ちを押さえながら、人気のない階段を、二段飛ばしに下りた。もう約束の時間よりだいぶ遅れてしまっている。要はまだあそこにいるだろうか。機転をきかせて、マリコちゃんかだれかが、先生に言ってくれていればいいんだけど。でないと要はバカみたいに、いつもと同じあの場所で環を待ってるに違いない。
 手すりをぐっとつかんで、コンパスみたいにぶんっと踊り場を曲がると、忘れ物でもしたのか、下から階段を上がってくる男子と、ふと目があった。印象的な黒い瞳が、薄暗い校舎の中で、ふと光を放った。
 環は、見えない壁にぶつかりでもしたかのように、突然動けなくなった。少年も、環に気づいて足を止めた。どこか空気の奥で、きかりと、時計の歯車がきりかわったような気がした。心臓が高鳴り、ほおが熱くなる。息を止めて我慢しようとしても、目が涙でうるんでくるのを、とめることができない。
 目の前の少年は、ひとなつっこそうな笑顔で環を見上げ、言った。
「よお、今日も要ちゃんと帰るのか?」
「……う、うん」
「いつも大変だな」
「う、ううん……」
 環はかぶりをふりつつ、うわずった声で答えた。手すりをつかむ手がふるえてしまう。どうしよう、広田くんが、わたしに、声を、かけてくれてる……。
 環は、めまいがした。まるで足の下の階段が、環の心臓の鼓動に合わせて、ゴムみたいにゆれてるような感じがした。そのまま羽根がはえて、ふわふわ飛んでいきそうなくらいだった。でも、そんな喜びも、つかの間、突然チャンネルが切り替わったように、環ははっと顔をこわばらせ、広田くんから目をそむけた。
 少年は、そんな環の様子に、急に顔をゆがませて、無理矢理感情を凍らせた少女の横顔を、じろりと見た。環は、喉の奥が、ぐっとつまるのを感じた。
(ご、ごめんなさい……!)
 心の中で叫びながら、環は気持ちをちぎるように階段をけった。
「……気にするなよ、あんなの」
 広田くんが小さく言った声が、すれ違いざまに聞こえた。心臓が、どんと、胸の中で大きくなった。でも環は答えず、そのまま足をはやめた。そうしなければ、自分がこわれてしまいそうだった。
 階段をかけおり、渡り廊下をぬけて、生徒玄関まで来ると、ひゅううぅと、空の鳴る音が聞こえた。
 玄関の周辺に、人の気配はほとんどなかった。みんな帰ってしまって、残っているのは環たちのクラスだけのようだ。環は自分の靴箱の前まで走ってくると、周囲にだれもいないことをたしかめてから、上着の袖で涙をふいた。出口から外を見ると、黒っぽいアスファルトの舗道が、灰色のどんよりした空の気配に、ぬれたように重くなって横たわっている。環は長い息をはくと、靴箱をあけて自分の靴を取り出した。おぼれたくなってしまいそうなほどに、悲しい気持ちがあふれでてくると、機械のように体を動かして、自分をごまかしてしまう。そんな方法を覚えたのは、ここ数カ月の間のことだ。
(家に帰ろう。家に帰れば、安心して泣ける……)
 そのとき、風が、ぐんと鳴って、骨まで縮かんでしまいそうな冷たい風が環の全身をぬぐった。環はぶるると身震ぶるいしながら、はっと要のことを思い出し、あせって上ばきと下ばきを取り換えた。
「あれぇ、砂田さんだぁ!」
 環が、出口のそばで下ばきのスニーカーに片足を押しこんだ、その時だった。突然針のようなキンキン声に背中を刺され、環は息をひゅっと飲みこんだ。おそるおそる振り向くと、一番端の靴箱の影に、二人の少女がかたまって立っているのが見えた。にやにや笑いながらこっちを見ているやつらの、その真ん中にいるのは、だれよりも今一番会いたくないあの、高倉和希だ。
 環は、反射的に、さっと目をそらしてしまった。頭のどこかで、バカ、とだれかが叫んだ。……バカ! 目をそらしちゃだめ! やつらはどんな小さなことだって見逃さないんだから。何か言え。さよならって、てきとうにあいさつして、笑って、それで逃げるんだ!それだけでいいんだ! さあ早く!
 頭の中で、猛スピードで思考が回転した。でも環は動けない。何かを言おうとしても、のどがひりついて声が出ない。取り逃がした時間だけが、川面に落ちた木の葉のように、流れ去っていく。
「やだ、なんか硬くなってるわよ、あの子」
「そんなにこわがることないのにねえ」
 和希の、周りにいる二人の少女が、けたけた笑った。上田エミと、小西アキだ。あの二人は、金魚のふんみたいにいつも和希にまとわりついている。陰でタニシコンビなんて呼ばれて、クラスのみんなに、けむたがられてるやつらだ。環のおなかのなかを、鈍い怒りの感情がうずまいた。あんなバカでひきょうなやつらとなんか、ゼッタイかかわりたくない。こんなところ、はやく逃げ出したい、のに……。
 環はちらりと目だけを動かして、和希を見た。和希は、びっくりしているような大きな目を、きろりとむいて、楽しそうにこっちを見ている。その目の中に、相手のどんな言葉じりも見逃さず、すきがあれば咬みついてやろうとする、ヘビのように意地悪な気持ちが見えて、環は思わずまた目をそらしてしまった。胸が気持ち悪くなった。こいつらは、相手が弱いとみれば、笑って遊んでるふりをしながら、見えないところで肉がちぎれるほど腕をつねるなんてまねを、平気でできるやつらなのだ。なんとかしなくちゃ、なんとか……。でも、何て答えればいいのか、どうすればいいのか、考えようとすればするほど、頭の中はまっしろになる。環は、せめて、愛想笑いでもしなくてはと、思ったけれど、それは自分の靴に向かって、歪んだ変な顔を見せただけだった。
(モウ、ダメ……)
 涙がふくらんで、靴の上にほとりと落ちた。だが、体から力がぬけて、環がへなへなとその場に座り込んだ、ちょうどその時、後ろからかん高い少女の声が勢いこんでかけて来た。
「砂田さん、待った!?」
 ふり返ると、尾崎史佳がそこに笑って立っていた。環は背中がふっと軽くなったような気がして、思わず立ち上がった。史佳は環の横で靴をさっとはきかえると、今やっと気づいたかのように和希の方を見た。そしてにっこりと笑うと、さらりと言った。
「あっ、高倉さん。さよならっ。今日は寒いね!」
 和希は史佳の出現に、ちょっとシラけたように口をとがらすと、顔をつんとそむけた。史佳はそのスキを逃さず、環の腕をひっぱって、外に出た。
「早く行こっ。要ちゃん、待ってるよ」
「う、うん」
 環はとまどいながらも、あわてて靴に足をつっこんで、史佳に従った。後ろをちょっと振り向くと、和希がこっちに向かって、「ばーか」と口だけで言う顔が、かいまみえた。

      (つづく)


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ベクルックス

2013-09-03 05:27:05 | 詩集・瑠璃の籠

あなたがたは
もっとも尊い愛を
おろかな醜女にした
あなたがたは
もっとも美しい愛を
卑しい遊び女にした

ゆえに
この世で最も尊いものは
愚かな醜女になる
この世で最も美しいものは
あなたがたが見くびり卑しむ
遊び女になる

はした金であなたがたが買った
愛が
もっとも美しい愛になる
あの女たちが
なんのために体を売ったか
あなたがたは
その真実に
打ちのめされる

そのあまりにも
清らかな愛に
あなたがたが払った金の
軽さに
あなたがたは
壊れる

どんな愛に
何をしてもらっていたのかに
気付いた時
当然のように歌っていた
男の誇りが
腐った林檎のように
地に落ちる
もはや再び
立ち上がることはできぬ

王冠とローブで着飾った
バカが
道端に倒れ野たれ死んだ
遊び女の遺体に
ひれ伏す



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きみかたる

2013-09-02 05:29:08 | 歌集・窓辺の百合


きみかたる ことはやさしく あきらかに 月ひかること 花は咲くこと



ゆきしろく たいらかにして しづかにも 月下の世にて しばしやすらふ



ひさかたの つきのひかりの したてらす みちひとりゆく かげのさみしさ





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桜月夜・2

2013-09-01 05:35:09 | 月夜の考古学

 クロジは、その名のとおり、全身黒っぽい毛皮をしていました。前足が長くて、肩の位置が高く、しっぽが細めなので、どことなく犬に似ています。キツネの目で見ると、クロジはどう見ても美しい部類ではありません。瞳の輝きが、素直な賢さのようなものを、何となく感じさせはしますが、全体の感じは、どうしても、もっさりとやぼったく見えました。
「あの……、あたし……」
 すみれはめまいを覚えながら、消え入るような声で言いました。頭の中に、「ことわろうと思って……」という言葉が浮かびましたが、声にはなりませんでした。
「ねえ、こ、こっちに来て、座らないかい?」
 クロジは、すみれをおおばば桜の木の下へと、誘いました。
「え……?」
「さ、桜が、きれいなんだよ……」
 すみれは、とまどいつつも、何だかクロジがあまりにも一生懸命なので、しかたなく、クロジの後に従いました。月夜にけむるようなおおばば桜の花の下に入ると、夢のような香りが辺りをつつみ、すみれは、どこからかやさしい気持ちがわいてきて、まあ、少しぐらいならいいわと、思いました。
 クロジはおおばば桜の太い幹のそばに、腰を下ろしました。すみれは、遠慮がちに、少し離れて座りました。と、クロジの毛皮の匂いが、まわりの空気の中に、濃く漂いました。すみれは思わず顔を背けました。クロジの方に近い肩のあたりが、じりじりと熱く感じられました。涙が出そうになるのは、どうしてでしょう?
 時が過ぎました。ふたりは、何も言葉をかわさないまま、じっと座っていました。クロジは、落ち着かなげに、何度も頭をかいたり、きょろきょろと辺りを見回したりしていました。すみれは、ただ、じっと、うつむいていました。
「ねえ、そこらを歩いてみないか?」
 やがて、しびれをきらしたように、クロジが言いました。すみれは、はっと顔をあげて、思わず「え、ええ」と、答えてしまいました。
 クロジは、ぴょんと立ち上がると、さあ、おいでよ、と言うように、すみれを振り返りました。すみれは、おずおずと笑いながら、立ち上がりました。
 ふたりはしばらくの間、無言で歩きました。クロジが少し先を歩き、すみれは体ひとつ遅れて、従いました。時々、本当についてきているかどうか確かめるように、クロジがすみれを振り向きました。
 歩きながら、すみれはふと考えました。少しよろけて、クロジに肩をぶつけてみようか。それとも、振り向かれたとき、にっこりと笑いかけてみようか。すると、すみれは何だか、急におかしくなりました。それらのことが、みんな、子供じみたばかばかしい考えのように思えました。
(あたし、このひとのこと、好きなのかしら……)
 すみれは、考えました。今こうして、ただいっしょに歩いているだけで、何だか胸がいっぱいで、苦しいくらいです。恋というのは、こういうものなのでしょうか? 自分は、このひとの妻になるのでしょうか? でも、考えようとすると、つまづいてひっくりかえった拍子に、突然目が空にほうり込まれた時のように、頭の中がどこか知らない虚空へ飛んで、真っ白になるのです。もとより、クロジは、自分のことを、どう思っているんでしょう。結婚を申し込んでくれた時の気持ちは、今も変わっていないのでしょうか?
 クロジは、すみれにあわせて、ゆっくりと前を歩いてくれます。一度、クロジが暗い茂みの中に踏み込んだとき、すみれは一瞬、妙なことをされるのではないかと思って、体を硬くしました。でも、クロジは黙々と歩くばかりで、何も起こりませんでした。
 愛していてくれるのかしら? それとも、興味はないってことなのかしら? 暗い森を歩きながら、もやもやとした悩みにからみつかれて、すみれは何だかひどく疲れたように感じました。
 ふと、家に帰りたいという思いが、すみれの頭をよぎりました。母親の顔が目に浮かび、懐かしさに涙があふれそうになりました。こんなに母親から遠く離れてしまったのは、初めてです。母親の元に帰れば、こんな不安な気持ちからは、逃れられるでしょう……。すみれは胸の中で、繰り返しました。帰りたい……帰りたい……でも……
 眼窩に涙の玉がふくれ、すみれは地面に目を落としました。ぼやけた視界が、ぽたぽたとしたたり落ちたと思ったら、ふと白く光る月のようなものが、すみれの足元に現れました。目をパチパチさせてよく見ると、それは小さな桜の花びらでした。黒い地面に、白い花びらが一つ、落ちているのです。
「ごらん! すみれ!」
 やがて、ふと、前を行くクロジが、言いました。すみれは、思わず、顔を上げました。瞬間、まるで、眼前で音もなく光が爆発したかのように、すみれの目は、真っ白なものの中へ、吸い込まれました。
「あ……」
えもいわれぬ香りが、息苦しいほどに辺りに満ちました。光は、徐々に収束して、やがて、一枚の透明な幕をひらりとはぐように、その正体を現しました。天をつく大きな桜の木が、その薄紅の樹冠を、空いっぱいに広げているのでした。
(これは、なに……?)
 無数の枝々に、無数の花々が灯り、それは天から差し出され、見るものをつつみこもうとする、光る無数の手のようでした。それはまた、色と香りとかすかな触感をまぜて作った、これ以上精密に描きようのない、みごとな花の点描でした。今を咲き誇る薄紅の花々には、どの花にも、小さな声を発する灯火が宿っていて、それぞれに微妙に違う、無数の色と光を束ねながら、桜は、まるで燃えさかるように、全身で叫んでいました。
 まるで、時間の外を泳いでいる何者かに、魂をかすみとられてしまったかのように、すみれは、しばし息をするのも忘れて、桜を見上げていました。心臓が、ぶるぶると震えました。
(なんて、きれい……、なんて……)
 みずみずと澄んだ空気が、風景のすみずみまで満ち……忘れていた何かが、音もなく歌い始めて、その切ない声が、この耳のひだに今、ひたひたと、おしよせて、くるような……
すみれの目に、新たな涙が灯りました。ふと、彼女は、我に戻りました。隣を見ると、クロジが口を開けて、ほうけたように桜を見上げています。すみれは、ぼんやりと、辺りを見回しました。見たことのないところのような気がしていましたが、桜の根元に目をやると、さっきクロジといっしょに座った太い根の膨らみが見えました。ふたりは、森を一回りして、もう一度、おおばば桜のところへ帰ってきたのです。
 すみれは、急に、どうしようもない寂しさを感じて、再び桜を見上げました。さきほど感じた美しさは、みじんも変わってはいません。でも、今、この胸の奥から吹き上げてくる悲しみは何なのでしょう?
 すみれは目を閉じました。そして、胸の奥からきしるような叫びが聞こえてくるのを、感じました。涙が滂沱と流れました。すみれは、桜を見ているうちに、その美しさ、大きさと、自分が、まるで無縁のもののように思え、どうしようもなくちっぽけなもののように思え、打ちひしがれたのでした。
 彼女は、もう一度隣のクロジを見ました。そばにいるクロジのかすかな体温が、ちくちくと、すみれの皮膚にささりました。自分と同じようなちっぽけな命が、彼の中にもあることを感じました。それは寒い夜の小さな灯火のように頼りないものでした。涙がひっきりなしに流れ、そうして、すみれは理解しました。切ないほど、理解しました。自分が、無力であることを。だれかとともにいなければ、生きていけないほど、無力であることを。
 すみれの口から、押えていた嗚咽が、もれました。すると、クロジがびっくりしたように、振り向きました。
「ど、どうしたの? おれ、なにか……」
 たずねても、すみれは、ただかぶりをふるばかりでした。クロジは途方にくれて、おろおろとすみれの前を行き来しました。
 ふと、クロジは、おおばば桜の黒い幹の中ほどに、ほんの小さな小枝が突き出ていて、それに小さな花が二つ三つ、こぼれるように咲いているのを、見つけました。
「そうだ。ちょっと待って。おれ、あれを戸ってきてあげる」
 言うが早いか、クロジはぽんと地面を蹴って、飛び上がりました。でも、小枝は思ったよりも高いところにあって、少し飛び上がったくらいでは届きませんでした。クロジは、一旦地面に降り立つと、ぼんやりとこっちを見ているすみれの涙顔に、ちらりと照れ笑いを送ってから、もう一度、おおばば桜を見上げました。
 今度は、ちゃんと位置と高さを確かめ、助走距離もたっぷりとりました。しかし、もう少しのところで届かず、クロジは鼻先に小さな痛みが走るのを感じました。
「あ……」
 すみれが声をあげました。見ると、クロジの鼻に少し血がにじんでいます。さっき飛び上がったとき、小枝の下に突き出ていた古枝に、ひっかけてしまったのです。でも、クロジはあきらめません。何度も、助走距離をとって、あの桜の枝をとろうと、飛び上がります。
「もういいわ、やめて」
「なあに、大丈夫さ」
 クロジは、無理に平気を装って、言いました。振り向くと、すみれの心配顔が自分を見つめています。クロジはかすかに笑いました。やっかいな古枝に何度も鼻面をかまれ、クロジの口のまわりは血に染まっていました。しかし、ここまできたら、あきらめることは、許されません。クロジはすみれから目をそらすと、一旦下を向いて、地面に大きな息を吐きました。土をつかむ足の爪が、じりじりと燃えるようでした。そしてしばらく目を閉じて、息を整えてから、ゆっくりと顔を上げ、桜の枝を見ました。夜の片隅で、それは、この世にたとえようもないほど、美しく見えました。
 クロジは、走りました。時間が、長く伸びました。クロジは一瞬、走っている自分の隣に、もうひとりの走っている自分がいるような錯覚を覚えました。しかし、次の瞬間には、ずんと、音をたてるように、ふたりの自分がぴたりと重なったような気がしました。何か、不思議な熱いものが、体の中を走りました。そして、花が、急に目の前に大きく迫ってきたと思ったら、クロジは空を飛んでいました。足が、吸いつくように幹にとまりました。すると、まるで待っていたかのように、口の中に桜の枝が入ってきました。
 クロジは、機を逃さず、あごに思い切り力をこめて、枝を食いちぎりました。そしてそのまま体を翻して、地面に降り立ちました。まだ、まわりの世界がぐるぐる回っているようなめまいの中で、すみれが駆け寄ってくるのが、見えました。
 すみれは息を荒くしているクロジに近寄ると、夢中で、その血がにじんだ鼻をなめました。クロジは、何が何だかわからない様子で、ちょっとつらそうな顔をしましたが、やがて、桜の枝を、ぽとりとすみれの足元において、言いました。
「よかった。泣き止んだね」
「クロジ……」
 すみれは心配そうに、クロジの傷を見ています。クロジは、ぜえぜえと息をしながら、恥ずかしそうに、上を見上げました。少し傾いた月が、桜の梢から抜け出して、夜空にぽろりとこぼれていました。
「ああ、月があんなところに。もう遅いね。すみれ、おくっていこうか」
 クロジが言うと、すみれは、少しはにかんだように、顔を背けました。そのほほ笑んだ横顔に、白い花びらが一枚、落ちていました。何だか、すみれが、さっきまでとずいぶん変わったように見えて、クロジはどきりとしました。
 やがて、すみれは、小声で言いました。
「もう少し、ここにいたいわ……」
 振り向いたすみれの瞳に、クロジの顔が映りました。クロジは言葉を失って、すみれの顔を見つめました。
 風が、桜の梢をゆらしました。花びらが、星をまくように、降りました。
 やがて、夜の底に、寄り添うように座ったふたりを、月が静かに、見下ろしていました。

     (おわり)



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