月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
コメントはゲスト・ルームにのみお書きください。

ばらの”み” 2

2013-09-05 05:30:35 | 月夜の考古学

 外に出ると、環のカバンについた鈴がはずんで、ちりちりと鳴った。すると、それに応えるかのように、はずむような女の子の声が返ってきた。
「あっ! おねえちゃあん!」
 黄色い点字ブロックの列が、帯のようにアスファルトの上を伸びて、一直線に校門をさしている。その向こうで、赤いダウンジャケットを着た、二年生にしては少し背の小さい女の子が、大きく手を振っているのが見えた。さっきまでの重い空気が吹き飛んで、環はすがりつくような気持ちで校門の方へかけていった。
「かなめ!」
 妹の要は、校門の石柱の陰に立って、寒そうに体をゆすっていた。空の上では、冷たい風の音が、ぐんぐん鳴っている。環は要のそばまで走って来ると、白い息を吐きながら言った。
「どれくらいそこにいたの?」
「うーん、わかんない」
 要は、焦点のずれた視線を、環の顔の辺りにさまよわせながら、笑った。環は、ほっとしたのと、情けないのと両方で、つい大声になった。
「ばか、どうして待ってるのよ。家に電話して、おかあさんに迎えにきてもらえばいいのに!」
 要はこの吹きさらしの中で、環を待ってじっと立っていたらしい。ほっぺも鼻も真っ赤だし、髪は風に遊ばれてくしゃくしゃになっていた。環は手袋を片方ぬぐと、手ぐしで妹の髪をさっと整えた。すると要は、うれしそうに笑って、瞳を環の声の方にあげた。少しおちくぼんだまぶたの奥で、溶けかけたあめ玉のようなうるみがちの瞳が、怒ったような泣きたいような環のふくれっ面を、静かに映しかえしていた。
「要ちゃん、いつもとおんなじじゃないと、不安なんだよ」
 後ろから、史佳がとりなすように言った。環は今初めて史佳のことを思い出したように、振り向いた。針金みたいにかたいクセっ毛を、きっちりお下げにした史佳は、視線を環たちから微妙にずらして、笑いかけていた。環も笑い返したけど、ほおがぴくぴくひきつるのを、十分にごまかすことができなかった。
 環が史佳を気持ち悪く思うのは、こんな時だ。目が見えない要にとって、普段と違う行動をとることがどんなに勇気がいることか、そんなことくらい、環にもわかってる。
 環は、これ以上自分たちのことには立ち入って欲しくないとでもいうように、ぱっと史佳に背を向けると、要に、わざとはっきりした声で言った。
「いい? あしたから、いつもの時間にわたしが来なかったら、ぜったい家に電話して、おかあさんに迎えにきてもらうんだよ。先生にもちゃんと言っとくからね」
「うん、でも……」
「でもじゃないよ。もう決めたの。こんなとこにずっと立ってたら、風邪ひいちゃうよ。わかった?」
「うん……」
 要はまだ何か不満があるみたいだったが、環が何度も強く言うので、しかたなくうなずいた。
「よし、じゃあ帰ろ」
 環は要の手をとると、もう一度史佳の方を振り向いた。一応さっきのお礼を言っておかなければと思ったのだけど、史佳はもう校門の向こうへ去っていこうとしていた。史佳は環たちを振り返ると、笑って手を振りながら言った。
「じゃあねえ! 砂田さん、さよならあ!」
「あ、じゃ、じゃあ」
 環は、あわてて手をあげて、返事をかえした。史佳は環の返事を待つこともせずに背を向けると、あっという間に横断歩道の向こうに走り去っていった。目を細めてそれを見送りながら、環は心が自然と重くなって、足元に目を落とした。
 史佳の、ああいう要領の良さが、環にはとても憎らしくて、そしてうらやましい。自分には、とても、あんなふうに心と顔を別にして、軽やかに生きて行くことなんて、できない。でも史佳に言わせれば、それが大人っぽい生き方というものなのだ。大人はみんな、日和見主義で、ご都合主義で、いろんな障害物を巧みに避けながら、すいすいと器用に生きていくんだ……。
 そう言われると、環は、自分が彼女よりもずっと幼稚で、未熟な子どものように思えて、とてもみじめな気持になる。
「ねえ、おねえちゃん、はやく行こうよ」
 要が、なかなか歩きださない姉にしびれをきらしたように、それまで小わきに抱えていた白杖(はくじょう)を持ち直して、アスファルトをこつこつたたいた。
「ああ、うん」
 環は小さくため息をつくと、要の手をぎゅっとにぎりしめた。それが、「行こう」の合図だった。
「要、待っててもいいから、おねえちゃんと帰るのがいいなあ……」
 歩きながら、要がぼそりと言った。
「どうして」
「おねえちゃん、やさしいから。要の友達がね、みんな言うんだよ。やさしいおねえちゃんでいいなあって。そしたら要、すっごくうれしいの!」
 それを聞いた環は、一瞬、ちょっと泣きたくなったけど、すぐ「ばか言わないでよ」と言ってかわした。
「わたしはやさしくなんかないよ」
 ……ミンナシラナイダケヨ。言いたい言葉を、飲み込んで、環は冷たい向かい風に、目を細めた。
 横断歩道をわたって、二人の歩調があってきた頃、突然、後ろからだれかがばたばたと走ってきた。環が振り返ろうとしたのと、だれかがどしんと環に体ごとぶつかってきたのとが、ほとんど同時だった。鈴が悲鳴をあげ、飛ばされたカバンが地面をすべった。
「あぶない! 何するのよ!」
 環は要の体をかばいながら、思わず大声で言った。
「あ、ご、ごめんなさい」
 ぶつかってきた人影は、くぐもった声であやまると、カバンを拾おうと体をかがめた。黒いウールの、ださっぽいコートを着たその背中を見て、環ははっと息を飲んだ。
「本当に、ごめんなさい……」
 ショートカットの、もやしのように背のひょろ高い少女が、カバンを環の方に差し出して、何度も何度も頭を下げている。環は、うろたえてしばし口をぱくぱくさせていたが、やがて、うつむいた少女のほおが、涙でべっとりと濡れていることに気づいて、ぐっと息を飲みこんだ。
「湯河さあん! だめよお、前見て走らなくちゃ!」
 後ろからまた和希の声が聞こえ、環の背骨がきゅっと縮んだ。目の前の少女が、顔をあげた。環と少女の目が、瞬間ぶつかった。碁石のような暗い瞳が、みだれた髪の間で、さまようようにふるえていた。濡れたほおに、黒い髪がはりつき、それはやせて青白い少女の顔を、いっそう貧相に見せていた。
「ほうら、早くカバンわたしたげなさいよ! ぐーずなんだからー!」
 和希が追い打ちをかけてきた。環は、差し出されたカバンを取ることもできず、和希と少女の間で、立ち尽くしていた。
 やがて、少女の目から、大粒の涙がぽろぽろあふれたかと思うと、環のカバンが足元にばさりと落ちた。環ははっと目をあげた。少女は何も言わずにくるりと背を向けて、逃げるように走り去っていった。けたけた笑うタニシコンビの声が、つぶてのように少女を追いかけた。
 環は、少女の背中から、鉛になった空気がどんと、投げ返されてきたように感じた。少女の姿が、曲がり角の向こうに見えなくなると、環の視線は、頭の重さに導かれるように、足元のカバンの方へ向かった。見つめあった時の、あの子の顔が、脳裏にはりついて、消えない。まるで、流れる水に飲み込まれていく、子猫のように、瞳が、深々と絶望に染まていく。手を伸ばせば、助けてあげられたかもしれない。でも、何もできなかった。……いいや、何も、しなかった……
 そのまま突っ立っている環たちの前を、和希とタニシコンビの三人が笑いながら通り過ぎた。すれちがったとき、小西アキが何げないふりをして環のカバンを踏んで行った。鈴が、ちりっと、あえぐように鳴った。
「どうしたの? おねえちゃん」
 和希たちも見えなくなると、何かの気配を察して、環の後ろに隠れていた要が、おそるおそる言った。
「……なんでもないよ」
 環はのろのろとカバンを拾いあげると、要の腕をひっぱって歩き始めた。
(高倉和希は、あの子を待ちぶせていたんだ)
 歩きながら、環は、なんだか、自分が、とてつもなく汚い人間みたいに思えて、たまらなくなった。逃げていった少女は、今、和希たちのグループに集中的にいじめられている子なのだ。
 あの子がいなければ、今頃、いじめられているのは、自分の方だったかもしれない。今年の春、環がこの学校へ転校して来たとき、もし、空いていた席の隣に、史佳がいなかったら。史佳が、高倉和希のことを、クラスの暗黙のルールを、ひとつひとつ教えてくれなかったら……。
 女王ぶって、クラスを支配している、高倉和希。環は、史佳に言われて彼女に初めてあいさつしに行った時、彼女が自分に言った言葉を、忘れない。
「この学校では、わたしに逆らわないほうがいいわよ」
 彼女の家は、昔からの名士の家柄なんだそうだ。この町に大きな大学があるのも、立派な音楽堂や劇場なんかがあるのも、代々この町に貢献してきたという彼女のご先祖様のおかげ。この市の現在の市長さんも、彼女の親戚だそうで、この学校に、点字図書室や身障者用のトイレや、エレベーターなんかがあって、要のような目の不自由な子どもがいっしょに勉強できるのも、昔から、教育行政とかいうものに熱心だったという、その市長さんのおかげ。みんな、和希の口から、耳にタコができるほど聞かされてきたことだ。
 だけど、それが、自分たちに何の関係があるっていうんだ。いくら家が立派だからって、お金持ちだからって、どうしてあんなにいばらなきゃいけないんだ。クラスのみんなだって変だ。何をそんなに、こわがる必要があるんだ。ただ、みんながそうしてるから。そういう雰囲気だから……。そんな変な理由だけで、どうしてみんな、和希の好きなようにさせているんだ!
 ……イヤダ。……いやだよ! こんな学校!
 環は、胸の中で、声にできない思いを、割れるように叫んだ。涙が、ぽろぽろ流れ出した。
「おねえちゃん」
 ふと、要が手をぎゅっとにぎりしめてきた。環は思い出したように立ち止まって、顔をあげた。すると、目の前に低いブロック塀があって、その向こうから黄色い実を鈴なりにつけた柿の木が、大きく頭上に乗り出している。
「ああ、大丈夫だよ」
 環は涙をふきながら言った。宙を見上げる要の目が、不安そうにゆれている。
 環は苦笑いして柿の木を見上げた。環たちの家に帰るには、この柿の木のある家の向こうの、小さな狭い路地に入って行かなければならない。要が別名、『クロの道』と呼んでいる、五十メートルほどの短い小道だ。別にどうということもない道だけれど、問題は、その路地の真ん中ほどにある、東田さんという家なのだ。東田さんは、クロという大きな甲斐犬を飼っていて、こいつが家の前を通る人という人に吠えかかるのだ。要はその犬がこわくて、環といっしょでなければ東田さんちの前を通れなかった。
「クロはつないであるから平気だよ。いつもみたいに耳をかさないで、さっと通ろう」
「うん……」
 路地に入り、東田さんちのそばまで行くと要はおずおずっと環に体をすりよせてきた。環は立ち止まると、安心させるように要の手をぎゅっとにぎりしめた。
「いい? 一、二の三でいくよ」
「うん」
「よおし。さあ、一、二の三!」
環は要の肩をかかえると、クロの方は見ないようにしながら、さっさっと東田さんの家の前を通り過ぎた。要は足を少しもつれさせながら、やっとのことで環についていった。静かなので、今日は大丈夫かなと思ったら、突然、クロが、爆発したように吠えだした。要が泣きだしそうな声をあげた。
「うわわわ!」
 環は、思わず要を抱え上げ、その勢いで鉄砲玉みたいに路地を走り抜けた。広い道に出たとたん、足が何かにひっかかって、環は要を抱いたままくずれるように道端に倒れ込んだ。
「おねえちゃん、大丈夫?」
 肩ではあはあ息をしている環に、要が心配そうに言った。
「大丈夫だよ」
 環は言った。路地の方では、まだクロがほえたてていたけれど、泣きそうだった要の顔が、目の前でほころんだ。環も、つられるように、笑った。
 環は要を道端に立たせると、自分も立ち上がって、汚れたスカートのおしりを、ぱんぱんとたたいた。と、まるで忘れ物が不意に飛び出して来たかのように、涙がまたつるりと鼻筋を落ちた。
 環は、背筋を伸ばして、何も言わずに灰色の空を見上げた。スポンジに水が吸われるように、悲しい気持ちが胸に冷たく染みてきて、環は、くちびるをかみしめた。どこにも持っていきようがない、重い気持ちを抱いたまま、環はいつものようにさっと手を差し出すと、いつもと変わらぬ声で、言った。
「さあ行こう、要」
 要の小さな手が、吸いつくように環の手にとまった。

    (つづく)


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする