月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
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フォマルハウト・2

2013-09-20 04:14:20 | 詩集・瑠璃の籠

荒野を
闇の戦車隊が蹂躙する
鋼鉄の噴煙を上げながら
あらゆるものをばりばりと噛んでゆく
驚愕の悲鳴の束が耳を突き刺し
鉄の沈黙があなたがたを砕く
蠅のような黒い軍団が
雲のように空を支配する

灰の墓標が
森のように林立する
あなたがたの繰り返す
むごたらしい死が立てる
無数の灰の墓標が
雨の後の茸のように
にょきにょきと生えてくる

血に腐った
名誉の恥が
赤々と照らし出され
空があざ笑う
あなたがたが裏切った
すべての愛が
あなたがたを嘲笑する声が
嵐のようにあなたがたの脳を支配する

ゆけ
愚か者よ
あれこそが
あなたがたのしたことだ
すべてを受け入れ
愚か者の勲章の元
全ての愛につぐなうがよい
人類よ

愚か者よ
馬鹿者よ
裏切り者の
卑怯者よ

運命の復讐を
今こそ受けるがよい



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メンケント・4

2013-09-19 04:27:12 | 詩集・瑠璃の籠

夢の中の空は
まるで大きなフレスコ画のようだ
海は
たいそう荒れている
わたしは海辺を歩いている

わたしは
海の向こうの国に行きたいのだが
舟も 橋もない
潮騒は 湯のように暖かいが
わたしを 冷たく
向こう岸からひきちぎる

これは何のすべもないなあ
と思いながら
海のはるか向こうを見ようとするのだが
そうすると
まるで白い幕が落ちて来るかのように
風景が見えなくなるのだった

目を覚ますと
寝床の中にいた
わたしはしばらく床の中で
ぼんやりしていたが
何かふと 不安を感じて
起き上がった
なんだろう
何かとても
寒い気持ちがする
目をこすりながら
小窓の方を見ると
瑠璃の籠の中に
プロキオンがいなかった
わたしは驚いた

あわてて窓辺に近寄って
小窓の向こうをのぞいたりしたが
プロキオンの姿はない
わたしは扉の方に向かい
和室の中をプロキオンを探してめぐろうと思ったが
プロキオンがいないと
迷子になってしまうことを思い出して
やめた
なんてことだろう

小部屋に一人でいることは
わたしには何でもないことだったはずなのに
寂しさになど
とっくに慣れているはずだったのに
こんな風に 全く一人ぼっちになってしまうことが
つらいことだと思わなかった
プロキオンがいない

わたしは文机の前に座り
子どものようにおろおろと泣いてしまった
手で涙をこする自分が
あんまりに馬鹿みたいで
それでいっそう悲しくなって
また泣いてしまうのだった

ふと 猫の声を聞いた
見ると 机の上の蛸の文鎮が
星のように光っている
わたしは驚いて
文鎮を見つめた

硝子の中で
小さな炎がいくつか揺れて
それがくるくると小人のように
回りながら踊っている
そしてかわいい子猫のような声で
単調なメロディを歌うのだ

わたしは目をぱちくりさせながら
蛸の文鎮を眺めていた
そっと 手を伸ばして
文鎮に触れると
文鎮はまた 猫の声をあげる
にゃあ

ああ わたしは
わたしの白い猫のことを思い出した
かわいい猫だった
愛していた
もっとかわいがってあげたかったのに
もっとたくさんのいいことをしてあげたかったのに
できなかった
だきしめてあげたかったのに
いろんなものをあげたかったのに

そんなことを考えていると
蛸の文鎮が 不意に
ふふ と笑って
言うのだった

まったく あなたと言う方は
かわりませんね

わたしは驚いた
やわらかなメンケントの声が
また言う

ほんとうにあなたは
世話がやけますよ

わたしは 驚きながらも
答えた
ええまったく そのとおり
ごめいわくばかり かけています

ほんにあなたは
なにもかもを 正直にやりすぎますよ

ええ ほんとうに

わたしは 会話をしながら
いったいどういう仕掛けなのだろうと
蛸の文鎮を眺めていた
だが どうして文鎮から彼の声がするのか
もちろんわからない
けれども これが
メンケントの深い愛であることはわかった
わたしときたら
なんと馬鹿なのだろう
少しひとりぼっちになったくらいで
めそめそと泣くなんて

蛸の文鎮は
それから二言三言 ことばを交わすと
ネジが切れたオルゴールのように
ものを言わなくなった
それとともに 中で踊っていた
小人のような光も消えた
かすかに 潮の匂いがする

ちる という声がして
小窓を振り向いた
するとプロキオンが
瑠璃の籠に入ろうとしているところだった
わたしは立ち上がり
瑠璃の籠に近寄った

ああ 帰ってきてくれましたか
とわたしが言うと
プロキオンは少し
驚いたように
どうしたのですか
と言った

わたしはそのときはじめて
自分の顔が涙でたっぷりとぬれているのに気付いた
なんてみっともない

わたしは何も言えなかったが
プロキオンは何があったのか
わかったようだ
しばし ちるちると
やさしい歌を歌って
わたしをいたわってくれた

メンケント
あなたの愛が暖かい

わたしはプロキオンがいることに
安堵を覚えながら
また寝床に入っていった
最近はとにかく眠たくて
ずっと眠ってばかりいる

寝具の中に
横たわりながら
わたしは猫を抱くように
メンケントがくれた
暖かな愛を抱きしめるのだった



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ばらの”み” 6

2013-09-18 04:27:12 | 月夜の考古学

 階段を降りて、電話台の向こうの風呂場のドアを開けると、ちょうど正面に洗面台があって、大きな鏡に、背後の壁に飾ってある小さな絵が映っているのが、目に入った。ピンクのチョウチョの翅を背中につけた、妖精のような小さな女の子が、ひし形の白い額縁の中で、スカートの端をつまんでポーズをとっている。環は急いでドアを閉めた。
 ピンクの翅の妖精は、おかあさんがよく描く図柄のひとつだ。おかあさんの絵は、一応二流の美大を出ただけのことはあって、上手だとは思うけれど、あの図柄は幼稚な感じがするから、環はあまり好きになれない。
 環は脱いだセーターをカゴに投げ入れながら、(いいかげん、あれ、外せばいいのに)と、腹立たしげに思った。
(うちのおかあさんて、どうしてこう、変わってるのかなあ……)
 環は湯船にどぷんとつかりながら、深いため息をついた。湯加減は少しぬるめで、環にはちょうどいい具合だった。環はお湯の中でゆっくりと足をのばすと、少し黒カビの散った天井を見上げた。
「タマキがおかあさんのおなかにいた時ね、おかあさん、小さな女の子の妖精が、おなかに入る夢を見たの。タマキは、妖精がおかあさんにくれた、最高のプレゼントなのよ」
 昔、おかあさんが話してくれたこんな話を、環は長いこと、ほんとのことだと信じていた。友だちに、自分は妖精の生まれ変わりなんだってことを言って、笑われてしまい、泣き泣き家に帰ったこともある。そんな時、おかあさんは環に言ったものだ。
「タマキ、おかあさんは決してウソついたりしないわよ。でもね、世の中には、ホントのことが見えない人が、多すぎるの。だから、ホントのことをいう時は、とても注意しなくちゃいけないのよ」
「注意って、どうするの?」
「ホントのことを、歌や、お話御中に閉じ込めたり、織り込んだりして、それをさりげなく見せてあげるの。ホントのことが込められた歌やことばは、魔法の小箱みたいなものなのよ。それを聞いただけで、みんな、忘れていたことを思い出すわ」
「おかあさん、魔法がつかえるの?」
 環は目を輝かせた。おかあさんが魔女だなんて、すごい! そう思った環は胸をわくわくさせながら、おかあさんの返事を待った。するとおかあさんは、意味ありげな瞳で環を見つめ、にっこりと笑った。そしておおげさな動作をしながら、もったいぶった声で言ったものだ。
「ええ、使えますとも!」
 環は、手でお湯をばしゃんとたたいた。いやなことを思い出してしまった。あの後、環はクラスの友だちに、おかあさんが魔女だということを自慢してしまい、またばかにされたのだ。
(ああ、もういや!)
 環は大きくかぶりをふると、湯船からざっとあがった。
 お星さまを渡る龍の話だとか、お花畑にいた迷子の小人だとか、環たちのおかあさんは、昔から、そういうおとぎ話みたいなことを、さも本当にあったことのように話して、子どもたちをだますのが上手だった。今考えると、ほんとにばかばかしくて、おかあさんのあんな手にうまうまと引っ掛かってきた子供時代のことが、今の環にはくやしくてたまらない。
でも、おかあさんの言うことが、全部が全部ほんとじゃないってことを感じ出したのは、いつごろからだろう? 環は頭をごしごし洗いながら、考えた。確か、環が今の要くらいの時には、もうおかあさんのいうことは、ほとんど信用しなくなっていたように思う。
(そうだよね……、普通、二年にもなったら、いいかげん、わかるよね……。おかあさんて、大人のくせに、どうしてそんなことがわかんないのかしら?)
 環は頭にお湯をかぶると、ぬれた頭にタオルをまいて、もう一度湯船につかった。
 おかあさんは、昔、美大を卒業してしばらくの間、売れないイラストレーターなんかをやってたことがあるらしい。大人のくせに、おとぎ話が好きな原因はそんなことにもあるのかなと思う。
「子どもたちにいっぱい夢をあげられる絵本を作るのが、夢だったの」
 以前、そんなことを言っていたのを、思い出す。
 おかあさんは、二番目に生まれた要の目が見えないということがわかった時、イラストレーターの夢を一旦あきらめたのだそうだ。でも今は、主婦業の合間をぬってタウン誌のイラストを描いたり、出版するあてのない絵本の絵を、コツコツ描いたりはしている。あと、点訳ボランティアのサークルに入って、目の不自由な子どもたちにも楽しめる絵本などを考えたりも、している。
「最初はびっくりしたけどね。どうしていいかわからなくて、神さまをうらんだりしたわ。でも、後でわかったの。カナメは、おかあさんにすてきなプレゼントを持って生まれてきてくれた、天使なんだって!」
 そんなことも言っていた。環はもうだまされないけど、要は、自分が天使の生まれ変わりなんだってことを、今でも信じてるようなふしがある。
 いろんなことを一生懸命やって、がんばってるおかあさんを見るのは、環もそんなにきらいじゃない。でも、あの、おとぎ話を本当みたいに言うような癖は、絶対やめてほしいと思う。子どもに話すだけならいいけど、おかあさんは相手が大人だって、おんなじように話すのだ。前に住んでいたオツラン市のマンションでは、おかあさんは「天使の砂田さん」というあだ名で、近所のおばさんたちの間で有名人だった。
 おかあさんの言うことを信用しなくなってからも、環は、そんなおかあさんのことが原因で、近所の子どもたちにからかわれたことが何度かある。そういうとき環は、おかあさんには何も言わず、おとうさんの帰りを夜おそくまで待った。おとうさんは常識のわかる人で、環の気持ちもよくわかってくれたから。
「……気にするな、タマキ。あれで、亜智さんは一生懸命つらいことに立ち向かおうとしてるんだ」
 おかあさんがおふろに入っている時間などを見はからって、おとうさんは環の話をじっとまじめに聞いてくれた。
「つらいこと?」
「亜智さんは、ノー天気でなんにも考えてないように見えるけどな、要の目が見えていないとわかったとき、ほんとに苦しんだんだ。何もかも自分のせいだなんて言ってな。おとうさんは、亜智さんがいつ自殺するかと思って、見張るのが大変なくらいだった。亜智さんが天使だの妖精だのと口にするのも、多分そのせいだろう。人間、つらいことを耐え抜くためには、……なんていうかな、どうしても、神さまの助けがいるんだよ」
「神さま? でも、ゆっちやまなみんは、神さまなんていないって言うよ」
 環がそういうと、おとうさんは困ったような顔をして、しばし考えこんだ。
「……うーん、こういうのは、いるかいないかより、信じるか信じないかの問題じゃないかなあ。……人間はね、とても弱いんだ。強がり言っても、偉そうなことを言っても、いろんなものに支えられないと、生きていけないんだ……」
「じゃあ、神さまって、ほんとはいるの?」
「うーん、どう説明すればいいのかなあ……」
 環には、おかあさんの気持ちを全部理解することは、とうていできない。要のことが悲しかったのはわかるけれど、それがどうして天使や神さまとつながるのかと思う。そんな非現実的なものに頼らなければ、つらいことに耐えられないほど、おかあさんは神経が細くて、弱いんだろうか。普段のおかあさんの顔を見る限り、そんな風にはとても見えないけど。
(大人って、ちょっとやそっとの苦しいことにも、笑って耐えられるくらい、強いものだと思うな。……そうよ。わたしだったら、きっと、だれの助けを借りなくても、一人で耐えられる。それが本当の大人ってものよ。おかあさんが、おかしくなっちゃったのは、きっと、心が弱いからなんだ……。ようするに、まだコドモなんだよね)
 環は、おとうさんに深く同情してあげたい気分になった。考えてみれば、あんなおかあさんのもとで、環が普通に育つことができたのも、おとうさんのおかげなのだ。常識家のおとうさんがいると、おかあさんのおとぎ話病も、あんまり害にはならないから。おかあさんが、突然、「さあみんな、今日の夕食は、この豚肉と薬草で魔女の儀式をするわよ!」なんて言い出しても、おとうさんの「今夜はナベの方がいいなあ」の一言で、その晩の夕食はちゃんと普通の食事になる。
 でも、おとうさんがいないと……。
 環の眉がくもった。実を言うと、おとうさんだけをオツラン市に残して、この町に引っ越すことが決まった時、環の最大の心配の一つは、そのことだった。歯止めのなくなったおかあさんが、また変なことをしでかすんではないかしら……。
 足ふきマットの上に立って、バスタオルで頭をふきながら、環はふと何かの予感に襲われたような気がして、顔をあげた。くもった鏡の向こうから、白くけむった自分の顔が、ぎょろっとこっちをにらんでいる。
 あれは、去年のことだったろうか。おとうさんの仕事の都合で、ゴールデンウィークのピクニックの予定がつぶれたことがあった。その時、おかあさんは、突然「地獄を探検しにいくわよ!」と言いだして、九州まで三日がかりのドライブを決行したのだ。
 旅館の予約なんかしてなかったから、ずっと車の中で寝泊まりして、大変な旅行だった。おかあさんは地図を読むのが下手だから、何回も道を間違った。最初のうちは、おいしいラーメンを食べたり、変な博物館でワニの骨に触ったりして、おもしろかったけど、だんだん疲れてきて、後半はもうくたくたで、トイレに行きたくても車から出る気力もない有り様だった。この「探検」を最後まで楽しんでたのは、おかあさんと要だけ。(要のやつ、おかあさんのすることは何だって正しいと思ってるんだから!)
 そんなこんなで、ようやく別府についたら、真っ青になったおとうさんが環たちを迎えにきていた。「みんなで地獄に行ってきます」というおかあさんの置き手紙を読んで、肝をつぶしたおとうさんは、あちこちに連絡してみんなを捜しまわったあげく、ようやく別府行きをつきとめて、飛行機で先回りして待ってたんだそうだ。もちろん仕事を休まなくちゃならなかったから、おかあさんはこっぴどくしかられた。
(まさか、あのときみたいなバカはしないと思うけど……)
 おとうさんの帰ってくる土曜日、おかあさんはいつもきげんがいい。お小遣いをねだっても、めったに断られることはないくらいだ。アサギリ市に引っ越してきてから、意外におかあさんがおとなしくしてるのも、土曜日にはきちんとおとうさんが帰ってきてたからだ。でも今度は、ひと月以上も、おとうさんは帰って来ない。クリスマスにも、帰れないとなると……。
 環はバスタオルをばさっと脱衣カゴの中に落とした。
(……だめだ。きっと何かやらかす!)

 環のそのカンは、見事に当たった。
『サンタクロース探偵団。発足式』
 翌朝、ぬくぬくと布団にくるまっていた環が、ようやく起き出して、顔を洗いに階下に下りてきてみると、居間の壁にこんな横断幕が張ってあったのだ。
「こ、これ何? おかあさん!」
 驚いた環がすっとんきょうな声で言った。
「おはようタマキ。カナメもヒカルももう着替えてるわよ」
 おかあさんが台所から、のんびりと答えた。
「あのね、おねえちゃん、これから要たち、サンタクロースを探しに行くんだって!」
 冷蔵庫を開けて、ジャムのびんを探っていた要が言った。光はファンヒーターのそばで靴下をはきながら、楽しそうに『ジングル・ベル』を歌っている。環はわけがわからず、きょとんとおかあさんの背中を見つめた。
「さ、パンが焼けたわよ。タマキも突っ立ってないでテーブルにつきなさい。ヒカル、ゆで卵は一つずつよ」
 少し不安を感じながらも、香ばしいトーストの匂いにひかれて、環は椅子に座った。おかあさんは、みんなが席についたのを見届けると、突然エプロンのポケットからクラッカーを取り出し、「さあ、いくわよっ」と声をあげた。要があわてて耳に指を突っ込んだ。そして環があんぐりと口を開けて見守る中、おかあさんは天井にクラッカーを向けて思い切りヒモを引っ張った。
 すぱーん!!!
 環は、コマクが飛び散るかと思った。特有の匂いが広がってきて、飛び出した七色のテープがミルクの中に入った。耳をふさぎそこなった光は、大好きなゆで卵を床に落としてしまった。
「さあみんな、聞きなさい。これから私たちは、探索の旅に出なければなりません!」
 テープの束を頭からかぶった要が、わくわくした表情で、おかあさんの方に顔を向けている。おかあさんは環たちの顔を見渡すと、アサガオの種みたいに目を小さくして、にぃっこりと、笑った。そして空になったクラッカーをマイクがわりに、おおぎょうに手振りをまじえて、演説をはじめた。
「昨日、わが家の王子が、友によって一つの試練を授けられました。……果たして、プチ・ノーレのサンタクロースは、ほんものか? いやそもそも、サンタクロースとは何者か? 本当に存在するのか? われわれは、この謎をぜひとも解かなければなりません。そうしなければ王子の名誉が回復できないのです。家族が結束するのは、まさにこの時! 私は本日、『サンタクロース探偵団』を発足することを、ここに宣言します!」
 要がぱちぱちと拍手をした。光も卵を拾ってから、あわてて要に続いた。環はパンを口につっこんだまま、呆然とおかあさんの顔を見上げた。

  (つづく)




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ばらの”み” 5

2013-09-17 04:25:22 | 月夜の考古学

3 サンタクロース探偵団

 その晩の夕食は最悪だった。
 ハンバーグは黒コゲだったし、付け合わせのジャガ芋は生煮え、お味噌汁のお豆腐は煮え過ぎて、すが入っていた。もともとおかあさんは料理が得意なほうじゃないから、よく失敗はするんだけれど、主婦歴もそれなりに長いから、ここ数年はずっと安定したレベルの晩ご飯を作ってくれてはいた。こんなひどい失敗は、環が幼稚園の時以来だ。
 食事中はしんと静かだった。環はご飯を口に運びながら、時々おかあさんの顔をじろじろと見た。
 おかあさんは、お漬物をぽりぽりかじりながら、テーブルの上の一点を見つめて、何かをぼんやりと考えている。こういう時のおかあさんは、目の前にいても、ほとんどいないのと同じだ。だれが何を言ったって、おかあさんには聞こえないし、話しかけたって、返事もしない。おとうさんの言葉を借りると、おかあさんの頭は今、魂ごとすぽんと抜けて、どこかに行ってしまっているのだ。
 こんなのって、うちではよくあることだし、環もみんなももう慣れている。今さら何を言ったってしかたない。それはわかっているけれど、なんだか無性にいらいらして、環はかたいジャガイモを憎らしげに箸でつついたり、時々わざと音をたてて茶碗をテーブルに置いたりした。でもおかあさんはぼんやりと宙を見つめて、ただお漬物ばかりをかじり続けている。
 光は、おかあさんと環を交互に見ながら、時々無意味に、にいっと笑ったり、ずるずるみそ汁をすすったりした。いつもは黙ってろと言われても絶対黙らない要も、やっぱりうつむいて、神妙にもぐもぐ口を動かしている。
 環は小さく舌打ちした。要がその音に気づいて、ふと顔をあげたけれど、またすぐにうつむいた。小さな音は、だれにも拾われることなく、ホコリくずのようにそのままどこかに落ちて消えてしまった。
「……ごちそうさまあ」
 環が言うと、ようやく気づいたかのように、おかあさんが「あ、もう終わったの」と言った。でもそれだけで、またおかあさんはうわの空になった。環は椅子から立ち上がると、黙って自分の分の食器を洗った。ハンバーグは何とかいけたけど、ジャガイモは食べられなかった。
 環は二階の自分の部屋に上がると、ベッドの上に体を投げて、うーんと、手足を思い切り伸ばした。
「あーあ、大人なんて、いつだって自分勝手なんだから」
 環は、いらいらした気持ちをぶつけるように、天井に向かって小声でつぶやいた。胃の中の黒焦げハンバーグがまだこなれていなくて、少し気持ちがむかむかしていた。
 天井の木目模様は、見ようによっては、鼻のとがった奇妙な魔女の横顔のように見える。そう言えば、この部屋で初めて一人で眠った夜、環はこの横顔が気味悪くて、何度かおかあさんたちが眠っている隣の部屋に行こうとした。けれど、おかあさんにタマキもまだ子どもだねって言われるのがくやしかったから、ふとんを頭からかぶり、無理に目をつむって眠ろうとしたっけ……。
 もう一人で寝るのには慣れたけれど、この天井の模様を見ると、今でもあの夜、ひとりぼっちの部屋がさみしくて、こわくて、ほんのちょっと泣いてしまったことを、環はくやしく思い出してしまう。もちろん、これは絶対の秘密。おかあさんにだって、おとうさんにだって、だれにも知られてはならない。
 環は、目を閉じた。目を閉じると、その暗闇の中で、なにかが、もぞもぞと動き出してくるような感じがした。だれも知らない、環の秘密。環だけが知っている……。その秘密は、きっとこれからも、永遠に環の中に閉じ込められる。環の中だけで、生き続ける……。環は、目を開けた。ちょっと、背筋を寒気が走った。自分の中に、自分ではないものが住んで、うごめいているような、気がして、それはまるで、かび臭い湿った布が、胸のどこかに冷たくひりついているような、気色の悪い感覚だった。
 ……秘密? 秘密って、何? 本当にわたしのもの? それとも、もしかしたら……、違うの?
 環は半身を起こすと、頭をぶんぶんと振った。こうして一人で物思いにふけっていると、自分がひどく大人になったような気がする。だれにも邪魔されない、自分だけの部屋、自分だけの世界。……けれど、ずっとその中でいると、心が、どこか違う知らないところへ、ずるずる引きずりこまれていきそうで、ちょっとこわくなる時もあるのだ。
 環は頭の中を切り替えようと、はずみをつけてベッドから勢いよく立ち上がった。そして机の上のカバンを開いて連絡帳をとりだし、教科書の入れ替えに取りかかった。
 環のカバンは、おかあさんの手作りだ。正確には、おかあさんのデザインのアイデアをもとに、お母さんの友達の中でいちばん裁縫上手な人が縫ってくれたものだけど、ベージュの厚手の布でできてて、外側の大きなポケットが二つついている。ポケットにはそれぞれに、ピンクのちょうちょやチューリップのアップリケが縫い付けてあって、その子どもっぽい図柄が少し不満ではあるんだけれど、内側には秘密のポケットなんかもあって、ヒモをつけかえれば手提げにもリュックにもなるし、環もほんとはちょっと気に入っていた。
 「国語、体育、ええと、宿題はない、と……」
 連絡帳をたしかめながら、環は手際よくカバンの中を入れ替えた。父親似の環は、何かにつけ大ざっぱなおかあさんと違って、部屋のそうじも片付けもけっこうきちんとやる方だ。だから明日の学校の準備だって、毎日きちんとやる。(たとえどんなに学校にいくのがいやだと思っても。)忘れ物なんて、めったにしない。
 環は、時々自分がおかあさんのすることに我慢ができなくなるのは、こんな性格の差もあるんだな、と思う。そして、やっぱり自分の部屋があってよかったと、思う。だってここにいたら、おかあさんの顔を見て、声をきいて、気分が悪くなることもないから。
(どうしてこう、あわないのかなあ。親子なのにね)
 そんなことを考えながら、机の隅の筆箱をとろうとしたら、筆箱がいやいやをするように環の手から逃げて、じゃらんと畳の上に落ちた。
 環は、ためいきをつきながら、散らばった鉛筆や消しゴムをひろい集めた。そしてまたカバンに向き直った時、ふと、カバンの表の部分に、小西アキがつけた足跡がまだ消えずに残っているのに気づいた。あわててよく全体を見直してみるとヒモの端っこについた
赤い木製の飾り玉にも、昨日までなかった新しい傷がついている。
 高倉和希のいやらしいカエル顔が、脳裏にありありと浮かびあがってきた。いつのまにか体がふるえてきて、手の中の筆箱がきしきし悲鳴をあげた。
 明日も、あのいやなやつに会わなければならないのか。そう思うだけで、環の心は、ずんと重たくなる。ほんとうは、あんな学校になんか二度と行きたくないって、何度思ったことだろう。でも、登校拒否をする勇気も、環にはないのだ。大体、自分がいかなければ、だれが要と手をつないで学校に行くんだろう。
 学校で、要といっしょに歩いていると、環はよく先生に声をかけられる。
「環さんて、えらいね。要ちゃんも、やさしいおねえさんといっしょで、いいねえ」
 みんな、環をほめてくれる。あの広田くんだって、そんな環を気に入ってるから、声をかけてくれるんだ。
(広田くん……)
 環は、なんだか急に力が抜けて、握っていた筆箱をこつんと机に置いた。そして重い力に引き込まれるように、ベッドの上にごろんとねころんだ。
 目を閉じると、広田くんの笑顔が、環の脳裏に鮮やかに浮かび上がる。広田くんの、少し赤っぽい髪、すらりと長い手足、いたずらっぽくて、やさしい笑顔、そして、あの、とてもきれいな、瞳……
 彼はハンサムだし、運動神経だっていいし、元気で明るくって、友達も多い。だから、五年生の男子の中では、ダントツで女子に人気がある。あのエラそうな高倉和希だって、広田くんの前では、子リスみたいにおとなしくなる。
 でも、環が好きなのは……
 環はまくらを持ち出すと、それを顔の上に置いた。胸の奥がじんじんと熱くて、涙がほろりと落ちた。環はまくらに口をつけて、秘密の宝物を、その中にそっと埋めるように、小さな声でつぶやいた。
 ひろた・くん……
 胸の中を羽根でくすぐられたような、波紋がふわりと起きて、全身に広がった。環はまくらをぎゅっと強く抱きしめた。胸が詰まって、苦しくて、うれしくて……。涙がでちゃう。好きな人のことを考えるだけで、どうしてこんなになっちゃうんだろう?
 環は、洗面器の水に浸けていた顔をぱっと起こすように、抱いていたまくらから顔を離した。すると、待っていたかのように、初めて広田くんと会った時の、あの風景が、夢みたいに環の中に広がった。環は再びまくらを抱いて体を縮ませ、目を閉じた。そして、秘密の日記を繰り返し繰り返し読むように、だれも知らない、環だけの広田くんの思い出の中に、また入っていった。
「どうしたの?」
 環の耳に刻みこまれた、あの時の広田くんの声。神経を集中すれば、今でも環は、ありありと、耳の中で聞くことができる。
「どうしたの? 歩いてきた方向、わからなくなったの?」
 あれは、環たちがアサギリ小学校に転校してきて、三日目くらいのことだった。下校時に、校門で環を待っていた要に、最初に声をかけてくれたのが、広田くんだった。白い杖を持って、校門の柱の陰に隠れるようにして立っていた要を見て、何か困っていると思ったらしい。ちょうど環は、そこから少し離れたところまで来ていて、一部始終を見ていた。
 「ううん……」
 まだ新しい環境になれていなかった要は、すみっこに追いつめられたネズミみたいに縮こまって、真っ赤になって返事をしていた。広田くんはひざを曲げて目線を要に合わせ、手をそっと差し出しながら、やさしく言った。
「家はどこ? よかったら送ってってやるよ。おれは三丁目に住んでるんだけど」
「あ、あの……、すず……が……」
 要はもじもじしながら、小声で言った。広田くんはよく聞こえなかったらしく、耳に手をあてて、聞き直した。
「え? 何?」
「お、おねえちゃんの、すずの音がするから……」
 要は、おずおずと、環がいる方を指さした。環は驚いて、思わず鈴のついたカバンを後ろに隠した。広田くんは、少し離れたところに突っ立っている環を見て、ああ! と、声をあげた。
 環には、あのときに見た広田くんの笑顔が、忘れられない。
 まるで、空を見上げるような、まっすぐな顔で、環を見た。
 すっごく楽しいことを、たった今見つけたみたいに、瞳がきらきら輝いていた。
 そして、いやなことなんか、いっぺんで吹きとんでしまいそうな、底の底までからっと澄んだ声が、ひといきの涼しい風みたいに、環の心臓(なか)を、吹き抜けた。
「へええ! そっかあ!」
 恋に落ちるきっかけなんて、どこにあるかわからない。どうしてこんなに好きになってしまったのか、本当はもう、環にもわからない。だけど、広田くん、広田くん……。大好き……。
 広田くんは、環が目の見えない妹と手をつないで帰る姿を見て、ひどく感心してくれた。
「へええ、ちろちろうるさい鈴だと思ってたけど、このためだったんだな」
「うん……」
「でも、えらいなあ、君。これからも毎日、いっしょに帰るの?」
「……あ、うん、そう……」
 環は思わずそう言ってしまった。本当は、引っ越しの後かたづけなんかが終わって、落ち着いたら、要のことはまたおかあさんにまかせるつもりでいたのだけれど……。それを聞いた要が、家に帰ってから大喜びでおかあさんに報告したものだから、環はもう引っ込みがつかなくなってしまったのだ。
 あれからもうどれくらいたつのか。環は、五年生と二年生の下校時間が大幅にずれるクラブ活動の日などをのぞいて、ほぼ毎日要と手をつないで登下校した。おかあさんはそんな環を、時々変にうれしそうな目で見ることがある。でも環は恥ずかしくて、そんなおかあさんの目を、しかめっ面で受け流してしまう。本当は、広田くんと話したことがきっかけだったなんて、死んでも言えないからだ。
 広田くんがいなければ、きっと一日だって、あんな学校にはいられない。環は長い息を吐くと、そっと目を開けた。そして、くちびるを軽くかみながら、胸の中でちくちくうずく思いを、泣きたいような気持で、味わった。
「タマキぃ! おふろに入りなさい」
 突然、階下からおかあさんの声が聞こえて、環は目の前の風船が破裂したみたいに、びっくりした。
 時計を見ると、もう八時だ。環は気分をそがれたことに、ちょっと腹が立ったが、めんどくさそうに「はあい」と返事をすると、まくらを放り投げてベッドから身を起こした。

   (つづく)



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ソル・9

2013-09-16 04:17:43 | 詩集・瑠璃の籠

苦しんでばかりはいけない
試練の闇の中にも
わたしを 思いなさい

あなたがたが
見ようとするだけで
あなたがたは
わたしのほほえみに
触れることができる

泥の雨の降る荒野を
歩くその足を
ひととき 
わたしの足と
代えてあげよう

ああ
じゅうじかのように
あなたを背負ってあげよう
心配はない
わたしに 甘えなさい

ひととき
何もかもを忘れ
わたしの ほほえみの中に
眠りなさい

嵐の荒野を
ゆくあなたがたを
わたしの ほほえみが
追いかける
いつまでも

愛している



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ヴェガ・5

2013-09-15 03:44:23 | 詩集・瑠璃の籠

たまらぬさみしさを
かきむしり
頭を抱えた
両腕の中に
涙と嗚咽を隠し
後悔の声を
沈黙の中につぶしている

あなたがたの苦しみが
すべて
わかるぞ

ふるえる声が
ネズミのように
逃げていく
すべてが
自分から逃げていく
あのとき なぜ
あんなことをしたのかと
何度も 何度も
自分に問う
答えはわかりきっていながら
何万回と 問う

あなたがたの
小さな魂のあえぎが
すべて わかるぞ
人よ

愛しているよ



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トゥバン・3

2013-09-14 05:19:38 | 詩集・瑠璃の籠

わたしの愛の庭で
自由に踊りなさい
人よ

外には嵐が吹いている
石つぶてが風に混じり
あらゆるものを傷つけようとする
だがひととき
ここにある庭は
あなたがたを愛に包む

わたしの愛の庭で
自由に踊りなさい
人よ
おまえを蝕むものは
ここにはいない
おまえを馬鹿にするものは
ここにはいない
ただ自然な愛がある
わたしはあなたがたに
何も言わない
自由に踊りなさい

楽しく手を伸ばし
ステップを踏み
美しさに酔い
すべてを微笑みにとかし
あふれる涙に
まなざしを交わし
愛を流し
互いを抱きしめなさい

わたしの愛の庭では
何も心配する必要はないのだ
わたしは トゥバン
あなたがたのために
一滴の光で
愛の庭を作る




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アルタイル・8

2013-09-13 04:54:42 | 詩集・瑠璃の籠

馬鹿者どもよ
うろたえるな
しばしこうべをたれ
わが声をきくがよい

おまえに使命をやる
糞の深海に沈み
その下で業火に苦しむ
すべての魂を救ってこい

愚か者よ
糞の深海に沈み
毒に溺れ
あらゆるものを馬鹿にし
悲劇に貫かれる
心臓の痛みにしびれ酔う
馬鹿の馬鹿をすべて救ってこい

おまえに翼をやる
すべてを救ってこい
そのようなものをもらえば
もはやおまえは
おまえではなくなる
翼がおまえを支配する
使命がおまえを凌駕する
全てをやってこい

あらゆる馬鹿をやった馬鹿よ
おまえに使命をやる
おまえに翼をやる
愚かなる泥の天使となり
すべてを救ってこい



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ばらの”み” 4

2013-09-12 06:30:10 | 月夜の考古学

「おねえちゃん、ラジカセ貸して!」
 ドアを開けるなり要が言った。環は机の上の小さなラジカセに手を伸ばしながら、ふきげんな声で言った。
「ノックしなさいっていつも言ってるじゃない」
「あ、ごめんなさい! ねえ貸して!」
 環は小さく舌を打つと、仕方なく立ち上がって、ラジカセを要が立っている所に持って行ってやった。
「また例のやつ?」
「うん! ねえねえ、ピリンって、どう思う?」
「何それ。プリンなら知ってるけど」
「テレビで言ってたの! 今おかあさんが意味調べてくれてる!」
 要はラジカセをとると、うれしそうに階段を下りて行った。開けっ放しのドアの向こうから、おいしそうなココアのにおいが流れてきたので、環も部屋を出て、階段を下りた。
 台所に行くと、辞書を開いているおかあさんの隣で、要はいそいそとラジカセにカセットテープをセットしていた。ぎこちないけれど、何でも自分でできるんだと自信ありげな手つきだ。実際、要は、着替えだとか片付けだとか、家の中ですることなら手を貸さなくても大体一人ですることができた。これはこうするのよと、おかあさんが手取り足取り教えることは、ほとんどいっぺんで覚えてしまう。知らない人は、要の目が見えないことなんて、気がつかないかもしれない。
「……これは、ちょっと説明がむずかしいわねえ。要するに薬の種類のことよ。ピリン系とか、非ピリン系とかいう……」
 おかあさんがあごをなでながら言うと、要はひょいと顔をあげた。
「ふうん、薬の名前なの?」
「カナメはどんな名前だと思ったの?」
 おかあさんはふと辞書から目を外して、要を見た。
「うん、あのねえ、お星さまみたいって思った」
「お星さま?」
「ほら、前におかあさんが言ってたでしょ。お星さまは、ずっと向こうの上の方で、きりきり光ってるって。要の頭の上に、風があって、そのまた上にも風があって、いっぱいいっぱいそれが重なってて、それよりもまだ、ずうっとずうっと向こうに、お星さまがあって、それがここから、いーっぱい、見えるんだって。……要、よくわからなかったから、考えてたんだ。お星さまって、どんなのかなあって」
「ふうん。それで?」
 まるで宝物でも見つけたみたいに、おかあさんの目がきらりと光った。
「でね、さっきテレビで、ピリンていうのが、聞こえて、あ、これだって思ったの。お星さまって、きっとこんな感じなんだって」
「そうかあ、なるほどね!」
 おかあさんは辞書をぱたんと閉じて、感心したように何度もうなずいた。
「カナメの中で、きっとお星さまが、ピリン! て光ったんだね!」
「うん、そう!」
 要はうれしそうに言った。環はコタツの上においてある自分のココアをとりながら、内心バカみたい、と思った。ピリンがどういうふうにお星さまとつながるのか、環にはまるでわからない。
「じゃあ、おかあさん、ラジカセに『ピリン』て言って! いつもみたいにね!」
「はいはい」
 おかあさんは要がラジカセのスイッチを押したのを見ると、「ピリン。ピー、リー、ンッ」と、一回目は短く、二回目は長く伸ばして言った。環はばかばかしいと思いながらも、その間、音をたてないようにじっと息をひそめた。
この「名前集め」は、ここ最近、要が夢中になっている趣味の一つだ。普通の女の子が、きれいな便せんやハンカチを集めるように、要はきれいな「名前」を集めている。
 テレビや本なんかで、気に入った名前を見つけるたびに、要はおかあさんにたのんで、カセットテープに吹きこんでもらっていた。自分で吹きこめばよさそうなものだけど、要はおかあさんの声がいいんだそうだ。環も、前に何回かたのまれて吹きこんだことがある。確か、「ユキワリソウ」というのと、「セレスティーヌ」という名前だった。(言っとくけどセレスティーヌってのは、近所のおばさんが飼ってるパグの名前だ。)
 目が見えない要にとっては、きれいな音の連なりというのは、特別な意味を持っているんだろうか。確かに環も、前に自分の名前のことでおかあさんに文句を言ったことはある。タマキなんて変な名前、どうしてつけたんだ、ユキだとかマナミとかの方がずっといいのにって。けれど、いまではもうそんなくだらないことで悩むようなことはなくなった。名前なんて、どうせ他人と自分を区別するのに必要なだけのものだ。あんな要の幼稚な趣味に、おかあさんは、よくいちいちつきあってられるなあと、環は思う。
 環は、うれしそうにテープをかたづけている妹を横目で見ながら、少しぬるくなったココアを音をたててすすった。
 光が、コタツの中で大声をあげて泣き出したのは、その時だ。
「うわーん、おかあさんたちのばかー!」
 みんなは一斉に今の方を振り向いた。おかあさんが、「いけない、忘れてた……!」と言って、おろおろと環たちの顔を見た。間の悪いことに、その時玄関の方で電話が鳴った。おかあさんと環は目を見合わせたが、環の方が玄関に近いところにいたので、光のことはお母さんたちにまかせ、環は電話を取りに行った。
「ヒカルちゃん、ごめんね……」
 おかあさんたちのあわてた声を背中に戸を閉めると、環は電話の受話器をとった。
「はい、砂田です」
「あ、タマキか?」
「何だ、おとうさんか」
 環は持ってきたココア入りのマグをすすりながら、ちょっとぶっきらぼうに言った。おとうさんは駅のホームかどこかにいるらしく、電話の向こうからはざわざわとアナウンスの声や人込みの気配がした。
「どうしたの? 今頃」
「いや、ちょっとな。亜智(あち)さんはいるか?」
 亜智さんていうのは、おかあさんの名前だ。おかあさんはおとうさんのことを、おとうさんて呼ぶけれど、なぜかおとうさんは、おかあさんのことを、亜智さんて呼ぶ。別に、だれかにそうしろと言われたわけじゃなくて、単なる昔からの癖なんだそうだ。
 環は、ドアの向こうのおかあさんたちの気配にちょっと耳をすませてから、言った。
「いるよ。今ちょっととりこんでいるんだけど、呼んで来ようか?」
「あ、いいよ。携帯だし、またかける……」
「言いにくいようなら言っとくよ。どうせいつものことだし」
 環が気をきかせたつもりで言うと、おとうさんは虚をつかれたように、一瞬だまりこんだ。
「ああ、……いや、じゃ、タマキに頼むか。実は、これから仕事で横浜の方に行かなきゃならないんだけどね。その、どうも、しばらく帰れそうにないんだ」
 おとおうさんの声が急に小さくなった。おとうさんが仕事で帰れないなんて言うと、おかあさんのきげんはいっぺんで悪くなるので、環は気をきかせて言った。
「わかったよ。で、いつまで帰れないの?」
「いや、それがどうも……もしかしたら、年内いっぱい、だめかもしれないんだ……」
「年内!! だってまだ十一月だよ!」
 環は思わず大声になった。
「いやその、くわしいことは言えないんだけど……」
「なに? 大変なの?」
「いいや、たいしたことはない。ただ、向こうの技術者が突然入院しちゃってね、トラブルを解決できるのが、おとうさんしかいないんだよ」
 おとうさんは、困ったような声で、言った。環は、ホームのすみで、額に汗を流しながら携帯にかじりつくようにしてしゃべっているおとうさんの姿を想像すると、ちょっとかわいそうになってきた。おかあさんがノンビリしてる分、おとうさんにとって、環は大事な頼みのつなのひとつなのだ。
「クリスマスも帰れないの? おかあさん、今年はどんなパーティーしようかとか、この前言ってたよ」
「そうだな……、クリスマスには、帰れるよう、なんとかするよ」
「それ、あてにしていいの? おかあさんが怒ったら、また何やらかすかわかんないよ。そうなったら迷惑かけられるのは、わたしなんだから」
「迷惑って……、そんな、大丈夫だよ。おかあさんだって、大人なんだ。……あっと、もう時間だ。じゃあなタマキ、たのむよ。後でちゃんと亜智さんにはあやまるから」
 それだけ言うと、逃げるように電話は切れた。
「もう、おとうさんのバカ!」
 環は腹立ちまぎれに、電話をがちゃんと置いた。
 居間の方に戻ると、おかあさんと要が、テレビの横に座りこんでしゃくりあげている光を、なだめている最中だった。
「そんなのゼッタイ英っくんの方が悪いよ。光ちゃんはまちがってないよ!」
 要はコタツの上に手をついて身を乗り出し、いきまいていた。
「どうしたの? 光」
 環がコタツに足をつっこみながら言うと、おかあさんが言った。
「ヒカル、幼稚園のお友だちとけんかしたらしいの。ほら、この前の日曜日にみんなでプチ・ノーレに行った時、お店の前にサンタさんがいたでしょ。ヒカルはね、そのサンタさんが本物のサンタさんだって言うんだけど、お友だちの英ちゃんは、ニセモノだって言って、それで……」
「なあんだ、そんなこと」
 環はあきれたように言った。
『プチ・ノーレ』は、おかあさんがよく行く旧駅前商店街にあるケーキ屋さんのことだ。(ちなみにこの名前もちゃんと要のコレクションに入っている。)あそこのいちごのケーキはとてもおいしくて、環もよく買いにいく。この前の日曜に家族みんなでケーキを買いに行ったとき、サンタクロースのかっこうをしたおじさんが店の前に立っていて、子どもたちに囲まれて笑顔をふりまいていたのは、環も覚えていた。それとサンタのおじさんが、片手に『プチ・ノーレ開店一周年記念』と書いた立札を持っていたのも。
「光ったら、あれはね……」
 環が何かを言いそうになったのを、おかあさんがさえぎるように言った。
「ヒカル、心配しなくていいのよ。ヒカルはまちがってなんかいないわ。英ちゃんはね、ちょっとかんちがいしてるだけなのよ。だからほら、そんなに泣かないで……」
 おかあさんは光の頭をなでながら、やさしく言った。光は涙と鼻水だらけのみっともない顔を、何度も上下させた。環は、ちぇっと、小さく舌打ちした。子どもの夢はこわさないほうがいいって、おかあさんは思ってるんだろう。でも、そんなのはばかばかしいと環は思う。今はだませても、きっといつかは、ばれてしまうんだから。
(後になってわかった方が、光はショックを受けると思うけどな)
 環はそう思ったけど口には出さなかった。おかあさんにタオルで顔をふいてもらうと、光はさっぱりしたのか、ようやくきげんをなおして笑った。
「よーし、いい子ね、ヒカル。ヒカルにもココア作ってあげようね!」
 そう言っておかあさんが立ち上がった時、環は思い出したように言った。
「あ、そうだおかあさん、さっきの電話、おとうさんからだったよ」
「あら、おとうさんから?」
 おかあさんの顔がぱっと輝いて、環の方を振り向いた。環は、さりげなさを装ったつもりで、マグに口を近づけながら無造作に言った。
「仕事で、年内は帰れそうにないんだって」
 すると、さっきまで笑っていたおかあさんの表情が、突然強ばった。それを見た環は、あと一口残っていたココアを飲みそこなって、コタツ布団の上にぽたぽた落としてしまった。
 瞬間、家の中が、しんとした。要でさえ、気配に気づいて、黙り込んでしまった。おかあさんは、環を見て、何か言いそうな顔をしたけど、せっかく笑った光の顔がまたくもりだしたので、思い直したように、あわててにっこり顔をつくった。
「そうそう、ココアつくらなくっちゃ!」
 そう言って、おかあさんは、くるりと背を向けた。みんながほっと安心したのもつかのま、台所からミルクなべをがちゃんとガス台にたたきつける音が聞こえて、環はびくりと肩をすくめた。こわごわと台所をのぞくと、ガス台に向かったおかあさんの背中が棒っくいのようにとんがっている。いつもは歌ったりしゃべったりしないと手も動かさないおかあさんが、石のように何も言わなくなる。あれは怒っているしるしだ。
 光が、少し責めるような目つきで環を見た。
(なによ、わたしのせいだっていうの?)
 環はぎろりとにらみかえした。要も、不安そうに、環の方に身をすりよせてきた。
 しんと静かになった家の中で、環たち三人は、しばしねずみのように首をちぢめて、嵐が過ぎ去るのを待つ覚悟をした。

   (つづく)



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ばらの”み” 3

2013-09-11 04:16:14 | 月夜の考古学

2 名前集め

 クロの道をぬけてから、また道を二度ほど曲がると、新しいきれいな家々が並ぶ、静かな住宅街に出る。
 ここは最近、広い田園地帯をつぶしてできた住宅街なんだそうで、きれいに舗装された道の両側には、よく似た顔をした新築の家々が、ぎょうぎよく一定間隔で並んでいた。パステルピンクや品のよいブルーグレーに塗られた家々には、西欧風の飾り窓やテラスがあったり、庭木の陰に小人の人形やギリシャ彫刻みたいな置物がおいてあったりして、それはそれでかなり素敵なんだけど、どことなくうそっぽい感じもして、端っこの家をひょいと押したら、ドミノみたいにぱたぱた倒れてしまうんじゃないかと、錯覚することもある。
 でも、環たちの住んでいる家は、そんな家々の中では一きわ古びて見える、平凡な作りの小さな家だった。門の前に立つと、くすんだアルミサッシや赤茶色の屋根瓦が、まじめくさった堅い顔でたたずんでいる。鮮やかな浅葱や、クリーム色の新しい家に挟まれていると、風雨にさらされた白い外壁はとても薄汚れて、やぼったく見えた。今年の春に引っ越してきて、最初にこの家を見た時、環はずいぶんとがっかりしたものだ。
 玄関の前には、申し訳ていどの庭があって、手入れのよい門かぶりの松や、木犀やピラカンサなどの灌木がちんまりと植わっている。十一月も終わりに近い今では、木犀はもう花を終えたけれど、ピラカンサは赤い実をたくさんつけていた。前の住み主は、動植物が好きな人だったらしく、庭木たちは色つやもとてもよく、ピラカンサの陰には小鳥のための手作りのえさ台なども残っていた。
「きっと、小鳥がいっぱいこの実を食べに来るわよ。メジロだとか、ウグイスだとか」
 おかあさんは、そう言ってたけど、今のところ、環が見た庭に来る鳥は、カラスかスズメくらいのものだ。
「あれえ、光(ひかる)ちゃんが泣いてるよ」
 家の前までやって来ると、ふと要が言った。
「ほんと? よく聞こえるね」
 環が言うと、要は得意そうに笑って言った。
「へへ、要ね、この前、新発見したんだよ。居間と階段の間のドアが開いてるとね、外からでも中の声が聞こえるときがあるんだ」
「ふうん」
 環は別に関心もないといったふうに返事をした。要の新発見という言葉は、あやしいからだ。重大発見なんて言っても、単にその時たまたま思いついたことを、適当に言ってるだけだったりする。でも弟の光は、外で友だちとケンカしたりすると、必ず泣いて帰ってくるやつだから、今要が言ったことはあながち嘘ではないかもしれない。
「光ちゃん、どうしたのかなあ」
 環が門を開けると、要はひとり言を言いながら環をさっとおいこし、庭木を器用によけて裏の勝手口の方へ歩いて行った。もうこの家に住みはじめて半年以上たつから、要もなれたものだ。
 勝手口を開けて入ると、」すぐ台所があり、テーブルの向こうにプラスチックの玉のれんが見える。要が靴をぬぎながら「ただいまあ」と言うと、おかあさんが玉のれんをからから鳴らして、ひょいと顔を出した。
「お帰り、今日はちょっと遅かったね」
 セミロングの髪を無造作にたばねたおかあさんが、エプロンのポケットで何かをちゃらちゃら鳴らしながら、環たちを見て笑っていた。すりきれたよれよれのジーパンとセーター、絵具で汚れたエプロン。化粧もパーマもめったにしないおかあさんは、ソバカスだろうがぼさぼさの眉毛だろうが、別に恥じるわけでもなく、どうどうとさらしている。
 でも環はこの頃、おかあさんの顔をあまり見ない。見てもすぐ顔をそむけてしまう。欠点ばかりが目についてしまうからだ。背はほっそりと高い方で、スタイルはまあまあかなと思うけれど、顔はとても美人とは言えないし、何より、いつもへらへら笑ってるようなしまりのない顔が、環には気にいらない。大人は、もっと厳しくて、いつも考え事をしてるみたいな、しぶい顔付きをしてるほうがいいと思う。
 おかあさんは、いそいそと二人の方へ近寄ってくると、手を広げて今か今かと待っている要の頭をぎゅっと抱きしめて、
「おーかえりっ、かわいいカナメ」
 と、歌うように言った。要はうれしそうにおかあさんに抱き着き、しばらくそのままじっとしていた。それは、環たちが小さい頃からの、『お帰り』の儀式だった。五年生の環にすると、いやがられるので、やらないけど、要や光が帰って来ると、おかあさんは必ずそうする。
「ただいま」
 環は靴をぬぎながら、つまらなそうに言った。おかあさんは笑顔を環に振り向けて、いつものちょっといたずらっぽい声で、もう一度「お帰り、タマキ」と言った。少し前ならこんな時、『タマキ』の前に『かわいい』とか『だいじな』がついた。いつから、おかあさんが環のことを『かわいいタマキ』と呼ばなくなったのかは、よくわからない。でも環はそれで当然だと思っている。いつまでも幼稚園児みたいに子ども扱いされてたんじゃ、たまらないもの。
「おおカナメ、冷たいほっぺだね~! タマキも今日は寒かったろ? 早くコタツであったまりなさい」
 おかあさんにそう言われると、環は、ほんの少し気持ちがゆるんできて、ついほほ笑んでしまいそうになった。でも、そのまま笑い返してしまうと、何だか相手のワナにはまるみたいでシャクだったので、あわててしかめっ面を作り、ぶっきらぼうに言った。
「先に部屋にカバンをおいてくる」
「そうね。じゃ、ミルクでも温めるからすぐ降りといでね。それともココアがいい?」
「カナメはココア!」
「じゃ、わたしもココアがいい」
 言いながら環は居間を通って階段の方へ向かった。要の言った通り、居間と階段の間のドアは、少し開いていた。
「光ちゃんは? 光るちゃんはどこにいるの?」
 要の声が後ろから聞こえた。環は階段の手すりに手をかけて、ふと振り向いた。そう言えば、光の姿がどこにも見えない。おかあさんが、台所でガスのスイッチをひねりながら言う声が聞こえた。
「ヒカル、ちょっと今きげんが悪いのよ。さっきまでそこで泣いてたんだけど、みんなが帰ってきたらコタツの中にもぐりこんじゃったわ」
「光ちゃん、ただいま、カナメおねえちゃんだよ!」
 要が玉のれんを鳴らして、居間の方へ入ると、コタツの中で光がごそりと動いた。
「どうしたの? 光ちゃん、ぽんぽん痛いの?」
 要はコタツの天板の縁をさわりながら用心深く移動し、手を伸ばしてテレビの上の時計をたたいた。すると時計が女の人の声で、「三時五十五分です」と言った。
「あ、もうすぐ光ちゃんの好きなアニメが始まるよ。テレビつけたげるね」
 要はいつも、一音一音をきちんと発音して、不必要なほど大きな声でしゃべる。おかあさんは、はきはきしててとてもいいって言うけど、気分が重たい時、要の声はとても耳ざわりだ。環は居間の方に背を向けると、とんとんと階段を上った。
 階段を上りきると、踊り場を境に部屋が左右に二つあって、環は左の部屋のドアノブに手をかけた。その部屋のドアには、「TAMAKI」と書いたプレートがピンでぶら下げてある。イラストレーターくずれのおかあさんが、環のために手作りしてくれた木製のプレートだ。紺色の(おかあさんはこの色をウルトラマリンと言ってたけど)ゴシック体の文字のまわりには、チューリップやパンジーの花にむらがるチョウチョの絵が描いてある。環はプレートの文字をしばし見つめたあと、ドアを開けて部屋の中に入った。
 この町に引っ越すことを、おとうさんが決めた時、環が出した条件の一つは、今度の家ではぜったい自分の部屋が欲しいということだった。前に住んでいたマンションでは、環も要も光も、みんないっしょの部屋で寝起きしていたから、本もゆっくり読めなくて、環はずっと自分だけの部屋が欲しいと思っていた。引っ越してくるまで、ちょっと不安だったけど、おとうさんは約束をちゃんと守ってくれた。環のために用意された部屋は、四畳半の和室で、勉強机と本棚、それに小さな洋服ダンスとベッド一つを置くと、あとは一畳分も空いたスペースがないけれど、ここは環だけの秘密の領域。ドアと窓のカーテンを閉めれば、たれも環の心の中に入ってくることはできない。
 環はドアを後ろ手にかちゃりと閉めた。すると環の周囲はこつ然と静かになった。半日の間無人だった部屋の空気は、静かによどんで、カンテンみたいにこごっているような感じがした。朝、寝坊して、そのままベッドの上に放りっぱなしにしておいたパジャマが、くしゃくしゃのまま、まだそこにあった。おかあさんは、環の方からそうしてと言わない限り、この部屋を勝手にそうじしたり、中のものを勝手にいじったりはしない。片付けなさいってやかましくは言われるけど。
 環はしばらくの間、ぼうっと静けさの中に浸ると、やがてほっと息をついた。カバンを机の上におき、ベッドにゆったりと腰を下ろしながら、手は自然に枕元に飾ってある色紙の方に伸びる。
 色紙には、七色のマーカーで描かれた花畑の真ん中に、寄り添って笑っている三人の女の子の写真が貼ってあり、その下に、おどけた丸文字で「たまびーへ、ずっとトモダチでいようね。ゆっち、まなみんより」と、書いてある。
 環はひとしきりそれをながめると、短いため息をついて、また元の所にもどした。ベッドに身を横たえ、両手を目の上の置くと、暗闇の向こうから記憶の断片が次々と浮かび上がってきた。
 盲学校の小学部に入っていた要が、おねえちゃんたちと同じ学校に通いたいと言い出したのは、確か、去年の夏頃だったろうか。それを聞いたおとうさんとおかあさんは、要の願いをかなえるために、それは一生懸命、要を受け入れてくれる学校を探した。少しでも良い学校を探そうと、いろんなところをたずねて回った。さまざまな福祉団体や、教育委員会、はては文部科学省にまでアクセスして、情報を集められるだけ集めていた。あちこちの学校にも見学に行った。そうして、ようやく、このアサギリ市にある市立アサギリ小学校を、探し当てたのだ。
 聞くところによると、アサギリ市の高倉市長さんは、子供の頃に一時期目が見えなかったことがあるとかで、障害児教育には強い関心をもっているんだそうだ。市会議員時代からアメリカの大学なんかを自費で視察してまわり、日本の教育の問題点がどうの、子どもたちの中に眠っている可能性を広げる教育だのと、ムツカシイことをまじめに勉強して、市長にまでなった、りっぱな人なんだそうだ。(そんな人があのワキと親戚だなんて、とても思えないけど。)
 だからアサギリ小学校には、障害のある子どもを受け入れるための施設が、たくさんあった。点字図書室や、たくさんのパソコン、車椅子用のエレベーターにトイレ。南側の新校舎にはどんな小さな段差にもゆるやかなスロープがつけてあったし、廊下や階段のあちこちに点字ブロックが敷かれていた。学級活動では手話や点字を積極的に教え、保健室の隣にはカウンセリングの部屋もあった。議論よりもまず形を作ろうという、市長さんのほとんど熱意だけで、実験的に作られたと言われる、この小学校。もちろん問題が何もないわけではなかったけれど、他のどの学校と比べても、ここ以上に環境の整った学校は見つけられなかった。何より、車椅子の子や耳に補聴器をつけた子が、何の違和感もなく楽しそうに皆にまじって遊んでいる姿に、お父さんたちは心を動かされたようだ。
 ただ、一番の問題は、遠すぎて、前に住んでいたオツラン市のマンションからでは、とても通えないということだった。
 家族でケンケンゴウゴウ話し合ったあげく、最後はお父さんが決断した。アサギリ市に家を借りて家族を引っ越させ、自分はオツラン市に残って単身赴任ということにしようと。こうして、今年の春、おとうさん一人をオツラン市に残して、環たち家族はこのアサギリ市にやってきたのだ。
 もちろん要は大喜びだ。こっちの小学校に来てからというもの、要の表情は、見違えるように明るくなった。教室では説教的に発表をするし、市橋マリコちゃんという親友もできたし、学級担任の渋谷先生も、養護学級の先生たちも、みんな要をかわいがってくれる。目は見えないし、勉強もわからないところが多いけれど、素直にはきはきものを言う要は、新しい環境で出会った新しい人たちの中に、快くすんなりと受け入れられた。だけど、環の方は、慣れ親しんだ前の学校や友だちとのさみしい別れを経験した分、新しい学校やクラスメイトたちに、なかなかなじむことができなかった。
(カナメ、カナメ……。みんな要のことばっかり……)
 環はくちびるをかみしめた。鼻の頭が熱くなってきたので、もう一度泣こうかなと思ったけど、ちょうどその時、だれかがとんとんと階段を上ってくる音がしたので、環はさっと起き上がって、背筋を伸ばした。

     (つづく)



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