月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
コメントはゲスト・ルームにのみお書きください。

ばらの”み” 1

2013-09-04 05:42:34 | 月夜の考古学

     「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」
                   (宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より)


1 冬のはじまり

 掃除が終わったあとの教室は、水ぶきでふいた床がまだ乾いてなくて、身ぶるいがするほど、寒かった。
 教室のみんなは、それぞれ自分の席について、ネズミのように身を縮ませながら、机の上の小テストにかじりついている。先生はというと、教壇の椅子に座って、みんなの様子を見ながら、白いセーターのそでをしきりに引っぱったり、手をごしごしこすったりしていた。
(ストーブくらい、つけたっていいのに)
 環は、ふるえる指先で漢字のマスをうめながら、苦々しく思った。クラス担任の吉田先生は、優しくていい先生だけど、どこかぼんやりしていて、要領が悪いのだ。このテストだって、今日の国語の時間にやっといてくれたら、放課後のこんな時間に、みんな残らなくたってすんだのに。
 最後まで残っていた漢字のマスを、ようやく書き入れると、環は小さく息を吐いた。先生はできた人から帰っていいって言ったから、後はこれを提出してさっさと教室を出ればいい。
 シャーペンと消しゴムをさっさと筆箱に入れ、環が席を立とうと椅子をずらしたその時だった。突然後ろの席の子が、環のセーターのひじをぎゅっとつかんだ。
(ばか、だめだよ!)
 ささやき声が、針のように耳に飛びこんだ。環はびくりとして、浮き上がったおしりを、ぺたんと椅子に落とした。ちょうどその時、教室の後ろの方で、だれかがガタリと席を立った。のみこんだ風船が、胸の中でいきなりふくらんだかのように、環の心臓がばくんと鳴った。
(シ、シマッタ……)
 すたすたと、教室中にわざとらしく響く足音が、後ろから近づいてくる。環は、握りしめた両手に額をおしつけて、ごくりとつばを飲み込んだ。胃のあたりが、もみこまれるようにきりきり痛んだ。
 足音は、すぐそばまで来た時、意味ありげにかかとを鳴らしたような気がした。環ののどの奥で、ビクッと、息がひっかかった。一瞬、目の前が真っ暗になったような気がして、頭の中がぐらりとゆれた。けれど、そいつは、拍子抜けするほど軽い足取りで横を通りすぎ、環が再び目をあけた時には、もう教壇の先生の前に涼しげな顔で立っていた。そして、下手なタレントのおしばいみたいなキンキン声が、教室中に響いた。
「先生、できましたぁ」
「ああ、高倉さん。いつもあなたが一番ね」
 先生は、眠そうな細い目を一層細めると、あくびの途中のような間のびした声で言った。環はほっと胸をなでおろしながらも、うつむいたままで用心深く目だけを動かし、教壇の方をうかがった。学級委員長の高倉和希(たかくらわき)は、少し顔をななめにそらして、横目気味に先生を見ながら、くちびるのはしっこをきゅっと吊り上げて笑っている。あれがナントカって今売れてるアイドルタレントを意識した作り笑いだってことは、みんなとっくに見抜いている。本人はとっても魅力的だって思ってるらしいけど、どう見たってカエルの引きつり笑いだね、ていうのがクラスの大方の意見だった。
「もう帰っていいですかぁ?」
「いいですよ、また明日ね」
 先生は、受け取ったテストをファイルの中にしまいながら、にこにこと受け答えた。
 環は、なんだかとてもいやな気分になって、またテストの方に目を落とした。どうして、先生は気がつかないんだろう? 和希が、あのお面みたいな作り笑いの下に、いつも黒々としたヘビみたいな心を隠していることに。太り気味で、白っぽい服ばかり着ている先生のことを、和希がカゲで「中華まん」と言ってバカにしてることを、先生は本当に知らないのだろうか。
 丸顔にのんきな顔をのせた先生と、さよならのあいさつをかわすと、和希はとがった鼻をつんとそびやかして、とかとかと教室を出て行った。すると、見えない縄に引っ張られたかのように、女生徒が二人ガタガタ立ち上がり、次々とテストを提出して、後を追った。
 教室のぴんと張った空気が、急にゆるんで、どこかでだれかがホッと息をついた。環も縮めていた肩の力をぬいた。
「よかった。気がつかなかったみたいだよ」
 後ろの席の尾崎史佳(おざきふみか)が、環の方に身を乗り出してささやいた。環は小さくうなずいたが、なんだか重たいクモの巣にでもからみつかれたみたいに、息苦しくて、しばらく動き出す気になれなかった。
 数人が、テストを提出して教室を出ていった。環もようやく席を立とうとして、はっと、テスト用紙にまだ名前を書いていないことに気づいた。環はシャーペンを持ち直し、指に力をこめて、「砂田環(すなだたまき)」と書いた。
 環は、名前を書き上げると、ちょっとの間、満足そうにその字面をながめた。前は、自分の名前を漢字で書こうとすると、『環』と言う字だけがむやみに大きくなって、枠をはみ出したりしていたものだ。けど、もう五年にもなった今では、字の大きさをきちんとそろえて、枠の中にきっちりとおさめて書くことができる。環には、それがずいぶんと大人びたことのように思えて、ちょっと自慢だった。
 席を立ちながら、机の横にかけていたカバンをとると、小さな鈴の音が、ちろちろと教室の空気の中をころがった。だれかが、思い出したかのように顔をあげて環を見たけれど、環は気づかなかった。
 テストを提出して、教室を出ると、廊下の窓から、灰色の曇り空が一面に見えた。
(早く行かなくちゃ。要(かなめ)が待ってる)
 環はあせる気持ちを押さえながら、人気のない階段を、二段飛ばしに下りた。もう約束の時間よりだいぶ遅れてしまっている。要はまだあそこにいるだろうか。機転をきかせて、マリコちゃんかだれかが、先生に言ってくれていればいいんだけど。でないと要はバカみたいに、いつもと同じあの場所で環を待ってるに違いない。
 手すりをぐっとつかんで、コンパスみたいにぶんっと踊り場を曲がると、忘れ物でもしたのか、下から階段を上がってくる男子と、ふと目があった。印象的な黒い瞳が、薄暗い校舎の中で、ふと光を放った。
 環は、見えない壁にぶつかりでもしたかのように、突然動けなくなった。少年も、環に気づいて足を止めた。どこか空気の奥で、きかりと、時計の歯車がきりかわったような気がした。心臓が高鳴り、ほおが熱くなる。息を止めて我慢しようとしても、目が涙でうるんでくるのを、とめることができない。
 目の前の少年は、ひとなつっこそうな笑顔で環を見上げ、言った。
「よお、今日も要ちゃんと帰るのか?」
「……う、うん」
「いつも大変だな」
「う、ううん……」
 環はかぶりをふりつつ、うわずった声で答えた。手すりをつかむ手がふるえてしまう。どうしよう、広田くんが、わたしに、声を、かけてくれてる……。
 環は、めまいがした。まるで足の下の階段が、環の心臓の鼓動に合わせて、ゴムみたいにゆれてるような感じがした。そのまま羽根がはえて、ふわふわ飛んでいきそうなくらいだった。でも、そんな喜びも、つかの間、突然チャンネルが切り替わったように、環ははっと顔をこわばらせ、広田くんから目をそむけた。
 少年は、そんな環の様子に、急に顔をゆがませて、無理矢理感情を凍らせた少女の横顔を、じろりと見た。環は、喉の奥が、ぐっとつまるのを感じた。
(ご、ごめんなさい……!)
 心の中で叫びながら、環は気持ちをちぎるように階段をけった。
「……気にするなよ、あんなの」
 広田くんが小さく言った声が、すれ違いざまに聞こえた。心臓が、どんと、胸の中で大きくなった。でも環は答えず、そのまま足をはやめた。そうしなければ、自分がこわれてしまいそうだった。
 階段をかけおり、渡り廊下をぬけて、生徒玄関まで来ると、ひゅううぅと、空の鳴る音が聞こえた。
 玄関の周辺に、人の気配はほとんどなかった。みんな帰ってしまって、残っているのは環たちのクラスだけのようだ。環は自分の靴箱の前まで走ってくると、周囲にだれもいないことをたしかめてから、上着の袖で涙をふいた。出口から外を見ると、黒っぽいアスファルトの舗道が、灰色のどんよりした空の気配に、ぬれたように重くなって横たわっている。環は長い息をはくと、靴箱をあけて自分の靴を取り出した。おぼれたくなってしまいそうなほどに、悲しい気持ちがあふれでてくると、機械のように体を動かして、自分をごまかしてしまう。そんな方法を覚えたのは、ここ数カ月の間のことだ。
(家に帰ろう。家に帰れば、安心して泣ける……)
 そのとき、風が、ぐんと鳴って、骨まで縮かんでしまいそうな冷たい風が環の全身をぬぐった。環はぶるると身震ぶるいしながら、はっと要のことを思い出し、あせって上ばきと下ばきを取り換えた。
「あれぇ、砂田さんだぁ!」
 環が、出口のそばで下ばきのスニーカーに片足を押しこんだ、その時だった。突然針のようなキンキン声に背中を刺され、環は息をひゅっと飲みこんだ。おそるおそる振り向くと、一番端の靴箱の影に、二人の少女がかたまって立っているのが見えた。にやにや笑いながらこっちを見ているやつらの、その真ん中にいるのは、だれよりも今一番会いたくないあの、高倉和希だ。
 環は、反射的に、さっと目をそらしてしまった。頭のどこかで、バカ、とだれかが叫んだ。……バカ! 目をそらしちゃだめ! やつらはどんな小さなことだって見逃さないんだから。何か言え。さよならって、てきとうにあいさつして、笑って、それで逃げるんだ!それだけでいいんだ! さあ早く!
 頭の中で、猛スピードで思考が回転した。でも環は動けない。何かを言おうとしても、のどがひりついて声が出ない。取り逃がした時間だけが、川面に落ちた木の葉のように、流れ去っていく。
「やだ、なんか硬くなってるわよ、あの子」
「そんなにこわがることないのにねえ」
 和希の、周りにいる二人の少女が、けたけた笑った。上田エミと、小西アキだ。あの二人は、金魚のふんみたいにいつも和希にまとわりついている。陰でタニシコンビなんて呼ばれて、クラスのみんなに、けむたがられてるやつらだ。環のおなかのなかを、鈍い怒りの感情がうずまいた。あんなバカでひきょうなやつらとなんか、ゼッタイかかわりたくない。こんなところ、はやく逃げ出したい、のに……。
 環はちらりと目だけを動かして、和希を見た。和希は、びっくりしているような大きな目を、きろりとむいて、楽しそうにこっちを見ている。その目の中に、相手のどんな言葉じりも見逃さず、すきがあれば咬みついてやろうとする、ヘビのように意地悪な気持ちが見えて、環は思わずまた目をそらしてしまった。胸が気持ち悪くなった。こいつらは、相手が弱いとみれば、笑って遊んでるふりをしながら、見えないところで肉がちぎれるほど腕をつねるなんてまねを、平気でできるやつらなのだ。なんとかしなくちゃ、なんとか……。でも、何て答えればいいのか、どうすればいいのか、考えようとすればするほど、頭の中はまっしろになる。環は、せめて、愛想笑いでもしなくてはと、思ったけれど、それは自分の靴に向かって、歪んだ変な顔を見せただけだった。
(モウ、ダメ……)
 涙がふくらんで、靴の上にほとりと落ちた。だが、体から力がぬけて、環がへなへなとその場に座り込んだ、ちょうどその時、後ろからかん高い少女の声が勢いこんでかけて来た。
「砂田さん、待った!?」
 ふり返ると、尾崎史佳がそこに笑って立っていた。環は背中がふっと軽くなったような気がして、思わず立ち上がった。史佳は環の横で靴をさっとはきかえると、今やっと気づいたかのように和希の方を見た。そしてにっこりと笑うと、さらりと言った。
「あっ、高倉さん。さよならっ。今日は寒いね!」
 和希は史佳の出現に、ちょっとシラけたように口をとがらすと、顔をつんとそむけた。史佳はそのスキを逃さず、環の腕をひっぱって、外に出た。
「早く行こっ。要ちゃん、待ってるよ」
「う、うん」
 環はとまどいながらも、あわてて靴に足をつっこんで、史佳に従った。後ろをちょっと振り向くと、和希がこっちに向かって、「ばーか」と口だけで言う顔が、かいまみえた。

      (つづく)


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする