月の岩戸

世界はキラキラおもちゃ箱・別館
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ばらの”み” 4

2013-09-12 06:30:10 | 月夜の考古学

「おねえちゃん、ラジカセ貸して!」
 ドアを開けるなり要が言った。環は机の上の小さなラジカセに手を伸ばしながら、ふきげんな声で言った。
「ノックしなさいっていつも言ってるじゃない」
「あ、ごめんなさい! ねえ貸して!」
 環は小さく舌を打つと、仕方なく立ち上がって、ラジカセを要が立っている所に持って行ってやった。
「また例のやつ?」
「うん! ねえねえ、ピリンって、どう思う?」
「何それ。プリンなら知ってるけど」
「テレビで言ってたの! 今おかあさんが意味調べてくれてる!」
 要はラジカセをとると、うれしそうに階段を下りて行った。開けっ放しのドアの向こうから、おいしそうなココアのにおいが流れてきたので、環も部屋を出て、階段を下りた。
 台所に行くと、辞書を開いているおかあさんの隣で、要はいそいそとラジカセにカセットテープをセットしていた。ぎこちないけれど、何でも自分でできるんだと自信ありげな手つきだ。実際、要は、着替えだとか片付けだとか、家の中ですることなら手を貸さなくても大体一人ですることができた。これはこうするのよと、おかあさんが手取り足取り教えることは、ほとんどいっぺんで覚えてしまう。知らない人は、要の目が見えないことなんて、気がつかないかもしれない。
「……これは、ちょっと説明がむずかしいわねえ。要するに薬の種類のことよ。ピリン系とか、非ピリン系とかいう……」
 おかあさんがあごをなでながら言うと、要はひょいと顔をあげた。
「ふうん、薬の名前なの?」
「カナメはどんな名前だと思ったの?」
 おかあさんはふと辞書から目を外して、要を見た。
「うん、あのねえ、お星さまみたいって思った」
「お星さま?」
「ほら、前におかあさんが言ってたでしょ。お星さまは、ずっと向こうの上の方で、きりきり光ってるって。要の頭の上に、風があって、そのまた上にも風があって、いっぱいいっぱいそれが重なってて、それよりもまだ、ずうっとずうっと向こうに、お星さまがあって、それがここから、いーっぱい、見えるんだって。……要、よくわからなかったから、考えてたんだ。お星さまって、どんなのかなあって」
「ふうん。それで?」
 まるで宝物でも見つけたみたいに、おかあさんの目がきらりと光った。
「でね、さっきテレビで、ピリンていうのが、聞こえて、あ、これだって思ったの。お星さまって、きっとこんな感じなんだって」
「そうかあ、なるほどね!」
 おかあさんは辞書をぱたんと閉じて、感心したように何度もうなずいた。
「カナメの中で、きっとお星さまが、ピリン! て光ったんだね!」
「うん、そう!」
 要はうれしそうに言った。環はコタツの上においてある自分のココアをとりながら、内心バカみたい、と思った。ピリンがどういうふうにお星さまとつながるのか、環にはまるでわからない。
「じゃあ、おかあさん、ラジカセに『ピリン』て言って! いつもみたいにね!」
「はいはい」
 おかあさんは要がラジカセのスイッチを押したのを見ると、「ピリン。ピー、リー、ンッ」と、一回目は短く、二回目は長く伸ばして言った。環はばかばかしいと思いながらも、その間、音をたてないようにじっと息をひそめた。
この「名前集め」は、ここ最近、要が夢中になっている趣味の一つだ。普通の女の子が、きれいな便せんやハンカチを集めるように、要はきれいな「名前」を集めている。
 テレビや本なんかで、気に入った名前を見つけるたびに、要はおかあさんにたのんで、カセットテープに吹きこんでもらっていた。自分で吹きこめばよさそうなものだけど、要はおかあさんの声がいいんだそうだ。環も、前に何回かたのまれて吹きこんだことがある。確か、「ユキワリソウ」というのと、「セレスティーヌ」という名前だった。(言っとくけどセレスティーヌってのは、近所のおばさんが飼ってるパグの名前だ。)
 目が見えない要にとっては、きれいな音の連なりというのは、特別な意味を持っているんだろうか。確かに環も、前に自分の名前のことでおかあさんに文句を言ったことはある。タマキなんて変な名前、どうしてつけたんだ、ユキだとかマナミとかの方がずっといいのにって。けれど、いまではもうそんなくだらないことで悩むようなことはなくなった。名前なんて、どうせ他人と自分を区別するのに必要なだけのものだ。あんな要の幼稚な趣味に、おかあさんは、よくいちいちつきあってられるなあと、環は思う。
 環は、うれしそうにテープをかたづけている妹を横目で見ながら、少しぬるくなったココアを音をたててすすった。
 光が、コタツの中で大声をあげて泣き出したのは、その時だ。
「うわーん、おかあさんたちのばかー!」
 みんなは一斉に今の方を振り向いた。おかあさんが、「いけない、忘れてた……!」と言って、おろおろと環たちの顔を見た。間の悪いことに、その時玄関の方で電話が鳴った。おかあさんと環は目を見合わせたが、環の方が玄関に近いところにいたので、光のことはお母さんたちにまかせ、環は電話を取りに行った。
「ヒカルちゃん、ごめんね……」
 おかあさんたちのあわてた声を背中に戸を閉めると、環は電話の受話器をとった。
「はい、砂田です」
「あ、タマキか?」
「何だ、おとうさんか」
 環は持ってきたココア入りのマグをすすりながら、ちょっとぶっきらぼうに言った。おとうさんは駅のホームかどこかにいるらしく、電話の向こうからはざわざわとアナウンスの声や人込みの気配がした。
「どうしたの? 今頃」
「いや、ちょっとな。亜智(あち)さんはいるか?」
 亜智さんていうのは、おかあさんの名前だ。おかあさんはおとうさんのことを、おとうさんて呼ぶけれど、なぜかおとうさんは、おかあさんのことを、亜智さんて呼ぶ。別に、だれかにそうしろと言われたわけじゃなくて、単なる昔からの癖なんだそうだ。
 環は、ドアの向こうのおかあさんたちの気配にちょっと耳をすませてから、言った。
「いるよ。今ちょっととりこんでいるんだけど、呼んで来ようか?」
「あ、いいよ。携帯だし、またかける……」
「言いにくいようなら言っとくよ。どうせいつものことだし」
 環が気をきかせたつもりで言うと、おとうさんは虚をつかれたように、一瞬だまりこんだ。
「ああ、……いや、じゃ、タマキに頼むか。実は、これから仕事で横浜の方に行かなきゃならないんだけどね。その、どうも、しばらく帰れそうにないんだ」
 おとおうさんの声が急に小さくなった。おとうさんが仕事で帰れないなんて言うと、おかあさんのきげんはいっぺんで悪くなるので、環は気をきかせて言った。
「わかったよ。で、いつまで帰れないの?」
「いや、それがどうも……もしかしたら、年内いっぱい、だめかもしれないんだ……」
「年内!! だってまだ十一月だよ!」
 環は思わず大声になった。
「いやその、くわしいことは言えないんだけど……」
「なに? 大変なの?」
「いいや、たいしたことはない。ただ、向こうの技術者が突然入院しちゃってね、トラブルを解決できるのが、おとうさんしかいないんだよ」
 おとうさんは、困ったような声で、言った。環は、ホームのすみで、額に汗を流しながら携帯にかじりつくようにしてしゃべっているおとうさんの姿を想像すると、ちょっとかわいそうになってきた。おかあさんがノンビリしてる分、おとうさんにとって、環は大事な頼みのつなのひとつなのだ。
「クリスマスも帰れないの? おかあさん、今年はどんなパーティーしようかとか、この前言ってたよ」
「そうだな……、クリスマスには、帰れるよう、なんとかするよ」
「それ、あてにしていいの? おかあさんが怒ったら、また何やらかすかわかんないよ。そうなったら迷惑かけられるのは、わたしなんだから」
「迷惑って……、そんな、大丈夫だよ。おかあさんだって、大人なんだ。……あっと、もう時間だ。じゃあなタマキ、たのむよ。後でちゃんと亜智さんにはあやまるから」
 それだけ言うと、逃げるように電話は切れた。
「もう、おとうさんのバカ!」
 環は腹立ちまぎれに、電話をがちゃんと置いた。
 居間の方に戻ると、おかあさんと要が、テレビの横に座りこんでしゃくりあげている光を、なだめている最中だった。
「そんなのゼッタイ英っくんの方が悪いよ。光ちゃんはまちがってないよ!」
 要はコタツの上に手をついて身を乗り出し、いきまいていた。
「どうしたの? 光」
 環がコタツに足をつっこみながら言うと、おかあさんが言った。
「ヒカル、幼稚園のお友だちとけんかしたらしいの。ほら、この前の日曜日にみんなでプチ・ノーレに行った時、お店の前にサンタさんがいたでしょ。ヒカルはね、そのサンタさんが本物のサンタさんだって言うんだけど、お友だちの英ちゃんは、ニセモノだって言って、それで……」
「なあんだ、そんなこと」
 環はあきれたように言った。
『プチ・ノーレ』は、おかあさんがよく行く旧駅前商店街にあるケーキ屋さんのことだ。(ちなみにこの名前もちゃんと要のコレクションに入っている。)あそこのいちごのケーキはとてもおいしくて、環もよく買いにいく。この前の日曜に家族みんなでケーキを買いに行ったとき、サンタクロースのかっこうをしたおじさんが店の前に立っていて、子どもたちに囲まれて笑顔をふりまいていたのは、環も覚えていた。それとサンタのおじさんが、片手に『プチ・ノーレ開店一周年記念』と書いた立札を持っていたのも。
「光ったら、あれはね……」
 環が何かを言いそうになったのを、おかあさんがさえぎるように言った。
「ヒカル、心配しなくていいのよ。ヒカルはまちがってなんかいないわ。英ちゃんはね、ちょっとかんちがいしてるだけなのよ。だからほら、そんなに泣かないで……」
 おかあさんは光の頭をなでながら、やさしく言った。光は涙と鼻水だらけのみっともない顔を、何度も上下させた。環は、ちぇっと、小さく舌打ちした。子どもの夢はこわさないほうがいいって、おかあさんは思ってるんだろう。でも、そんなのはばかばかしいと環は思う。今はだませても、きっといつかは、ばれてしまうんだから。
(後になってわかった方が、光はショックを受けると思うけどな)
 環はそう思ったけど口には出さなかった。おかあさんにタオルで顔をふいてもらうと、光はさっぱりしたのか、ようやくきげんをなおして笑った。
「よーし、いい子ね、ヒカル。ヒカルにもココア作ってあげようね!」
 そう言っておかあさんが立ち上がった時、環は思い出したように言った。
「あ、そうだおかあさん、さっきの電話、おとうさんからだったよ」
「あら、おとうさんから?」
 おかあさんの顔がぱっと輝いて、環の方を振り向いた。環は、さりげなさを装ったつもりで、マグに口を近づけながら無造作に言った。
「仕事で、年内は帰れそうにないんだって」
 すると、さっきまで笑っていたおかあさんの表情が、突然強ばった。それを見た環は、あと一口残っていたココアを飲みそこなって、コタツ布団の上にぽたぽた落としてしまった。
 瞬間、家の中が、しんとした。要でさえ、気配に気づいて、黙り込んでしまった。おかあさんは、環を見て、何か言いそうな顔をしたけど、せっかく笑った光の顔がまたくもりだしたので、思い直したように、あわててにっこり顔をつくった。
「そうそう、ココアつくらなくっちゃ!」
 そう言って、おかあさんは、くるりと背を向けた。みんながほっと安心したのもつかのま、台所からミルクなべをがちゃんとガス台にたたきつける音が聞こえて、環はびくりと肩をすくめた。こわごわと台所をのぞくと、ガス台に向かったおかあさんの背中が棒っくいのようにとんがっている。いつもは歌ったりしゃべったりしないと手も動かさないおかあさんが、石のように何も言わなくなる。あれは怒っているしるしだ。
 光が、少し責めるような目つきで環を見た。
(なによ、わたしのせいだっていうの?)
 環はぎろりとにらみかえした。要も、不安そうに、環の方に身をすりよせてきた。
 しんと静かになった家の中で、環たち三人は、しばしねずみのように首をちぢめて、嵐が過ぎ去るのを待つ覚悟をした。

   (つづく)



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