犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

鉄人死す

2011-12-27 23:25:30 | 近現代史

 金正日の陰にかすんでしまいましたが、数日前(12月13日)、韓国政財界の大物が亡くなっていました。

 朴泰俊、ポスコ名誉会長。

 朴正煕元大統領の盟友であり、日本からの請求権資金と新日鉄の全面的なバックアップを受けて高炉を建設、新日鉄をしのぐ世界最大の鉄鋼メーカーを作り上げた「鉄人」でした。

 朝鮮日報は翌14日の社説で、この企業人の死を悼みました。

【社説】「鉄人」朴泰俊会長を見送りながら

 ポスコの朴泰俊(パクテジュン)名誉会長が13日に死去した。同氏は1968年、干潟を埋め立てた浦項の海岸沿いに、鉄のパイプを撃ち込む作業を先頭に立って指揮し浦項製鉄(現ポスコ)を立ち上げ、それまで「鉄のない国」だった大韓民国を、世界最高レベルの鉄鋼生産国に育て上げた「鉄人」だった。現代グループ創業者の鄭周永会長やサムスングループ創業者のイ・ビョンチョル会長に続き、韓国経済の近代化を引っ張った巨大な星が、またもこの世を去った。

 今から40年以上前に迎日湾の干潟で、作業用ヘルメットをかぶり作業員たちの先頭に立ち、製鉄所の建設作業を指揮していた朴会長の姿は、今も国民の誰もがしっかりと記憶していることだろう。当時、米国、日本、ドイツなどの先進国はもちろん、韓国の専門家たちも「韓国の経済力では総合製鉄所の建設は無理」と話していた。世界銀行は「韓国の外債償還能力と産業構造から判断すると、一貫製鉄所の建設は時期尚早」との結論を下し、韓国ではなくブラジルでの製鉄所建設を支援した。

 浦項製鉄は製鉄所の建設や経営などに必要な資金、技術、経験など何一つない中から始まった。製鉄所のあったパキスタンを鉄鋼先進国と思い込み、見学団を派遣したこともある。韓国には当時、朴正煕大統領の鉄に対する執念と、その執念を支えた朴会長の推進力しかなかった。朴会長は部下たちに「失敗したら、われわれは全員右向け右で迎日湾の海に飛び込んで死のう」と語っていた。死を覚悟したこの執念と使命感が、合板やセーター、かつらなどの輸出で何とか食いつないでいた大韓民国に「産業のコメ」と言われる鉄の時代を切り開いたのだ。

 ポスコは「競争力を確保するには設備を拡張する以外にない」との判断から、1970年代には全羅南道光陽に第2製鉄所の建設を始めたが、大統領の側近たちは当時、国内にも競争体制が必要との理由から、別の企業に製鉄所を払い下げようと、1年近く朴会長と朴大統領を会えないようにしたという。しかし朴会長はマスコミとのインタビューを通じてそれらの事情を公表し、この新聞記事を目にした朴大統領は朴会長を呼び、直接話を聞くことによって、ついに光陽製鉄所の建設が可能になった。

 自動車や造船などを主軸とする重化学工業の時代は、われわれの手で鉄鋼を作り上げることができたからこそ可能になった。さらにこのような土台があったからこそ、今日のIT(情報技術)時代も切り開くことができたのだ。朴会長はしばらく政治の世界に入ったこともあったが、それでもわれわれの記憶の中ではやはり、永遠の「浦鉄会長」であり、いつまでも「鉄人」として記憶されることだろう。

 驚くべきことに、浦項製鉄が請求権資金によって賄われたこと、新日鉄からの技術移転があったことには一言も触れられていません。「韓国の発展はすべて自力で行われた」という新しい神話を作ろうというのでしょうか。

 当の朴泰俊は、そのことを隠そうとはしていませんでした。たとえば、2008年に出た中央日報のインタヴュー記事(→リンク)。

「新日鉄の支援なしに今日のポスコはない」朴泰俊名誉会長

  
それは神話でも奇跡でもなかった。人間の意志の勝利にすぎない。世界鉄鋼史を塗り替えている浦項総合製鉄。02年にポスコに改名した同社が、4月1日に創立40周年を迎える。朴泰俊名誉会長(81)なくしてポスコを語ることはできない。22日、ソウルファイナンスセンターの事務室で‘韓国製鉄の父’と呼ばれる朴泰俊名誉会長に単独インタビューした。これに先立ち、2月28日にも朴泰俊氏に会い、3月14日には浦項を訪問して製鉄所を見回った。

  
朴泰俊氏は「韓国経済がずっと繁栄していくには、技術優位を確保するしかない。しかし最近の韓国社会は技術者を大切にしていないので心配だ。中国やインドが急速に追い上げてくる中で、今の状態は良くない。技術開発にもっと力を注ぐ必要がある」と述べた。

  
――40年を迎えるが、まずどんなことが思い浮かぶか。
  
「正直いって、浦項(ポハン)と光陽(クァンヤン)の大きな製鉄所を、どうやってここまで作ったのかという気持ちだ。私も年を取ったようだ。当時はこれしきのことでと突っ走ってきたが…。本当に若い頃は無我夢中だった」

  
――自身も‘大したものだ’という気持ちだと思うが。
  
「年産1000万トン以上の製鉄所を2カ所も作ったのは自分以外にいない。私が見て学んだ新日本製鐵(新日鉄)にもそのような人はいない。1992年10月に光陽製鉄所の4基を終えた時、‘ああ、自分のすべきことは終わった’と感じた。そして後輩たちに経営を任せて退いた。あれからすでに15年が過ぎた」

  
――初期は見通しが暗かったというが。
  
新日鉄の稲山嘉寛会長(87年逝去)に絶対的に依存した。朴正煕大統領の製鉄立国執念と稲山会長の全幅的な支援がなければ、今日の浦項製鉄はなかったはずだ。苦労の末、73年6月9日に浦項1高炉で初めて溶解鉄があふれ出た。それは一つの‘事件’だった。浦項製鉄職員全員の血と汗の結晶であり、大韓民国が工業国家として第一歩を踏み出した瞬間だった」

  
――資金調達はどうしたのか。
  
「米国からの借款のために努力した。しかし駄目だった。韓国の総合製鉄所は成功の可能性がない、ということだった。それで考え出したのが、日本との国交正常化で受けた対日請求権資金だ。朴大統領も私のアイデアを積極的に支持してくれた。3億ドルのうち、当時使って残った金額は7370万ドルだった。さらに日本輸出入銀行から5000万ドルを借り、本格的な工事を始めることができた」

  
――‘韓国の総合製鉄所事業は経済的な妥当性がない’という報告書を出した世界銀行(IBRD)研究員には会ったのか。
  
「86年にロンドンへ出張したとき、その報告書を書いた英国人ジャッペ博士に会った。私は‘浦項製鉄のおかげで韓国に造船所も自動車工場も誕生し、うまくいっている’と話した。そして69年の報告書についてどう考えているかと尋ねた。ジャッペ博士はこう言った。今でも報告書を書くのなら結論は同じはずだと。そして当時、自分が把握していなかったことが一つあると。それは朴泰俊という変数だ。朴泰俊という人物を知らなかったため、結果的にあの報告書を書いたということだった」

  
――浦項製鉄がどんどん成長しながら、日本鉄鋼業界では「韓国にあまりにも多くの技術と情報を支援したのでは」という批判も出てきたというが。
  
「73年に103万トンの高炉を予想より短い期間で完工するのをみて、日本でそういう声が出始めた。当時、稲山会長はこう話していたと聞いた。‘たくさんのことを教えたことが問題なのではなく、学ぶ人の意志と熱情が強かったということだ。われわれのミスではなく向こうがよくやったのだ’と」

  
――製鉄所を建設しながら‘譲れない原則’があったというが。
  
「3つは確実に守った。まず、工期を短くし、建設単価はできるだけ低くする。2つ目は、欠陥工事は絶対に許さない。3つ目は、技術者の養成だった。厳しい環境の中でもこの3つだけは絶対に譲れない条件だった」

  
――後輩経営者に一言。
  
「93年に浦項製鉄を離れる際、‘一日も早く鉱山を買え’と話した。実際、鉄鋼事業は良い鉄鉱石と有煙炭をどれほど安く確保できるかがカギだ。しかし後輩の友達は私の話をきちんと聞いていなかった」


消される日本人功績」は現在進行形です。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 聖誕節 | トップ | 訂正記事 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

近現代史」カテゴリの最新記事