弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

田尾和俊「団長の事件簿」

2009-01-07 20:52:14 | 趣味・読書
こちらで紹介した、麺通団著「恐るべきさぬきうどん―麺地創造の巻 (新潮文庫)」「恐るべきさぬきうどん―麺地巡礼の巻 (新潮文庫)」が起爆剤となり、香川県下に点在する怪しくもおいしいさぬきうどんの店々は一大ブームとなっているようです。
その麺通団の団長が田尾和俊氏であり、舞台となったのが、田尾氏が編集長そして社長を務めた「タウン情報かがわ」であり、連載記事「ゲリラうどん通ごっこ」であることもわかりました。田尾さんはその後、この会社を辞めているようです。

一体、田尾さんとはどんな人なのでしょうか。そして、どのようないきさつを経て「ゲリラうどん通ごっこ」に至り、そして現在に至っているのでしょうか。大いに興味のあるところです。

そこで、次の本を読んでみました。
団長の事件簿「うどんの人」の巻 ―超麺通団2
田尾 和俊
西日本出版社

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田尾氏の来歴はウィキペディアによると、
1978年:関西学院大学経済学部卒業。
1978年:広告代理店「セーラー広告株式会社」に入社。
広告代理店業務の勤務を経て、同社のタウン誌発刊部門として発足したホットカプセルに出向。
1982年:同社発刊タウン情報誌『タウン情報かがわ』初代編集長に就任。
1995年:ホットカプセル代表取締役社長に就任。
2002年:ホットカプセルを退社、同社顧問となる。
2003年:四国学院大学に教授として招聘される。
2005年:ホットカプセルは、同じセーラー広告社の100%子会社で、徳島県徳島市に本社のある出版社「あわわ」に業務譲渡される。

「団長の事件簿」では、話があちこちに飛びますし、巻頭では1/3程度のページ数で団長の家族旅行の顛末が語られたりしますが、その中からピックアップすると以下のような状況が浮かび上がってきます。

関学を卒業して高松の広告代理店に就職した田尾氏は、4年ほど広告の営業マンとして働いた後、突然出向を命じられます。
その広告代理店がタウン情報誌を発行することとなり、編集長を命じられたのです。創刊号の締切までたった2ヶ月しかありません。田尾氏の他には、同じ会社の雑誌素人の女の子が3人のみです。
4人は不眠不休で頑張り、創刊号の発行に至ります。

「『タウン情報かがわ』の創刊は1982年。私は創刊からの編集長である。で、『ゲリラうどん通ごっこ』の連載開始は1989年。この創刊から『ゲリラうどん通ごっこ』連載開始までの7年間の間に、私のキャラクターの大半が醸成されたと自分では思っている。そして、その延長線上に『ゲリラうどん通ごっこ』と『恐るべきさぬきうどん』の本があるのである。
 では、この7年間に何があったのか?」

編集長となった田尾氏は、独自の企画を温めていました。後の大ヒット企画となる読者のお笑い投稿企画「笑いの文化人講座」です。
この企画の大ヒットに伴って、「タウン情報かがわ」の部数は急激に伸び、3年半で創刊号の8倍の売り上げとなりました。

「笑いの文化人講座」・・・本「恐るべきさぬきうどん」にもちらちらと登場していました。その内実は、読者からお笑いネタを投稿してもらい、その中から田尾編集長がピックアップしたネタについて、掲載するとともに編集長がツッコミを入れる、という企画のようです。香川の中高生の間で猛烈な評判を呼び、投稿数は全盛期でハガキ2000通ぐらい、投稿作品は毎号200~300ネタぐらい掲載されました。
例えば・・・
「先日知人が私に『これで何かうまいもんでも食えや』と言って、割り箸をくれた。」
「社会のマニファクチャの穴埋め問題で“劣悪な工場の中で、女子工員の中には(   )におかされるものが続出した”のカッコに(雇用主)と書いた。(正解は「結核」)」
英文怪訳「I have no money.(私はハブの真似ができる)」
などなど。

田尾編集長は、2000通の投稿のすべてに目を通します。編集長は常連投稿者のことが見えてきて、「文化人講座の開始から2~3年後には、私は『ペンネームを聞いたらそいつの本名と住所(市町名)と学校名(職業)と代表作品がわかる』という投稿者をたぶん500人くらいは覚えていた。」という状況にまでなります。
講座2年目の投稿チャンピオンのペンネーム天野JACKは、高校卒業後に『タウン情報かがわ』編集部に社員として採用されます。これが、後の麺通団員猿人Jであることが明かされます。

次いで田尾編集長は、猿人Jらとともに、地元香川でお笑い系のアマチュアたちの発掘をはじめ、さらにローカルラジオに進出します。タイトルは「そんなわけ、ねーだろ!」
笑いの文化人講座に来た作品をネタに、「そんなわけねーだろ!」の突っ込みを入れるというコーナーです。人気は上がり、20歳以下の聴取率24.8%をマークするに至ります。「オールナイトニッポン」を抜いたのです。

こうして、香川に笑いの旋風を巻き起こしているときに、いよいよ「ゲリラうどん通ごっこ」から『恐るべきさぬきうどん』の企画に至ったということです。しかしその詳細については・・・
「本巻ではマーケティング手法は明かさないことにした。時系列としては1990年頃から2002年くらいまでの10数年間がごっそり飛ぶ。よって、讃岐うどんマーケティングと、私が会社を辞めたあたりの経緯は、いろいろ情報が飛び交っていたらしいが「デマ」のままほったらかしにしておこう(笑)。」
ということで、田尾氏の会社辞任に至る経緯については
「2002年1月10日、私の知らないところであることが決まったことを突然伝えられ、数日考えた後、私はそれを受け入れるといろんないろんな、ほんとうにいろんなほとんど私のすべてのことが今後行き詰まることが予想されたため、20年間勤めた会社を退職することを決めた。経緯に関する私側の真実は、家族と数人の友人しか知らない。」
としか記されていません。

田尾氏がホットカプセルを辞めた後、連載「ゲリラうどん通ごっこ」は2002年9月で終了になります。「笑いの文化人講座も2002年で連載修了」とあります。やはり、田尾氏あっての「ゲリラうどん通ごっこ」「笑いの文化人講座」であったということですね。
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