高尾山などの「寅太の山野草」

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春の放浪記(その11)北条城Ⅰ

2011-06-03 04:45:21 | 歴史
この狭い北条地区に、勝海舟と長州毛利の祖先の地があるのは、奇跡に近いことだと思います。もう一度下の地図で、確認してみましょう。信越本線長鳥駅に近い岩の入の北が勝海舟の祖先の地で、一方長州毛利は北条駅の南の南条に住んでいました。
「一文字に三ツ星」が毛利家の家紋ですが、この紋の由来は「一品親王(いっぽんしんのう」からでています。すなわち毛利家の祖先の大江氏が、天皇に次ぐ一品の位から出たことを意味しています。 豊臣氏や徳川氏が、先祖を由緒ある家系に書き直したのとは大きく異なります。
宝治元年に起こった三浦泰村の乱(宝治合戦)で毛利氏は敗れ、厚木の毛利庄にいた一族はことごとく滅ぼされました。運よく佐橋庄にいた四男だけが生き残りました。詳しくは、「毛利家のふるさと佐橋庄」を参照していただきたい。


(歴史の町北条へようこそ)

 
(北条・長鳥周辺の地図)         (専称寺の豆の木御門)

 
(一品親王縁の紋)              (毛利氏系図)

 
(北条の古城址)


コシノカンアオイ(越の寒葵)の群生)

佐橋庄における毛利一族は、やがて長男系が越後に残り越後毛利に、弟の家系が安芸国吉田庄に移り住むことになります。時代とともに越後毛利も複雑に家系がわかていきますが、上杉謙信に仕えた北条(きたじょう)高広・景広がよく知られています。
専称寺の豆の木御門は、北条高広が建立した北条城の大手門で、八石山の不思議な豆の木伝説を、後の人に伝えるべく御門にしたと伝わります。
専称寺のご住職が、寺に伝わる謙信公のお宝を説明して下さいました。ありがとうございました。


(北条家菩提寺の専称寺)

 
(謙信公の文台硯箱)       (謙信公の陣中阿弥衣)

 
(謙信公の法螺貝)          (謙信公の陣中香炉)

 
(謙信公の高杯菓子器)         (牡丹文彫キュウ漆前机)

 
(一遍上人絵詞伝10巻)

(柏崎市)     (つづく

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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ハイ!コロリ・・・ (信徳)
2011-06-03 09:27:20
どこのお寺でも住職と仲良しになれる特技を持っていますね。それも歴史に詳しくて興味を持って勉強しているからです。寅太さんの眼は寅の眼のように鋭く住職もコロっと行ってしまうのでしょうね。
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越後の人はみんな親切です (寅太)
2011-06-04 06:27:38
信徳さん、おはようございます。
いやいや、特技だなんてとてもとても。
でもその寺がいかに歴史の上で素晴らしく、遠くから(車ナンバーで)やってきたか、わかると親切にしてくれます。
それから小型三脚を付けたカメラを、首から提げているとよいような気がします。
専称寺などはご住職が、1点1点撮影用に運んで下さいました。
圧巻は絵巻物を本堂の端から端に拡げたことでしょうね。
紙は巻き戻すのが大変なことを知っていますので、結構だといったのですが、後で専用の機械で巻きますといわれ、もう恐縮してしまいました。
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