高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

2012年春の放浪記(その8)羽黒神社

2012-06-08 06:34:11 | 歴史
源平合戦に源義経を助け、大活躍する佐藤継信・忠信兄弟はよく知られています。福島・飯坂の音羽御前は、息子の安否を心配し、八十里峠を越え小貫にやってきました。
源氏の大勝利や、その後の義経が源頼朝に追われた戦いで息子の戦死を知りました。ある夜夢枕に羽黒大権現が現れ、「栃尾に我を祀れ」とお告げを受けました。そこでこの地に庵結んだのが、羽黒神社や瑞雲寺の前身になります。
明治初めの神仏分離により、羽黒神社と瑞雲寺は別れ、やがて羽黒神社は外山家の私社から、村の鎮守になりました。


(外山家から離れ村の鎮守となった羽黒神社)

 
(羽黒神社とそのいわれ)

羽黒神社の境内に、外山脩造の5mに近い巨大な顕彰碑があります。撰文は三島中州、悠久山に建つ河井継之助の碑と同じ人物が書きました。中州は号で通称は貞次郎、本名は毅で、明治になり二松学舎を設立し犬飼首相を育てました。
継之助は備中松山に、陽明学者山田方谷を訪ねますが、すぐに方谷の高弟三島中州と親しくなりました継之助が只見で亡くなった後は、脩造を後継者と認めた中州は、刎頚の友となりました。碑文は継之助と脩造の、二人を失った寂しさが伝わる文章になっています。

 
(外山脩造顕彰碑と三島中州が死を悼む碑文)

 
(境内にあるケヤキとカシの大木)

 
(神社にある地蔵様を見ながら階段を下りる)

歴史の旅はここまでです。寅太の名のいわれの栃尾に別れを告げ、一路柏崎に入りました。次回からは初めての花も登場します。
(長岡市小貫)

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6 コメント

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羽黒山 (信徳)
2012-06-08 09:03:14
羽黒山と言うと山形にちかい所を思い浮かべます。昭和の大横綱「羽黒山」は確か新潟県出身だったと思います。この近くの出身何でしょうか?
返信する
大字羽黒があるかも (寅太)
2012-06-08 15:48:07
昭和の大横綱「羽黒山」は、双葉山がいなければもっと名前が知れたんでしょうね。
西蒲原郡ですから弥彦が近いところの村の出です。
村の大字羽黒から羽黒山としたのでしょうが、当時は羽黒山信仰が強い時代ですから、それも頭にあったのでしょう。
出羽三山の月山、湯殿山、羽黒山とも山形の庄内付近ですね。
返信する
三島毅の研究家です (高橋義雄(岡山大学院生))
2012-11-05 22:14:55
倉敷市出身の三島毅を研究しています。この度三島毅が外山脩造氏に昌平黌で、漢詩文を教えていたという文章を執筆しました。
 倉敷市が発刊する機関誌に掲載し、倉敷市の三島毅と長岡市の外山脩造が親友であったことを紹介したいと存じます。
つきましては、石碑の写真と碑文の写真を使用させて頂きたいと存じます。お湯祢資頂ければ幸甚に存じます。
e-mail;nra22630@nifty.com
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写真はお使い下さい (寅太)
2012-11-06 02:08:33
高橋さま、こんばんは。
コメントありがとうございます。
三島毅なら二松学舎で、偉大な政治家の犬飼毅首相を育てましたね。
三島と外山が同時代に昌平黌で学んだのは想像つきますが、漢詩文の先生だったのは初めて知りました。
石碑の写真と碑文の写真はお使い下さい。
良い文章ができることを、お祈り致します。

倉敷市は高校時代にインターハイのバレーボールで行ったことがあります。
自分の原点の土地の一つなので、いつも思い出します。
返信する
『三島中洲と外山脩造の厚き友情』 (高橋義雄)
2012-12-04 12:06:23
上記拙稿の注文先のメールアドレスについて

先程のコメントでメールアドレスが不適切でしたので、下記の通り正しいアドレスを記載します。宜敷お願いします。
           記
ura22630@nifty.com

です。
返信する
厚き友情 (寅太)
2012-12-04 14:26:58
高橋さま、こんにちは。
どこが違うのかじっくり眺めましたら、わかりました。
寒くなりますので、風邪などひきませぬように。
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