源平合戦に源義経を助け、大活躍する佐藤継信・忠信兄弟はよく知られています。福島・飯坂の音羽御前は、息子の安否を心配し、八十里峠を越え小貫にやってきました。
源氏の大勝利や、その後の義経が源頼朝に追われた戦いで息子の戦死を知りました。ある夜夢枕に羽黒大権現が現れ、「栃尾に我を祀れ」とお告げを受けました。そこでこの地に庵結んだのが、羽黒神社や瑞雲寺の前身になります。
明治初めの神仏分離により、羽黒神社と瑞雲寺は別れ、やがて羽黒神社は外山家の私社から、村の鎮守になりました。 羽黒神社の境内に、外山脩造の5mに近い巨大な顕彰碑があります。撰文は三島中州、悠久山に建つ河井継之助の碑と同じ人物が書きました。中州は号で通称は貞次郎、本名は毅で、明治になり二松学舎を設立し犬飼首相を育てました。
継之助は備中松山に、陽明学者山田方谷を訪ねますが、すぐに方谷の高弟三島中州と親しくなりました継之助が只見で亡くなった後は、脩造を後継者と認めた中州は、刎頚の友となりました。碑文は継之助と脩造の、二人を失った寂しさが伝わる文章になっています。 歴史の旅はここまでです。寅太の名のいわれの栃尾に別れを告げ、一路柏崎に入りました。次回からは初めての花も登場します。
(長岡市小貫)
源氏の大勝利や、その後の義経が源頼朝に追われた戦いで息子の戦死を知りました。ある夜夢枕に羽黒大権現が現れ、「栃尾に我を祀れ」とお告げを受けました。そこでこの地に庵結んだのが、羽黒神社や瑞雲寺の前身になります。
明治初めの神仏分離により、羽黒神社と瑞雲寺は別れ、やがて羽黒神社は外山家の私社から、村の鎮守になりました。 羽黒神社の境内に、外山脩造の5mに近い巨大な顕彰碑があります。撰文は三島中州、悠久山に建つ河井継之助の碑と同じ人物が書きました。中州は号で通称は貞次郎、本名は毅で、明治になり二松学舎を設立し犬飼首相を育てました。
継之助は備中松山に、陽明学者山田方谷を訪ねますが、すぐに方谷の高弟三島中州と親しくなりました継之助が只見で亡くなった後は、脩造を後継者と認めた中州は、刎頚の友となりました。碑文は継之助と脩造の、二人を失った寂しさが伝わる文章になっています。 歴史の旅はここまでです。寅太の名のいわれの栃尾に別れを告げ、一路柏崎に入りました。次回からは初めての花も登場します。
(長岡市小貫)
西蒲原郡ですから弥彦が近いところの村の出です。
村の大字羽黒から羽黒山としたのでしょうが、当時は羽黒山信仰が強い時代ですから、それも頭にあったのでしょう。
出羽三山の月山、湯殿山、羽黒山とも山形の庄内付近ですね。
倉敷市が発刊する機関誌に掲載し、倉敷市の三島毅と長岡市の外山脩造が親友であったことを紹介したいと存じます。
つきましては、石碑の写真と碑文の写真を使用させて頂きたいと存じます。お湯祢資頂ければ幸甚に存じます。
e-mail;nra22630@nifty.com
コメントありがとうございます。
三島毅なら二松学舎で、偉大な政治家の犬飼毅首相を育てましたね。
三島と外山が同時代に昌平黌で学んだのは想像つきますが、漢詩文の先生だったのは初めて知りました。
石碑の写真と碑文の写真はお使い下さい。
良い文章ができることを、お祈り致します。
倉敷市は高校時代にインターハイのバレーボールで行ったことがあります。
自分の原点の土地の一つなので、いつも思い出します。
先程のコメントでメールアドレスが不適切でしたので、下記の通り正しいアドレスを記載します。宜敷お願いします。
記
ura22630@nifty.com
です。
どこが違うのかじっくり眺めましたら、わかりました。
寒くなりますので、風邪などひきませぬように。