【今川義元公とマユハケオモト】
牧野氏は今川氏と松平氏に挟まれ、幾度も戦いを続けたが、やがて駿河の今川の傘下に入った。永禄3年(1560)、上洛をもくろんだ今川義元は、桶狭間で織田信長の奇襲に敗れた。家臣は首をとられた胴体を大聖寺に運び、手水鉢(ちょうずばち)の下に隠した。義元の五輪塔の下は今でも手水鉢が残っている。
大聖寺は牛久保城に近く、ここは一色氏の一色城の城内である。義元の墓に並んで一色氏の五輪塔と説明看板がある。
大聖寺の近くの民家に、先日覚えたばかりのマユハケオモト(眉刷毛万年青)があり、義元は公家の出なので眉はそり落としているが、白粉を払うのに刷毛も使ったことだろうと思った。
この付近には一色城があったが、家臣に討たれて、家臣も牧野氏に滅ぼされ、牧野氏は一時一色城に入るも、間もなく牛久保城を造ったことで廃城になった。大聖寺では墓と位牌は守っているが、滅びる一族は哀れなものである。
ご住職が見せてくれた義元の位牌は、桶狭間で戦死した永禄3年5月19日の日付がある。仏前の幟には、足利将軍家の紋である「丸に二つ引両」で、今川氏も一色氏もこの紋を使っている。そして豊臣秀吉などが使う高貴な「五七桐」紋がある。
もとは菊花紋と五七桐紋は、天皇と皇室の紋であるが、今では五七桐紋は日本国政府の紋章としても使われている。総理大臣が演説する演台の前に、取り付けられているのを良く見る。
(豊川市牛久保町)