高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

牧野一族展(その4)

2009-11-04 08:08:34 | 歴史

【今川義元公とマユハケオモト】
牧野氏は今川氏と松平氏に挟まれ、幾度も戦いを続けたが、やがて駿河の今川の傘下に入った。永禄3年(1560)、上洛をもくろんだ今川義元は、桶狭間で織田信長の奇襲に敗れた。家臣は首をとられた胴体を大聖寺に運び、手水鉢(ちょうずばち)の下に隠した。義元の五輪塔の下は今でも手水鉢が残っている。
大聖寺は牛久保城に近く、ここは一色氏の一色城の城内である。義元の墓に並んで一色氏の五輪塔と説明看板がある。

大聖寺の近くの民家に、先日覚えたばかりのマユハケオモト(眉刷毛万年青)があり、義元は公家の出なので眉はそり落としているが、白粉を払うのに刷毛も使ったことだろうと思った。


(義元公に似合いそうなマユハケオモト)

 
(大聖寺入口と義元公の五輪塔)

 
(墓石の下の手水鉢と墓所の説明文)

この付近には一色城があったが、家臣に討たれて、家臣も牧野氏に滅ぼされ、牧野氏は一時一色城に入るも、間もなく牛久保城を造ったことで廃城になった。大聖寺では墓と位牌は守っているが、滅びる一族は哀れなものである。
ご住職が見せてくれた義元の位牌は、桶狭間で戦死した永禄3年5月19日の日付がある。仏前の幟には、足利将軍家の紋である「丸に二つ引両」で、今川氏も一色氏もこの紋を使っている。そして豊臣秀吉などが使う高貴な「五七桐」紋がある。
もとは菊花紋と五七桐紋は、天皇と皇室の紋であるが、今では五七桐紋は日本国政府の紋章としても使われている。総理大臣が演説する演台の前に、取り付けられているのを良く見る。

 
(一色氏の五輪塔と説明文)

 
(大聖寺の「丸に二つ引両」紋と「五七桐」紋)

(豊川市牛久保町)
コメント (6)
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