知らなかった。
歌舞伎にあった気がする。
「
小紫太夫は和歌の名手として有名な花魁で、平安時代の和歌の名手であった紫式部にちなみ、小紫と呼ばれていたのだとか。
花魁として人気の絶頂にあった小紫であるが、実は、平井権現という藩士と恋仲になっていた。
しかし、小紫は江戸一番の遊女であり、身請けどころか、一夜を共にするのでさえ、貧乏な藩士である権現には難しいことだった。
小紫に会いたさに、権現は強盗や辻斬りを繰り返して金策していたが、ついには捕まって処刑されてしまった。
それを知って小紫は深く傷ついたが、そんな彼女のもとへ身請け話がやってくる。
権現以外の男性と添い遂げることなど考えられない小紫は、身請けの当日、権現の墓の前で自害をしたという。
権現以外の男性と添い遂げることなど考えられない小紫は、身請けの当日、権現の墓の前で自害をしたという。
遊女と客、という許されざる身分の者同士が恋をしたことで、悲劇の結末が待ち受けていたのである。」
この話が、続く、話、読んだ。
小紫の供養に行った、おさな、遊女が、男に襲われて、身投げした話、違ったか。
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この話、かむろ坂。
「
かむろ坂の由来
・白井権八と相思相愛の小紫の話は、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」にもなっている
・春は桜並木が美しい(桜の名所)
・西五反田四丁目と小山台一丁目の境を第四日野小学校に下る坂で、その坂名については説がある。かって朝日新聞にのった記事では、禿坂は河童(かっぱ)坂の意味であるが、この坂は、延宝7年白井権八が品川で処刑されると、そのあとを慕って自害した遊女小紫の侍女(かむろ)も家出し、
桐ケ谷の二つ池に身を投じて死んだ。それを土地の人があわれみ、近くの岡に葬った。それによりこの一帯の丘陵をかむろ山と呼びつたえた。また横関英一氏著「江戸の坂、東京の坂」によると禿坂は都内に7つもあることをあげ、その名は江戸庶民の趣味、流行によるものとしている。
(品川の橋と坂より)
○しながわ昔話(かむろ坂)
今から三百年ほど昔、人々に乱暴ばかり働いている平井権八という武士がいました。権八はついに役人に捕まり、延宝七年(1679)に鈴ヶ森の刑場で処刑され、東昌寺(目黒区下目黒三丁目付近にあった)に葬られました。
そんな権八には、おいらんの小紫という恋人がいました。小紫は働いている店の客から「権八が処刑された!」と聞き、いてもたってもいられなくなって店を抜け出し、寺へと向かいました。権八の墓の前に着くと、小紫は「あなたとは夫婦になる約束でしたね……」と言って、命を絶ってしまったのです。
いくら待っても帰ってこない小紫を心配した店の主人は、小紫が一番かわいがっていた下働きの「かむろ」と呼ばれていた少女を東昌寺まで迎えに行かせました。遠い道をやっとの思いで寺までたどり着いたかむろは、
寺の人に聞きました。
「小紫さんはどこですか?」「小紫はすでにこの世の人ではなくなってしまったのだよ…」。途方に暮れたかむろは、なすすべもなく、もと来た道を泣きながら帰っていきました。
帰る途中、突然やぶの中から怖そうな男たちがかむろに襲いかかってきました。近くには助けを呼べる人や家もありません。逃げ切れずついに力尽きたかむろは目の前の池に飛び込み、命を落としてしまいました。
この悲しい話を聞いた村人はかむろのことをかわいそうに思い、なきがらを丘に葬ることにしました。いつしか、この場所は「かむろ塚」、のちに「かむろ山」と呼ばれるようになりました。
ほかにも、かわいがってくれた小紫の死を悲しみ、かむろが自ら池に飛び込んだという説もあります。
時代の発展とともにかむろ山は削られ池もなくなり、現在そのおもかげは坂道の名にしか残されていません。
周辺には権八・小紫ゆかりの二つの塚、連理塚(安楽寺/西五反田五丁目)と比翼塚(瀧泉寺門前/目黒区下目黒三町目)があります。また、平井権八は歌舞伎や浄瑠璃の主人公「白井権八」としても登場しています。
広報しながわ 平成20年(2008)7月1日 第1676号 掲載」
この話。
何か、つらいな。
一人の辻斬強盗で、遊女も、そのかむろの死ぬ。
軽率な事件、起こすと、関係する人も、災難がある。
今のあるな、変な男に入れあげて、だます、女は、似ている。
男も、女も、そして、かむろ、も、小紫が、好きだっただろう。
人間せいのある、遊女だった。かもしれない。
人は、最後は、人柄。