大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2017年09月05日 | 写詩・写歌・写俳

<2076> 余聞、余話 「識閾の心の九月」

         識閾の心の九月とは言はる辛くも弱るものたちがゐる

 この間、「意識ということについて」触れたが、今少し話を変えて、意識に関わりのある問題について触れてみたいと思う。まずは、私ごとから話を進めよう。思えば、私には妙なところがある。癖と言ってもよいかも知れない。本を読み出すと、その本に興味ある言葉が出て来て、その言葉が意識され、思いが巡るということがある。このため本の内容とは別のあらぬ方角に思考が展開し、その言葉を仲立ちに夢の中へと入り込み、さまようということになったりする。

  これは読書の邪道かも知れないが、私のこうした読書の傾向は自分自身の意識によるものであると分析出来る。言わば、これは何に意識を集中させるかということで、どうも私には読書一途に集中出来ず、本に出会う言葉への意識によって、その言葉から展開する思考が夢へと羽ばたき、或いは走り出し、夢幻の世界に遊ぶということになる。これは識閾における意識の問題なので、私の思考にとってこの識閾の認識は大切なものであると思える。この識閾をどのように越えて思考の広がりを得ることが出来るか。私には、これが人生における一つの課題につながるようにも思えるのである。

  話は変わるが、夏休みが終わって新学期を迎えると、一種の識閾に悩む児童や生徒が多くなると言われる。所謂、学校生活がうまく運ばず、心が塞いでしまう状態に陥る。学校というのは一種の規範によって運営される集団生活の場で、その場に適応出来ず、悩み抜く児童や生徒がいる。このような悩みに疲れている児童や生徒にとって夏休み明けのこの時期は、この心の識閾に直面することになる。このため心身の行き場所を失って自ら命を断つという事例も生じることになる。九月がまさにその時期であるが、では、この救い難い心理状態の当事者にとってどうすればこの問題から抜け出し、悩みの解消が出来るのだろうか。ここのところを考えなくてはならない。

                                         

  思うに、それはその悩みの基になっていることに悩めるものたちの意識が向かわないようにすること、これが肝心だと思える。つまり、この問題は悩めるものの心理のあり様を考えなくてはならないということである。だが、これは非常に難しい。しかし、本人がそこに気づけば案外解消に向かえる。これは私が読書において言葉への意識に逸れ、夢の中に遊ぶという手法を悩めるものたちが取り入れることで解消出来るのではないかと思える。学業、即ち、勉強が出来ることだけが人間の価値を決定するものではない。このことをして言えば、詰め込み教育に適応出来ない児童や生徒がお粗末な人間の烙印を捺されるいわれはないということになる。悩める児童や生徒がこのことに認識が及べば、悩みの意識は薄れ、この識閾の問題は解消すると言える。

  これも私ごとであるが、私は山野に野生の花を求め、これをライフワークのようにして歩いている。この歩きについては、一目散でなく、周囲に目をやりながら歩くわけであるが、むしろゆっくりと歩き、単に歩くだけでなく、歩きながら考えを巡らせることが多い。これも私の癖のようなものと言えるかも知れないが、歩くのはいつも一人なので、端からの目には孤独に映るかも知れない。だが、そんなことは私の知ったことではなく、思考を巡らし、夢に思いを展開する。という次第で、そこに孤独感はなく、結構充実の歩きを得ている自負がある。これはまこと私の気ままな読書に似るところで、観察という一点において言えば、この歩きにおける思考は無駄なことかも知れないが、無駄もまた意義あることに思えたりする。そして、歩きながら考えを巡らせている間に目的とする山頂に辿り着くといった具合にもなる。

  ここからが本題であるが、学校生活という一種管理された学業中心の集団的人間関係に沿うことが出来ず、悩んで落ち込み行き場所を失った児童や生徒にはこの九月という識閾において、私には意識の変革が必要だと思われる。言ってみれば、自分の中に夢中になれることを見つけ、誰に何と言われようと、自分の世界を自分の中に開き、悩める学校の環境、即ち、人間関係などになるべく意識が向かわないようにすること。もちろん、学校における最低限のルールを守ることは必要であるが、誰の強制も受けることなく学校生活に臨めばよい。自分にとって嫌な環境、或いは嫌な友だちなんか束になって来ても、夢中になれることに夢中になっていられれば、悩みは解消する。夢中になるということはその嫌なことから意識を逸らせることが出来るからである。これくらいに思って、識閾に悩む児童や生徒には九月のこの時期に望んでもらいたいものである。

 それは、まず、第一に自分を夢中にさせてくれる何かを見つけ出すことである。例えば、読書を徹底的にやってみるとか、そのようなことを早く探し当てることである。趣味でも何でも人に迷惑のかからないことであればよい。私は心が沈むようなとき、よく地図を開いて地図の旅を試みるが、地図の旅はいろいろと想像を巡らし、結構楽しいものである。漢和辞典や百科事典に遊んだという人の話も聞いたことがある、とにかく、自分に不利益な悩みなどに振り回されず、一人でも楽しめることを見つけ、そこに意識を集中させてゆくこと。これが識閾の心の九月においては何よりの対処法だと思える。学業だけが人間の評価を決定づけるものではないことを改めてつけ加えておきたい。 写真はカットで、地図。地図の旅は想像の旅で、風景に及び、歴史に及び、自在にして実に楽しいものである。