大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年01月17日 | 写詩・写歌・写俳

<1230> 枯 草 色

       ジョギングの人過ぎ行けり 照り翳る枯草色のただ中の道

 草木というのは大方が緑色に被われている。葉緑素を含んだ葉緑体によって光合成を行ない成長する仕組みによるもので、この葉緑素の加減によって微妙に違った緑色に見える。ところが、落葉樹や草の類は冬場になると、葉が枯れて茶色くなり、光合成を休止し、本体は休眠状態になる。植物というのは概ね土に根を下ろして生育している。緑色の葉が茶色になるのは光合成の仕事を終え、土に帰る準備だと言われる。土に帰って、その土によってまた草木は生き長らえることが出来る。これが自然における植物の世界である。

              

 枯葉や枯草というのは植物にとって終章を思わせる姿であるが、枯葉や枯草は、なお、働きとなって自然の中に存在する仕組みになっている。それらの行く先は何処かと言えば、大地である。大地の土に帰り、なおもそこで働きとなる。枯葉や枯草が自らの終章を彩るものながら、暗くなく私たちの目にその姿が映るのは、枯葉や枯草に少なからぬそうした働きの未来が見えるからではないか。私にとって、枯葉や枯草の色は冬場の風景の中でも好きな部類に入るが、これは子供のころに枯原で元気よく走り回って遊んでいた記憶が自分の中にあるからだろうが、そこに暗くない色合いが感知されていたからではなかろうか。

 それは、やはり、枯葉や枯草が土に帰って次ぎの代を育てる役目を担う自然の仕組みがそこにあり、見えないようで、実は見えて感じられていたからではなかろうか。そして、それは、また、草木の生命体たる本体が土の中の根や土の上に撒き散らされた種子にその命を保ち、託して次の季節を待つという仕組みが私には体感的にわかっていたからに違いない。子供のころから感じていたことであるが、枯葉や枯草の感触は暖かい。

 今日は阪神大震災から二十年。私たちはこの大震災から何を学んで今にあるのだろうか。平成二十三年(二〇一一年)には東日本大震災が起きた。日本列島では、また、いつどこで大きな地震が起きるかわからない。思うに、私たちの生というのは以上に述べたような草木と生の基本においては何ら変わらない。如何に人工に彩られていても、自然が生の基本にはある。このことを忘れ、自然を侮り、蔑にするようなことがあってはいけない。自然とは私たちが生きてゆく上におけるバランスされた環境を提供している姿そのものである。人工は自然を変容したかに見えるが、その変容も含めなお自然はある。震災はそれを物語っている。これは、つまり、教訓である。写真はイメージで、枯草。