斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

断想片々(3) 【チコちゃんに電話セールスを叱ってもらおうか】

2019年10月25日 | 言葉
 ケータイを持つようになってから、自宅の固定電話の使用頻度がめっきり減った。当方がケータイを常時持ち歩くことを知る知人や家族は、先ずケータイに掛けて来る。固定電話が鳴るのは半数以上がセールスの電話だ。
「もしもし、●●さんのお宅ですか?」
「どちら様でしょう?」
「ゴルフ会員権を扱っている✖✖ゴルフと申します」
「あのね、順序が逆でしょう。見ず知らずの家へ電話するなら、先ず自分から名乗るのがマナーでしょう。街で知らない人に声を掛けるとき、先に『あなたは、どなたですか?』と尋ねるのですか? 仕事で名刺交換するとき、自分が名刺を出す前に、相手に名刺を要求するのですか?」
 先方は「小うるさい男だ」と思っているだろう。たいていは「街で知らない人に--」以下は言わず、こちらで電話を切ってしまう。「街で--」の先は、親切心がわいたときだけ言うことにしている。
「大変失礼しました。本日は●●様が持っておられるゴルフ会員権を、お譲り願えないかと思いまして、お電話を差し上げました。いかがでしょうか?」
 あるいは電話セールスの強引さの背景に、客の苦情など百も承知の営業マニュアルがあるのかもしれない。
「待ちなさい。こっちは来客中で手が離せないんだ。こんなときは『お忙しいところ恐縮ですが、少々お時間をいただけますか?』と、相手の都合を確かめてから用件に入るべきじゃあないか」
「‥‥‥」
  
 口うるさい客だと困惑する顔が、電話越しに見えるようだ。正直、断りなく他人の時間に割り込もうとする電話セールスは嫌いである。細事にこだわる客が、注意すべきなのでは? 昔は口うるさい「意地悪ばあさん」や「意地悪じいさん」が居たが、高齢化社会と言われる現代なのに、もの分かりのよいお年寄りばかりが増えてしまった。ここはテレビの人気者「チコちゃん」にでも、叱ってもらおうか。

65 【 唱歌「故郷の空」】

2019年10月22日 | 言葉
 堂々たる体躯で精力的に創作
 九州旅行の汽車の中。隣り合わせた男は大和田建樹(たけき)が東京の人と知って、しきりに話し掛けてきた。両国の回向院(えこういん)がどうの、四十八手うんぬん、つり出しはなんとか‥‥。
「いや、相撲のことは、よくわかりません」
 それまで受け流していた建樹は、たまらず答えた。途端に男の目が丸くなった。
「え? じゃあ旦那は、相撲の親方ではなかったんですかい?」
 建樹の堂々とした体躯(たいく)の理由を、男は誤解したらしい。建樹は無言で男を見、苦笑した。相撲取りと間違えられることが初めてでなかったからだ。若き日の建樹のエピソード。学生時代、三晩の徹夜はしばしば。42歳で日記に「五晩くらいの徹夜なら今も平気」と書いた。頑強な体と旺盛な創作活動とは、大和田建樹を知るキーワードである。

 一、夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫鳴く 思えば遠し 故郷の空 
ああ わが父母 いかにおわす
(作詞・大和田建樹、曲・スコットランド民謡)

 生涯に作詞した歌が千3百余点。「鉄道唱歌」や「四条畷(しじょうなわて)」、「青葉の笛」も彼の手になる。明治33年に発表した「鉄道唱歌」が今でいうミリオンセラーに。現在では唱歌作者の面ばかりが有名になった。しかし建樹の真の評価は以下のようなものだ。
<明治20年代後半からの国文学漸進時に注釈書、文学史、辞典などを刊行し‥‥着想が新しく、先鞭(せんべん)をつけたものもあり、大きな浸透力を持っていた>(昭和女子大刊『近代文学研究叢書第11巻』大和田建樹の項目)
 つまり当時一級の国文学者だった。とりわけ謡曲研究が白眉で、全8巻1616ページの大著『謡曲通解』など多くの著作を残した。英・独・仏・露語に通じた欧米詩翻訳家にして修辞学者、日欧文学史研究者、紀行作家‥‥。残した業績は大きな体にも似て多方面にわたっている。

1日に312首を作る
 歌人としての業績も知られる。多作乱作の詠み手として。こんなエピソードもある‥‥。45歳の秋、東京・四谷の友人宅で催された歌会。建樹は朝8時から夕7時過ぎまでに合計312首を作り、居合わせた人々を驚嘆させた。あふれるように言葉が浮かぶ様は、延々と続く「鉄道唱歌」の歌詞を思えば納得がいく。
 大和田建樹は安政4年(1857年)、愛媛県宇和島市生まれ。27歳で東京大学古典講習科講師、29歳で高等師範学校教授に任ぜられた。しかし5年ほどで辞め、以後いくつかの私立学校で教壇に立つ。在野の国文学者と言われることもある。

 二、澄みゆく水に 秋萩(あきはぎ)垂(た)れ 玉なす露は 芒(すすき)に満つ
思えば似たり 故郷の野辺 ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ
 
 
 「故郷の空」は明治21年に『明治唱歌・第一集』で発表された。建樹と、建樹と同い年の音楽家、奥好義(おく・よしいさ)との共編。五集まで刊行された。「故郷の空」の元歌はスコットランド民謡である。当時の日本では洋楽の作曲水準がまだ低く、ほかにも「庭の千草」や「埴生(はにゅう)の宿」「旅愁」「故郷の廃家」など外国産メロディーの唱歌が多かった。これには「西洋の楽譜に日本語の詞をつけたのでは、よい作はできるはずがない」という批判もあったが、建樹は「よきはよく、あしきはあし。いずれとも限るべからず」と、頓着(とんちゃく)しなかった(大和田建樹著『新文林』から)。

 奥好義のバックアップ
 ちなみに原題名を忠実に和訳すると「ライ麦畑を通って」。日本では「誰かが誰かと」という題名の、大木惇夫、伊藤武雄両氏の共作詞がよく知られている。
<誰かが誰かと 麦畑 こっそりキスした いいじゃないの‥‥>
 共作詞は原詞に近く、おおらかで明るい内容だ。とはいえ明治もまだ半ば。<こっそりキスした いいじゃないの>では、いいじゃなかった、のだろう。建樹は原詞とはガラリと異なる詞に書き改めた。音楽に明るい人なら,詞だけでなく曲の方も微妙に異なる印象に変わったことに気づくかもしれない。『明治唱歌・第一集』共編者の奥好義が、原曲に顕著な「スコッチスナップ」と呼ばれるリズムを、しっくりと落ち着いたリズムへ修正した。
 平凡社刊の『音楽大辞典』によると、スコットランド民俗舞踊のリズムがスコッチスナップ。スコッチの名は付いているが、18世紀イタリアが起源といい、東欧にもこのリズムの音楽が多い。取材でお伺いした宇和島市内の元小学校音楽教師、井上助次郎さんによると、スコッチスナップの原曲は子供が軽くステップを踏んでいる感じ。修正後は、大人が大股で歩いている印象になり、まるで対照的だという。井上さんが指導する宇和島市内の少年少女合唱団では2つのリズムで「故郷の空」を歌い分け、練習の教材にしているという。

 もう一つ、奥好義による編曲上の改編は「ヨナ抜き長音階」に作り替えたことだ。どういうことか。ド、レ、ミ‥‥からファとシを抜き、ド、レ、ミ、ソ、ラ、ドで旋律を再構成した。当時はド、レ、ミ、ファをヒ(一)、フ(二)、ミ(三)、ヨ(四)、イ(五)、ム(六)、ナ(七)と表記していた。ファとシに当たるのがヨとナで、この2音階を抜いてド、レ、ミ、ソ、ラ、ドだけで書き直す。こうすると邦楽に似た旋律になり、西洋音楽に不慣れな耳にも馴染みやすい。当時の外国産メロディーの多くはヨナ抜き長音階で、改編は一般的な手法だったようだ。
 からりと明るく、リズミカルな元歌の「誰かが誰かと」(原題は「ライ麦畑を通って」)。短歌など日本古来の美意識を感じさせる「故郷の空」。建樹に劣らず曲作りに大きな貢献をした奥好義だが、「編曲・奥好義」として名は残っていない。今となれば少し残念な気もする。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「故郷の空」の項を、書き改めたものです)

64 【唱歌「旅愁」】

2019年10月12日 | 言葉
 一、更(ふ)けゆく秋の夜 旅の空の わびしき おもひに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路

 林芙美子の小説『放浪記』は唱歌「旅愁(りょしゅう)」で始まる。自らを「古里を持たない宿命的な放浪者」と呼んだ彼女が、母親と各地を転々とした幼い日々を、歌詞にダブらせて回想する場面だ。学校でこの歌を習いながら「ふるさと」はとても良い所に違いない、と想像する。だがすぐに悲しい事実に気づく。--同級生の誰もが小学校のある、この土地こそが古里だった。なのに自分だけが違う--。もの心ついた時から旅ばかりの身に古里と呼べる地はなかった。「なつかし父母」が待っているわけでもない。つのる、わびしさ。「幼い私の人生にも暴風雨が吹きつけてきた」。そうとまで幼心に感じたという。
 林芙美子など多くの人に愛唱された「旅愁」は、明治40年発行の音楽教科書『中等教育唱歌集』に掲載されて世に出た。作詞は犬童球渓(いんどう・きゅうけい)、作曲はアメリカ人、j・P・オードウェイ(1824-80)。球渓は当時29歳、旧制県立新潟高等女学校の音楽教師だった。原曲は「夢にも見る家庭と母」という題で、詞もオードウェイの作。ここからメロディーだけを拝借した。つまり「旅愁」の詞は翻訳ではなく球渓の創作である。ちなみに『中等教育唱歌集』には計33曲が収められ、メロディーはすべて外国産というユニークさ。<幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風>で始まる、もう一つの球渓の代表作「故郷の廃家」も、初出はこの教科書だった。当時の唱歌には「埴生の宿」や「庭の千草」「夕空晴れて」など外国産メロディーの名歌が多い。

 球渓は熊本県人吉(ひとよし)市の出身。本名は信蔵(のぶぞう)。「球渓」は古里の川、球磨(くま)川渓谷に因(よ)る。熊本県内で小学校教師の後、県の援助で東京音楽学校(現在の東京芸術大学)へ入学。やはり小学校教師だった長兄が東京行きを熱心に勧め、資金援助を約束してくれた。球渓24歳の初夏5月。上京を前に自宅裏山にクスノキを独り記念植樹し、前途に決意を固めた。ところが入学4か月後、その長兄が急逝してしまう。一転、写譜のアルバイトに追われる毎日になるが、頑張り抜き、音楽のほかに国語の教員免許も取っている。
「音楽でも言葉を大切にしなさい」
 球渓の口癖だったという。国語の授業では源氏物語や古今集を講じた。詩情あふれる歌詞の理由である。

 新潟高女での教師生活は明治39年1月から41年4月までの2年3か月と短い。この間「旅愁」や「故郷の廃家」といった代表曲を作り、結婚もしている。この後、晴れて熊本県立第一高女へ異動となった。むしろ充実した新潟時代であり、鬱屈した心情を吐露する「旅愁」と対極の印象がなくもない。実は球渓は新潟高女の前に、つまり音楽学校を卒業してすぐ兵庫県内の旧制中学へ赴任している。「旅愁」に込められた強い望郷の念には、この中学での出来事に因るところが大きかった。

 二、窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遥(はる)けき彼方(かなた)に こころ遊ぶ
恋しやふるさと なつかし父母 思ひに浮かぶは 杜(もり)のこずゑ


 オルガンを弾き始めると、途端に教室内が騒然とし始めた。床を踏み鳴らす生徒がいた。ヤジが飛ぶ。無言の生徒たちも手で机を叩いた。
「西洋音楽は軟弱だ!」
 何人もの生徒が叫び、青年教師は立ち往生した。胸をふくらませて臨んだ犬童球渓の初授業。生徒たちを突き動かしていた時代の空気も見逃せない。赴任前年に日露戦争が勃発、赴任した明治38年は国を挙げて戦勝気分に沸いた。音楽教師というだけで排斥運動に遭ってしまった球渓。1年足らずで最初の赴任校を追われ新潟の女学校へ。熊本から見れば新潟は兵庫のずっと先であり、それも赴任は雪降りしきる1月。「旅愁」の歌詞そのままに、挫折感に打ちのめされての2度目の赴任だった。望郷の思いが唱歌として結晶したのが「旅愁」なのである。歌詞二番最後の「思ひに浮かぶは杜のこずゑ」は、希望に燃えて植樹した裏山のクスノキを指すのだろうか。

 県立熊本高女への異動は明治41年。大正7年、球渓41歳の春には古里の郡立人吉実科高等女学校へ移った。熊本に帰ってからも創作意欲は旺盛で、作詞・作曲した歌は200曲以上に及び、盛んな創作は生活の充実ぶりをうかがわせる。人となりについては人吉の郷土史家、種元勝弘さんが1986年に出した本『犬童球渓伝』に詳しい。
「人さまとは違った生真面目さがあったようです。冗談など言う人でなく、静かなことが好きで‥‥楽しみといえば、歌うこと、ものを思うこと、書くことであったようです」(みの夫人)
「謙虚、簡素、質実‥‥芸術家にありがちなクセは一つも見られなかった」(人吉高女時代の同僚)
「授業は厳しいが、ふだんはとても優しかった」(教え子たち)
 典型的な明治人のイメージが浮かぶ。

 昭和10年、57歳で人吉高女を退職し、念願だったという晴耕雨読の生活へ。ところが、ほどなくして座骨神経痛や胃下垂を患う。不眠症もひどくなり、日に日に球渓の心と体をむしばんだ。昭和18年10月19日、自宅裏山のクスノキにロープを掛け、自ら命を絶つ。享年64。クスノキは、東京音楽学校への入学を控え、若き球渓が希望に燃えて記念に植樹した、あの木だったという。
<難治ノ病床ニ臥(ふ)シテ‥‥徒(いたずら)ニ陛下ノ貴重ナル粟(ぞく)ヲ食(は)ム罪、万死ニ当ル>
 遺書。やわらかな感性で明治の青春を生きた詩人にしては、あまりに考えの硬直した死だったかもしれない。あるいは明治人らしい死と言い直すべきなのか。葬儀や近隣へのあいさつ、遺産処理などを事細かに指示したうえでの、念入りに準備された死でもあった。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「旅愁」の項を、書き改めたものです)

断想片々(2) 【「巨大津波を予見できた可能性はなかった」】

2019年10月03日 | 言葉
 東電福島第一原発事故で業務上過失致死傷に問われた元東電会長ら3人の経営陣に、東京地裁は「3人には、巨大津波の来襲を合理的に予測できた可能性がなく、事故の発生を予見できなかった」として、無罪判決を言い渡した(2019年9月19日)。これに対し検察官役の指定弁護士は9月30日、「判決の確定は著しく正義に反する」と控訴した。
 国の地震調査研究推進本部は2002年に「三陸沖から房総沖では、マグニチュード8・2前後の津波地震が、30年以内に20%の確率で起きる」とする「長期評価」を公表していた。この数字をもとに東電は08年に「最大15・7メートルの津波が福島第一原発に襲来する」との試算結果を出した。裁判の焦点は、試算結果を把握していた3人の責任を問えるか--。判決では「『長期評価』の信頼性には限界があった」と3人を庇った。
 納得しがたい判決である。3人は、より厳密な調査を指示できる立場の経営トップだった。であれば「予見できた可能性の有無」が問題ではなく、さらなる厳密な調査を怠ったこと、そのために「予見するに到らなかった」責任が問われるべきだ。問題の立て方が違うように思う。

 世界有数の地震列島である日本に、原子力発電所はふさわしくないのだろう。火力発電所ほどには二酸化炭素を排出しないといっても、いざ事故となれば海と沃野をかくも汚染してしまう。経済効率が良いはずなのに、事故後の処理費用のツケは問答無用で国民の電気料金に加算される。日本もドイツを見倣い脱原発へ国策を転換すべき時が来ている。