斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

87 【唱歌「故郷」】

2022年01月18日 | 言葉
  ダークダックスの「ゲタさん」こと喜早哲さん(故人)には、まざまざと思い出す舞台がある。1951年(昭和26年)のダーク結成以来、公演また公演の毎日だったが、あれほど感動したステージは、そう多くはない。1977年1月から2月にかけての、南米コンサート旅行でのこと。ブラジル、アルゼンチン、チリ、ペルー。会場には日系市民が詰めかけ、何十年かぶりに聴く日本語の歌に涙した。聴衆の心が一つになり、ピークになるのは、どの会場でも唱歌『故郷(ふるさと)』だった。
「特にブラジルの首都ブラジリアでの公演が印象的でした」。遠くを見るように喜早さんが言う。移民として南米各国を転々としたが、皆がみな成功したわけではなく、仕方なくブラジリアにとどまる日系人も多かった。貧困な人も多く、例外なく日本への望郷の念が強かった。『故郷』に「アンコール!」の声。再び歌う。たちまち会場は涙また涙。ダークたちも、もらい泣きした。
 
 一、 兎(うさぎ)追いし彼(か)の山 小鮒(こぶな)釣りし彼の川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷(ふるさと)
  二、如何(いか)にいます父母 恙(つつが)なしや友がき 雨に風につけても 思い出(い)ずる故郷(作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一)
 
 唱歌の代表格といえる『故郷』。人気の理由は何なのか。「歌詞もいい。故郷とはこういうものだとイメージしやすい歌詞です」と喜早さん。一番冒頭の<兎追いし彼の山 小鮒釣りし 彼の川>。山あいの地を故郷とする人なら、誰もが思い出の中に、セピア色に褪(あ)せた山や川を描くだろう。都会生まれなら、この部分から故郷のイメージをかき立てるかもしれない。
 一方で昔から「歌詞はむしろ平凡」との評もあった。高野辰之・岡野貞一のコンビには『朧月夜』や『紅葉』のような秀作がある。二歌に比較すれば、の話だろうか。例えば三番末尾の<山はあおき故郷 水は清き故郷>のくだり。全国どの地の山里も山は青く水は清いはず。イメージのしやすさは普遍性の強さゆえで、それも魅力の一つには違いないが、あまり普遍性が強いと、かえって具体性に欠けてリアリティーは薄れる。  
「歌っていると、聴いている人の心の動きを敏感に感じ取ることがある。『故郷』で客席の反応が強いのは、三番の<こころざしをはたして いつの日にか帰らん>の個所でしょうね」とも。南米の地でも日本の都会でも、人の思いは同じかもしれない。

 高野辰之にとっても<こころざしをはたして>の思いは、人一倍だった。彼の<こころざし>とは何だったのか。高野の人生を意外な人物が横切り、彼の<こころざし>に大きな関わりを持った。意外な人物とは小説家で詩人の島崎藤村である。

 三、こころざしを はたして いつの日にか帰らん 山はあおき故郷 水は清き故郷

 島崎藤村の小説『破戒』は寺の描写で始まる。「信州下水内(しもみのち)郡飯山町二十何か寺の一つ、真宗に付属する古刹(こさつ)」で、寺の名を蓮華(れんげ)寺といった。青年教師の主人公、瀬川丑松(うしまつ)は、この寺に下宿する--。
 モデルになった寺が長野県飯山市にある。よく知られた名刹(めいさつ)で、『破戒』の描写から推し量れば、土地の人ならすぐ分かるという。藤村は1902年(明治35年)秋と1904年冬の二度、この寺を訪れた。『破戒』は1904年に書き始められ、1906年に発表された。
 問題は小説中の蓮華寺が良く書かれてない点だ。寺そのものでなく住職が、である。住職は女性問題ばかり起こす”生臭坊主”として描かれた。ところが実際は正反対の恐妻家だったらしい。辰之は1909年(明治42年)発行の雑誌『趣味』4月号に「『破戒』後日譚(ごじつたん)」と題する一文を寄せて、「近来の傑作だと言うが、この地方に住む者が読めば噴飯(ふんぱん)に堪(た)えない」と、激しい調子で批判した。
 ちなみに『破戒』と並ぶ自然主義文学の代表作である田山花袋の『田舎教師』にも、似た指摘があった。主人公の教員、清三が遊郭へ足しげく通う場面。清三にも実在のモデルがいて、のちに関係者から「遊郭など行かなかった」という抗議の声があがった。現実をありのままに描くことが自然主義文学の要点だとしても、小説とはフィクションである。

 この歌のままに生きた
 作家の猪瀬直樹さんが『唱歌誕生露――ふるさとを創った男』(文春文庫)で、エピソードを紹介している。当時22歳、東京で国語・国文学の少壮学徒だった辰之が寺の娘と結婚する際、娘の母親から条件を出された。「将来、人力車に乗って山門から入って来る男になるなら」。出世が娘を手放す条件だったという。

 長野県師範学校の教諭時代に浄瑠璃研究に没頭。1909年に文部省小学校唱歌教科書編纂委員、翌年東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授となる。邦楽の日本歌謡史が専門。講義は学生に大人気だった。
 赤ら顔で丸々とした体形、濃いひげ、大きなハンカチで顔の汗をふきふき講義する。「平安時代の美人は丸顔か面長か、どっちと思う?」。笑顔で問う。雑談ふう、かつ対話スタイル。学生が答える。「ほう、では、どちらが君の好みかね?」。ユーモアに富み、何より自身が楽しそうだった。兼任していた東大文学部では学生が教室に入りきれないため、講義はいつも医学部の講堂を借りて行われた。
 論文「日本歌謡史」で文学博士に。49歳だった。のちに帝国学士院賞も受け、天皇陛下や皇后陛下へ、ご進講した。博士になった年の冬、故郷へ錦を飾る。山高帽子の下の丸い顔に口ひげを蓄え、義母との約束通り山門から境内へ入った。
<こころざしをはたして いつの日にか帰らん>
 立身出世がたたえられた大らかな時代を、高野辰之はこの歌のままに生きた。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した『故郷』の項を、書き改めたものです)

断想片々(35) 【「前のめり」と「後ずさり」】

2022年01月02日 | 言葉
 「後手後手」と「先手先手」
 オミクロン株の国内初感染が確認されてから、12月30日で1か月が過ぎた。国民は第6波の兆しに身構えつつ新年を迎えたが、ここへ来て岸田首相の積極策に対して「前のめり」との政治批判が出ているというから驚く。
 確かに「後手後手」の菅内閣が退陣した10月初めから、国内の新規感染者数は目立って減った。そこで12月初めに厚労省幹部が帰国者への水際対策緩和を提案すると、岸田首相は「批判は、岸田がすべて責任を負う」と一蹴した。当然だろう。ここでテを緩めては、後手に回り続けた菅内閣と少しも変わらない。事実、世界に目を転ずれば、欧米を先頭に各国とも警戒態勢を一層強めている。

 「前のめり」と「後ずさり」
 就任時に岸田首相は「新型コロナ禍対策には、最悪の事態を想定して取り組む」と言明した。菅首相の「仮定の話には答えられない」とは対照的な「最悪の事態を想定」。世論調査での岸田首相への支持率の高さは、この姿勢への評価でもあった。
 「後手後手」と「先手先手」。「先手先手」と言ったのでは批判にならないから、「前のめり」と言い替える。コトバのトリックなのだ。「前のめり」の反対語は「後ずさり」や「腰を引く」だが、腰を引き過ぎて「尻もち」を搗(つ)いたのでは話にならない。
 今年も新型コロナと格闘する1年になりそうだ。「後ずさり」派の政治家たちも、ここでフンドシを締め直してもらいたい。