斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

75 【東北、縄文時代の豊穣④】

2020年07月30日 | 言葉
 続縄文文化とは
 ところで、耳慣れない続縄文文化とは、どういうものか。北海道のアイヌ社会では、銅鉄の金属器が使用されるようになった後も、狩猟や漁労の採集生活が続いた。金属器の使用は縄文文化が終わったことを意味するが、といってコメを生産しているわけではないから、弥生時代に分類することも適切ではない。桜井清彦氏によると「適当な名称がないので、縄文文化に続く文化というところで続縄文文化となり、その時代に用いられた土器が続縄文土器と称せられた」(『アイヌ秘史』、角川新書)のである。

 「続縄文」の命名は山内清男博士による。北海道を中心に紀元前3世紀から紀元後7世紀頃までの土器が盛んに出土した。本州弥生時代にあたる前半期のものとして西南部の恵山(えさん)式土器、東北部の宇津内式土器や下田ノ沢土器が、また古墳時代にあたる後半期のものとして後北式(こうほくしき=江別式)土器があり、特に後北式土器の出土は広く仙台平野や新潟にまで及んでいる。続縄文文化の本州南下とは、この事実を指す。興味深いことに東北北部では、10世紀の半ばから11世紀の末にかけ、北海道と共通した土器文化圏が復活していた。北海道特有の擦文(さつもん)土器が、東北北部各地から出土することで分かる。東北北部では9世紀に入って稲作が著しく盛んになり、縄文的生活に逆戻りしていた時代から脱した。擦文土器を使っていたのは、どういう人々だったのか。かつては北海道から渡来したアイヌ系の人々と考える学説もあったが、近年の研究では、農耕生活に入っていた現地の民という見方の方が有力だ。

 エゾ社会への回帰の謎
 斉藤利男氏は「東北北部の人々が、何ゆえ『北の文化圏』の中に回帰し、エゾ社会の一部として歴史を歩むことになったのだろうか。残念ながら、この問題に明確な解答を出すことはむずかしい」と指摘している(『古代蝦夷の世界と交流』1から「蝦夷社会の交流と『エゾ』世界への変容」、名著出版刊)。現代的な解釈かも知れないが、当時の蝦夷(えみし)たちが南方から押し寄せる稲作文化の波の中で、おのれのアイデンティティに目覚めた結果として「北の文化圏」へ回帰したとすれば、どうだろうか。

 驚異の亀ケ岡式土器
 縄文時代には人口でも東北に賑わいがあったことは既述した。古今東西、文化は人の集中する場所に生まれ育つ。伊東信雄氏は「縄文土器は東北地方で最高度の発達を遂げた。縄文時代晩期には東北地方が日本でもっとも文化が発達していた」(『古代東北発掘』)と述べている。この時期の精巧な縄文土器の多くは、東北の地から出土した。西日本では精製土器と評されるものでも、同時代の東北製と比べると見劣りがするという。なかでも伊東氏が激賞するのは、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)の亀ケ岡遺跡から出土した亀ケ岡式土器。イヌイットがサングラスとして使うような、遮光器土偶の発掘で知られる縄文時代晩期の遺跡と言った方が通りやすいかもしれない。

 伊東氏によれば、亀ケ岡式土器の形は壺、甕(かめ)、鉢、皿、高坏(たかつき)、土瓶とさまざまで、壺の口も細口や広口、鉢にも台付きのものや台のないものなど変化に富む。文様の多彩さだけでなく表面を磨き上げて光沢を出したものや、朱漆や黒漆で文様を描いたものなどもあり、現代人の感覚をもってしても芸術的価値は高い。縄文土器といえば素朴で男性的なイメージが強いが、亀ケ岡式の特徴は精巧で華麗、むしろ女性的な優美さにある。亀ケ岡遺跡から集中的に出土するが、この地だけでなく東北各地で発掘された。青森県八戸市の是川遺跡や、岩手県大船渡市の大洞貝塚、宮城県石巻市の沼津貝塚、同県一迫町(現・栗原市)の山王遺跡、福島県いわき市の寺脇貝塚など、出土した遺跡を数え上げればきりがない。山王遺跡からは土器ばかりか多量の漆器も出土し、世間を驚かせた。

 奈良の都人(みやこびと)も認めた美しさ
 亀ケ岡式土器は、美的価値から東北以外へも広く流通していたようで、中部や近畿圏、なかには昭和10年代に発掘調査された、橿原神宮近くの縄文遺跡での発見例もある。今から約2千年前、つまり日本武尊の東征に際し「其(か)の東の夷(ひな)は識性(たましい)暴(あら)び強(こわ)し。凌犯(しのぎおかす)を宗(むね)とす」と、先住民・蝦夷(えみし)を獣さながらに描写した、そのはるか以前に、東北最奥の蝦夷たちは芸術の香り高い土器とともに日常を送っていたのである。そればかりか奈良の都人の祖先たちも美しさを認め、蝦夷文化の香りに浴していた。これを驚くべき事実と言わずして、なんと言うべきか。

 滝沢馬琴も
 ちなみに亀ケ岡土器の発見は江戸時代初めのこと。津軽藩主がこの地に城を築こうとして、丘になった地形から大量の甕が出土した。「甕」が「亀」となり、「亀ケ岡」の名になったという。出土した土器は江戸の昔から「亀ケ岡もの」と呼ばれて評価が高く、全国の骨董好きに珍重された。なかには、その後売られて海外に持ち出される土器もあるほどだ。『南総里見八犬伝』の作者、滝沢馬琴(曲亭馬琴)も観賞会の記録を残している。古代東北の地は、高い芸術性においても西日本に勝(まさ)っていた。(続く)

74 【東北、縄文時代の豊穣③】

2020年07月29日 | 言葉
 先進地・北東北
 青森県田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡調査では、弥生式土器の出土が大きな反響を呼んだ。伊東氏が11個の田舎館式土器を基に論文「東北地方の弥生式土器」を発表したのは、同遺跡を発掘調査する前の昭和25年。氏が田舎館式土器について書いた最初の論文だった。当然ながら学界の反応は手厳しく、「田舎館式には弥生式土器の特徴は認められない」や「弥生式土器からの影響は認めても、稲作の行われていた証拠がないから、弥生式土器と呼ぶことは不適当。続縄文式土器と呼ぶべきである」などと叩かれた。その後、同遺跡から6百面を超える大量の水田跡が発掘されたことは既述した通りで、ここに至って伊東氏の学説も認められた。同じ頃に秋田県の志藤沢(しどのさわ)遺跡で籾痕のある弥生式土器が出土、青森、岩手、秋田の東北北部で広く稲作が行われていたことが実証された。

 伊東氏の論文の意味は大きい。東北北部の先住民・蝦夷(えみし)たちも稲作に従事していたのなら、すでに王化に従っている西日本の民と何らの違いもない。蝦夷を一段低い野蛮な民として差別する理由がなくなる。「蝦夷辺民説」の登場は、伊東氏の発掘調査に依拠するところが大きかった。詳しくは後に譲るが、蝦夷は人種的にも文化的にも一般の日本人と異ならず、単に辺境に住む民にすぎないという捉え方だ。それまでの常識を覆す、蝦夷(えみし)=非アイヌ説である。

 大正年間すでに先見
 これらは戦後になってからの成果だが、すでに大正年間、岩手県で考古学の立場から通説に敢然と異を唱えた人がいた。伊東氏が『古代東北発掘』で元岩手県史跡調査委員、小田島禄郎氏の人と業績を紹介している。小田島氏は岩手町(旧一方井村)の竪穴住居跡から稲籾やワラの圧痕がある土師器を発掘し、大正13年度『岩手県史跡名勝天然記念物調査報告書』で、奈良時代以前に米作が行われていた事実を発表した。従来の歴史常識を覆すものだったが、この報告書は発行部数も少なく、限られた地域での発行でもあったため、一般の歴史家に知られることなく埋もれてしまった。情報発信の手段が豊富な現代では考えられないが、小田島氏にとって残念なことだったに違いない。

 縄文晩期、文化は北から南へ
 伊東氏は縄文時代晩期について「日本の歴史において文化はつねに南から北に流れていたが、北から南へ流れたことは、ほとんどなかった。東北はいつも西日本の文化を受け入れる後進地帯であった。ところが縄文時代の晩期には東北が先進地で、その文化は西南へ流れ、関西の文化にまで影響を及ぼした(中略)山に鳥獣が多く、海に魚貝の多い東北は、当時の人々にとって楽天の地であった」と総括している。

 間氷期の温暖な気候がクリやトチ、ドングリといった堅果類をたわわに実らせ、本来は南方の植物である稲の栽培を北東北の地でも可能にさせた。ただし東北の「楽天地」はその後ずっと続いたわけでなく、弥生時代に入って地球規模で冷涼化すると、東北北部の稲作は不作になった。稲はもともと南方亜熱帯地方原産の植物なので、冷涼化の影響を受けやすい。東北南部や会津地方でも弥生後期になると、稲作の比重が下がる。低温化の影響は東北の民に苦境を強いただろう。このまま定住して稲作を続けるべきか、山の幸を追う移動生活に戻るか。当時の蝦夷たちは迷ったに違いない。
 以後、東北北部では北海道・続縄文文化との関係を強め、昔の狩猟採集の生活に一時的に戻った形跡がある。その東北北部が再び稲作をベースとする社会へ戻って行くのは、7世紀になってからのことだ。

 続縄文文化の影響のもと
 古代東北の地でも稲作の普及は蝦夷たちに生活の安定をもたらした。年ごとに気候の寒暖差があっても、コメの毎年の収穫量は予測可能だから、他の作物や堅果類、動物食材などでカバーしやすい。コメが豊作だった年には、翌年まで保存しておく余裕も生まれたに違いない。もとより田夷と山夷が混在する社会であったから、不作の年には田夷も山に分け入って山夷の狩りを手伝ったり、堅果類などの植物食材を採集したりと、柔軟に対応出来たことだろう。

 コメの出来不出来は、おもに夏場の開花期、つまり出穂期(しゅっすいき)の気温によって決まる。一般に8月上旬とされる出穂期の天候が順調かつ30度以上であれば、受粉しやすく、その年の収穫量に期待が持てる。逆にこの時期に雨や低温が続けば病害虫の被害に遭うことが多く、収穫量も少なくなる。山中の堅果類にしても夏が冷涼だと不作になりがちと言われるが、逆に暑すぎても不作になる。コメの出来不出来とは微妙に異なるから、コメが不作でも堅果類はほどほどの出来という年もあっただろう。田夷と山夷の境界は厳密でなく、自由に行き来出来たので、コメが不作なら山の幸に頼れば良かった。そういう点では常緑樹林の西日本より、ずっと融通がきいたのである。弥生中期の気候冷涼化とともに田夷たちがコメ作りを諦め、再び山の生活に戻ったのも、自然の成り行きだったかもしれない。この局面で北海道の続縄文文化が北東北の地で影響力を増したものと思われる。

 狩猟採集生活への回帰も
 東北の民の狩猟採集生活への回帰の形跡は、弥生時代後期以降、特に3世紀から4世紀にかけて、東北北部で発見される遺跡の数が激減した事実からも分かる。なかでも集落遺跡はまったく発見されなくなり、ムラの存在した痕跡が消えてしまった。コメ作りでは耕作から田植え、水利の管理、収穫までの大半が、協力し合う作業によって成り立つ。ゆえにムラという集団の存在は、稲作に不可欠である。であれば集落遺跡が消えたことは、コメ作りが絶えたことを意味する。この時代の土器からは、籾痕などコメ作りの痕跡が発見されなくなった。遺跡数の激減は6世紀まで続いた。(続く)

73 【東北、縄文時代の豊穣②】

2020年07月26日 | 言葉
 落葉広葉樹林の堅果類に秘密
 日本の森林の特徴は、東日本から北日本にかけて落葉広葉樹林が多く、西日本では常緑広葉樹林が多いことだ。寒暖の移り変わりにより植生分布に変化が生じるが、全体の傾向としては暖かな土地で常緑樹が多くなり、寒い土地では落葉樹が多くなる。縄文人の主食はトチやクリ、ドングリ、クルミなど澱粉(でんぷん)の豊富な堅果類(けんかるい=種実類)だったと考えられ、それらの多くは北の落葉広葉樹林でよく育った。この樹林帯ではキノコ類やワラビ、ゼンマイ、フキなどの山菜類が豊富で、イノシシやシカ類といった哺乳類もいる。
 秋はサケが川をさかのぼり、冷水を好むマスやイワナなどの渓流魚も多い。関東や東北では貝塚遺跡が多く発見されるが、海ではアサリやシジミ、カキ、ハマグリといった貝類が豊富にとれた。これに対して西日本の常緑広葉樹林には堅果類が少なく、イノシシやサケ、貝類も東北に比べると乏しい。稲作技術の普及とともに西日本の人口が爆発的に増えるのは弥生時代以降のことであり、縄文時代の東北は実に豊穣の地であった。この結果、食糧を求めて縄文人たちは北の地へ移動した。

 縄文期も盛んだっ栽培農業
 一般に縄文時代のイメージと言えば狩猟採集の生活であり、食糧を求めての移動生活である。そこで食糧の生産・再生産は行われなかったのか、という疑問が生じる。縄文前・中期の遺跡として名高い三内丸山遺跡(青森市)の発掘調査では、自然のブナ林が広範囲に伐採されてクリ林に植え替えられ、人工林として育てられていたことが、出土した花粉の分析から判明した(小山修三・岡田康博著『縄文時代の商人たち』、洋泉社刊)。花粉化石の8割がクリで、集落の建物に使われている木材も大半がクリ材、さらに燃料としてもクリが使われていた。このクリが栽培種であることも遺伝子分析から分かっている。三内丸山遺跡では他に、人の手が必要な栽培品種作物としてヒョウタンや豆類、エゴマ、ゴボウ、アガサの種が見つかっている。
 日本の稲作では食だけでなく、稲ワラが衣や住から燃料にまで広く活用された。同じように縄文時代の三内丸山ではクリが栽培され、コメに劣らぬ利用価値を有していた。縄文人は栽培農業の担い手であり、違いはコメとクリという栽培品目のみであった。

 ちなみにクリの徹底利用が進んだこのような場所では、アクの強いドングリはほとんど出土せず、食べられていなかったことも分かっている。ドングリはアク抜きが面倒なうえ、クリと比べて木材としての利用価値も少ない。ただし三内丸山は縄文時代の先進地と見なされていて、全国各地の縄文人たちが皆このように甘いクリや新鮮なサケばかりを食べるグルメだったわけではない。岡田康博氏は同書の中で「春と秋は森の実りが大半で、森に食糧が少なくなってくると、海の魚を利用し始める。冬場は保存加工したものと動物で乗り切った」と、縄文前・中期の三内丸山での食生活を解説している。海山の幸の両方を、上手に利用していた。
 
 ともかくも東北の縄文人たちの食卓は、現代人も羨(うらや)むほど彩り豊かであった。人口が東北に偏ったことも容易に想像出来る。縄文期という長い年月、日本列島における豊穣の地は西日本でなく東北だったのである。

 始まっていた東北の稲作
 北上川中流域では、大和朝廷勢力の進出以前から稲作が広く行われていた。稲作は、この地を征した倭人(わじん)がもたらしたものではなく、倭人たちは先住民たる蝦夷(えみし)たちの間ですでに普及していた米作の富を収奪すべく、この地へ進出したのである。この頃の蝦夷には山から下りずに狩猟採集の生活を続ける山夷(さんい)と、里に下りて稲作や畑作に従事する田夷(でんい)、また、それぞれを適宜に兼ねる蝦夷が存在したと考えられる。長いスパンで見れば田夷の比率が増える傾向にあったが、ある時期には山夷が増えたこともあった。

 稲作の跡を裏付ける遺跡は枚挙にいとまがなく、よく知られたところでは奥州市の常盤遺跡や秋田県男鹿市(旧琴浜村)の志藤沢(しどのさわ)遺跡、青森県田舎館(いなかだて)村の垂柳(たれやなぎ)遺蹟などがある。常盤遺跡は旧佐倉河村内にあり、奥州市の中でも阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷軍の根拠地ともなった地域だ。ここで出土した弥生式土器には籾粒の圧痕が認められることから、稲作が行われていたことが証明された。土器の製作年代から考えて、坂上田村麻呂が同地を制圧して胆沢城を築城(802年)する少なくとも6百年前から、蝦夷たちは営々とコメ作りに励んでいた。この土器は岩手県内で初めて発掘された弥生式土器と言われ、昭和27年の発掘時は大きな反響を呼んだ。

 言うまでもなく現在も水利の良い奥州市などの北上川沿いは東北有数のコメどころである。田村麻呂もこの地に初めて足を踏み入れた時は、青一色に染まった一面の水田を見たに違いない。「王化」への意欲を掻き立てたことだろう。

 さて、反響の大きさと考古学上の大発見という点では、昭和33年に発掘調査が行われた青森県田舎館村の垂柳遺跡がある。同年の調査で、水田の地表下50センチの場所から多くの田舎館式土器と2百粒を超える焼米が発掘され、弥生中期後半までに津軽平野でコメ作りが行われていた事実を裏付けた。コメ粒はナマだと腐るが、焼けて炭化したものは後々まで元の形のままで残り、土器の底などに付いた籾粒の圧痕でも確認出来る。田舎館遺跡のコメ粒は前者だった。昭和56年に10面の水田跡が発掘され、翌年と翌々年の2か年に調査ではさらに656面もの水田跡が発掘された。畔できちんと区画された立派な水田は、発掘調査にあたった研究者たちを驚かせた。1面当たりの広さは現代の水田に及びもつかないが、水路といい畔といい、申し分のない形をととのえていた。

 それまで青森県内では、弥生時代に水田耕作はなかったと考えられていた。ところが津軽平野ではすでに稲作が始まっていたわけで、従来の常識を大きく覆すインパクトがあった。当時、垂柳遺跡の発掘調査を指導した伊東信雄氏の著『古代東北発掘』(学生社刊)によれば、坂上田村麻呂の蝦夷制圧まで岩手県内では米作が行われていなかった、とする考え方が歴史学界の常識だった。遣唐使たちの唐での証言や『日本書紀』『続日本紀』などの文献に疑問を抱かない限り、蝦夷たちは肉ばかりを食べコメを口にしていなかったことになる。(続く)

72 【東北、縄文時代の豊穣①】

2020年07月26日 | 言葉
 温暖な気候の縄文期
 縄文時代の豊穣さが温暖な気候に支えられていたことは、たびたび指摘されてきた。二酸化炭素の急激な排出量増加により、地球温暖化の弊害が指摘される近年。こうした人為的な気候変動要因とは別に、地球それ自体が過去約百万年にわたり、約十万年を一周期として寒冷期(氷期)と温暖期(間氷期)を繰り返してきた(日本第四紀学会編『百年・千年・万年後の日本の自然と人類』より。古今書院刊)。現在の温暖期は約1万年前から続き、縄文前・中期の6千5百年前から5千5百年前にかけて、温暖化のピークに達したと考えられている。その後は一定の周期で、小規模な寒冷と温暖の状態を繰り返した。

 縄文時代は1万年以上前から約3千年前まで続いた。つまり縄文人は温暖期の始まる以前から日本列島に定着し、温暖期の進行とともに生きていたことになる。前後の小規模な寒暖の変化を見ると、縄文後期中ごろの約4千5百年前と弥生前期の2千5百年前に、それぞれ寒冷化したことが定説になっている。西暦紀元前後以降は諸説があって不明な点が多いが、低温と温暖を繰り返した後、6世紀ごろから温暖基調になったようだ。特に東北と近畿圏とでは時代区分だけでなく、気候上も異なるものがあったと想像される。

 海水面の上昇と下降に関しては、深海底堆積物の分析により地球規模の気候変動を知る研究が近年急速に進み、各年代の様子が分かるようになっている。寒冷化の進んだ約1万年前、海水面は現在より、ほぼ40メートル低かった。ところが温暖化した約6千年前には、現在の海水面より2、3メートル高くなったようだ。6千年前は縄文時代の早期にあたる。発掘された当時の貝塚が現在の海岸線より10キロ以上内陸に入った場所にあることも珍しくなく、温暖化の進行ぶりが分かる。当然ながら地球規模の温暖化は日本列島の植生に変化をもたらした。

 古代東北の気候変動 
旧石器時代    紀元前10万年~1万年    
縄文時代 草創期 前1万2000~1万年  寒冷から温暖へ向かう
     早期  前1万~4000年  
     前期  前4000~3000年 前4500~3500年頃に温暖化
     中期  前3000~2000年 温暖化が続く
     後期  前2000~1000年 前2500年頃に寒冷期
     晩期  前1000~400年  前500年頃から弥生前期まで寒冷期 
弥生時代 前期  前400~200年  
     中期  前200~100年   
     後期  前100~紀元後200年 紀元前後に温暖化
古墳時代     後200年~  3、4世紀にかけ寒冷化の後、6、7世紀以降は温暖期

 寒暖により森の木の実は豊かに実り、また不作となる。現代人も良く知る事実だ。食糧を山の幸に依存するイノシシやシカも、木の実の出来不出来により、個体数を増やす年もあれば減らす年もあった。この点、古代の東北は総じて温暖で、森の幸も豊かだった。狩猟採集は縄文人たちの日々の生業(なりわい)であるから、数世紀間に及ぶ温暖な気候は何よりの恵みになる。この時期、現代人には想像もつかない変化が実際に起きていた。

 豊穣の東北
 古代日本列島のイメージは、西日本が比較的豊かで東北は貧しい、というものだ。弥生時代から継続してきたとされる稲作社会が、そのように考える背景にある。品種改良によりコメに耐寒品種が誕生した現代では、北海道や東北でも美味いコメが多く収穫されるようになったが、かつての東北は幾度となく冷害の憂き目に遭ってきた。「東北は貧しい」は、コメが東北では十分に収穫出来なかった時代のイメージなのである。では縄文時代までさかのぼると、南北の貧富はどのような形で現われていたのか。
 
 意外なことに小山修三氏によれば、縄文時代の日本列島では東北や関東地方に人口が集中し、西日本の人口はまばらだったという(『縄文時代』、中公新書)。小山氏は全国を東北、関東、北陸、中部、東海、近畿、中国、四国、九州の九ブロック(北海道は除く)に分け、時代を縄文早期、前期、中期、後期、晩期、弥生、土師の各期に区切って分析を試みた。ブロック内で発掘された遺跡数を集計し、遺跡1か所につき一定の人数を割り当てて算出する方法をとった。時代特定については土器などの出土品から割り出した。
 ただし、遺跡の多寡が基準となる小山氏の算出法には当初から批判があった。たとえば同じ遺跡に3代にわたって百年間定住したケースもあれば、3代が30年間ずつ3か所に住んだ場合もあるはずだ。両方のケースを比較すると、実際の人口は同数なのに、結果に3倍の違いが出る。ある時代には多人数で暮らした住居跡が多く、反対に少人数用の住居跡ばかり見つかる期間もあるから、1つの住居につき一律に何人とは言いにくい。これを小山氏も「当然の批判」と認めている。
 
 それらを頭に入れたうえで小山氏の試算に従えば、縄文中期の全国人口は推定約26万人。そのうち25万人が東北を含む東日本に住み、西日本の人口は全体でも1万人に満たなかった。1平方キロメートルあたりの人口密度を見ると、関東は3人で最も高く、次いで中部の2・1人、東北・北陸・東海が1人弱。これに対して近畿は、東北などの10分の1の0・1人、四国や九州に至っては100分の1の0・01人という低さだ。全体の96パーセントが東日本に集中していた。驚くべき数字である。弥生時代になってコメ作りが盛んになると、西日本の人口は急増するが、縄文期の東北の賑わいは何が理由だったのか。食糧が豊富であったという理由以外には考えられない。(続く)

断想片々(14) 【なにゆえ今「Go To トラベル」か】

2020年07月23日 | 言葉
 7月22日、新型コロナの1日当たり国内感染者数は、過去最多だった4月11日の743人を更新して795人に及んだ。 東京都内は238人で、7月9日以来14日連続で1日当たり100人超え。大阪も121人で、初の100人台を数えた。折もおり、政府の観光支援策として「Go To トラベル」事業が22日、スタートした。小池都知事がこの事態を「冷房と暖房を同時にしている」と評したが、なるほど言い得て妙だ。

 何が変わったのか?
 県境を越えての遠出自粛が声高に叫ばれたのは、つい先日のこと。現状は、当時と何が変わったのか。22日に安倍首相は「(春と違い)重症者数が少なくなった」と説明していたが、日ごと伸びる感染者数の棒グラフから予測すれば、やがて感染は若者から高齢者層へ広がり、勢いを増しつつ高齢重症者数が増えることも必至だ。棒グラフは過去と現在の反映だが、そこから未来を見通すのでなければ意味がない。事態は変わらず、というより危険度はむしろ増している。

 なにゆえ「トラベル」が先陣か?
 新型ウイルスの封じ込めと経済活動の回復とは、二者択一でなく両立させたい。しかし数ある産業・業種の中で、第1波中は赤信号だった観光産業に経済回復の先陣を切らせる必要はあるまい。沖縄をはじめ迷惑顔の地方自治体の首長は多いし、観光関係以上に困っている業種も多い。ウイルス禍の拡大阻止が一方の至上課題である以上、県境越えの旅行奨励策は、もっと後にしても良いはずだ。