続縄文文化とは
ところで、耳慣れない続縄文文化とは、どういうものか。北海道のアイヌ社会では、銅鉄の金属器が使用されるようになった後も、狩猟や漁労の採集生活が続いた。金属器の使用は縄文文化が終わったことを意味するが、といってコメを生産しているわけではないから、弥生時代に分類することも適切ではない。桜井清彦氏によると「適当な名称がないので、縄文文化に続く文化というところで続縄文文化となり、その時代に用いられた土器が続縄文土器と称せられた」(『アイヌ秘史』、角川新書)のである。
「続縄文」の命名は山内清男博士による。北海道を中心に紀元前3世紀から紀元後7世紀頃までの土器が盛んに出土した。本州弥生時代にあたる前半期のものとして西南部の恵山(えさん)式土器、東北部の宇津内式土器や下田ノ沢土器が、また古墳時代にあたる後半期のものとして後北式(こうほくしき=江別式)土器があり、特に後北式土器の出土は広く仙台平野や新潟にまで及んでいる。続縄文文化の本州南下とは、この事実を指す。興味深いことに東北北部では、10世紀の半ばから11世紀の末にかけ、北海道と共通した土器文化圏が復活していた。北海道特有の擦文(さつもん)土器が、東北北部各地から出土することで分かる。東北北部では9世紀に入って稲作が著しく盛んになり、縄文的生活に逆戻りしていた時代から脱した。擦文土器を使っていたのは、どういう人々だったのか。かつては北海道から渡来したアイヌ系の人々と考える学説もあったが、近年の研究では、農耕生活に入っていた現地の民という見方の方が有力だ。
エゾ社会への回帰の謎
斉藤利男氏は「東北北部の人々が、何ゆえ『北の文化圏』の中に回帰し、エゾ社会の一部として歴史を歩むことになったのだろうか。残念ながら、この問題に明確な解答を出すことはむずかしい」と指摘している(『古代蝦夷の世界と交流』1から「蝦夷社会の交流と『エゾ』世界への変容」、名著出版刊)。現代的な解釈かも知れないが、当時の蝦夷(えみし)たちが南方から押し寄せる稲作文化の波の中で、おのれのアイデンティティに目覚めた結果として「北の文化圏」へ回帰したとすれば、どうだろうか。
驚異の亀ケ岡式土器
縄文時代には人口でも東北に賑わいがあったことは既述した。古今東西、文化は人の集中する場所に生まれ育つ。伊東信雄氏は「縄文土器は東北地方で最高度の発達を遂げた。縄文時代晩期には東北地方が日本でもっとも文化が発達していた」(『古代東北発掘』)と述べている。この時期の精巧な縄文土器の多くは、東北の地から出土した。西日本では精製土器と評されるものでも、同時代の東北製と比べると見劣りがするという。なかでも伊東氏が激賞するのは、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)の亀ケ岡遺跡から出土した亀ケ岡式土器。イヌイットがサングラスとして使うような、遮光器土偶の発掘で知られる縄文時代晩期の遺跡と言った方が通りやすいかもしれない。
伊東氏によれば、亀ケ岡式土器の形は壺、甕(かめ)、鉢、皿、高坏(たかつき)、土瓶とさまざまで、壺の口も細口や広口、鉢にも台付きのものや台のないものなど変化に富む。文様の多彩さだけでなく表面を磨き上げて光沢を出したものや、朱漆や黒漆で文様を描いたものなどもあり、現代人の感覚をもってしても芸術的価値は高い。縄文土器といえば素朴で男性的なイメージが強いが、亀ケ岡式の特徴は精巧で華麗、むしろ女性的な優美さにある。亀ケ岡遺跡から集中的に出土するが、この地だけでなく東北各地で発掘された。青森県八戸市の是川遺跡や、岩手県大船渡市の大洞貝塚、宮城県石巻市の沼津貝塚、同県一迫町(現・栗原市)の山王遺跡、福島県いわき市の寺脇貝塚など、出土した遺跡を数え上げればきりがない。山王遺跡からは土器ばかりか多量の漆器も出土し、世間を驚かせた。
奈良の都人(みやこびと)も認めた美しさ
亀ケ岡式土器は、美的価値から東北以外へも広く流通していたようで、中部や近畿圏、なかには昭和10年代に発掘調査された、橿原神宮近くの縄文遺跡での発見例もある。今から約2千年前、つまり日本武尊の東征に際し「其(か)の東の夷(ひな)は識性(たましい)暴(あら)び強(こわ)し。凌犯(しのぎおかす)を宗(むね)とす」と、先住民・蝦夷(えみし)を獣さながらに描写した、そのはるか以前に、東北最奥の蝦夷たちは芸術の香り高い土器とともに日常を送っていたのである。そればかりか奈良の都人の祖先たちも美しさを認め、蝦夷文化の香りに浴していた。これを驚くべき事実と言わずして、なんと言うべきか。
滝沢馬琴も
ちなみに亀ケ岡土器の発見は江戸時代初めのこと。津軽藩主がこの地に城を築こうとして、丘になった地形から大量の甕が出土した。「甕」が「亀」となり、「亀ケ岡」の名になったという。出土した土器は江戸の昔から「亀ケ岡もの」と呼ばれて評価が高く、全国の骨董好きに珍重された。なかには、その後売られて海外に持ち出される土器もあるほどだ。『南総里見八犬伝』の作者、滝沢馬琴(曲亭馬琴)も観賞会の記録を残している。古代東北の地は、高い芸術性においても西日本に勝(まさ)っていた。(続く)
ところで、耳慣れない続縄文文化とは、どういうものか。北海道のアイヌ社会では、銅鉄の金属器が使用されるようになった後も、狩猟や漁労の採集生活が続いた。金属器の使用は縄文文化が終わったことを意味するが、といってコメを生産しているわけではないから、弥生時代に分類することも適切ではない。桜井清彦氏によると「適当な名称がないので、縄文文化に続く文化というところで続縄文文化となり、その時代に用いられた土器が続縄文土器と称せられた」(『アイヌ秘史』、角川新書)のである。
「続縄文」の命名は山内清男博士による。北海道を中心に紀元前3世紀から紀元後7世紀頃までの土器が盛んに出土した。本州弥生時代にあたる前半期のものとして西南部の恵山(えさん)式土器、東北部の宇津内式土器や下田ノ沢土器が、また古墳時代にあたる後半期のものとして後北式(こうほくしき=江別式)土器があり、特に後北式土器の出土は広く仙台平野や新潟にまで及んでいる。続縄文文化の本州南下とは、この事実を指す。興味深いことに東北北部では、10世紀の半ばから11世紀の末にかけ、北海道と共通した土器文化圏が復活していた。北海道特有の擦文(さつもん)土器が、東北北部各地から出土することで分かる。東北北部では9世紀に入って稲作が著しく盛んになり、縄文的生活に逆戻りしていた時代から脱した。擦文土器を使っていたのは、どういう人々だったのか。かつては北海道から渡来したアイヌ系の人々と考える学説もあったが、近年の研究では、農耕生活に入っていた現地の民という見方の方が有力だ。
エゾ社会への回帰の謎
斉藤利男氏は「東北北部の人々が、何ゆえ『北の文化圏』の中に回帰し、エゾ社会の一部として歴史を歩むことになったのだろうか。残念ながら、この問題に明確な解答を出すことはむずかしい」と指摘している(『古代蝦夷の世界と交流』1から「蝦夷社会の交流と『エゾ』世界への変容」、名著出版刊)。現代的な解釈かも知れないが、当時の蝦夷(えみし)たちが南方から押し寄せる稲作文化の波の中で、おのれのアイデンティティに目覚めた結果として「北の文化圏」へ回帰したとすれば、どうだろうか。
驚異の亀ケ岡式土器
縄文時代には人口でも東北に賑わいがあったことは既述した。古今東西、文化は人の集中する場所に生まれ育つ。伊東信雄氏は「縄文土器は東北地方で最高度の発達を遂げた。縄文時代晩期には東北地方が日本でもっとも文化が発達していた」(『古代東北発掘』)と述べている。この時期の精巧な縄文土器の多くは、東北の地から出土した。西日本では精製土器と評されるものでも、同時代の東北製と比べると見劣りがするという。なかでも伊東氏が激賞するのは、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)の亀ケ岡遺跡から出土した亀ケ岡式土器。イヌイットがサングラスとして使うような、遮光器土偶の発掘で知られる縄文時代晩期の遺跡と言った方が通りやすいかもしれない。
伊東氏によれば、亀ケ岡式土器の形は壺、甕(かめ)、鉢、皿、高坏(たかつき)、土瓶とさまざまで、壺の口も細口や広口、鉢にも台付きのものや台のないものなど変化に富む。文様の多彩さだけでなく表面を磨き上げて光沢を出したものや、朱漆や黒漆で文様を描いたものなどもあり、現代人の感覚をもってしても芸術的価値は高い。縄文土器といえば素朴で男性的なイメージが強いが、亀ケ岡式の特徴は精巧で華麗、むしろ女性的な優美さにある。亀ケ岡遺跡から集中的に出土するが、この地だけでなく東北各地で発掘された。青森県八戸市の是川遺跡や、岩手県大船渡市の大洞貝塚、宮城県石巻市の沼津貝塚、同県一迫町(現・栗原市)の山王遺跡、福島県いわき市の寺脇貝塚など、出土した遺跡を数え上げればきりがない。山王遺跡からは土器ばかりか多量の漆器も出土し、世間を驚かせた。
奈良の都人(みやこびと)も認めた美しさ
亀ケ岡式土器は、美的価値から東北以外へも広く流通していたようで、中部や近畿圏、なかには昭和10年代に発掘調査された、橿原神宮近くの縄文遺跡での発見例もある。今から約2千年前、つまり日本武尊の東征に際し「其(か)の東の夷(ひな)は識性(たましい)暴(あら)び強(こわ)し。凌犯(しのぎおかす)を宗(むね)とす」と、先住民・蝦夷(えみし)を獣さながらに描写した、そのはるか以前に、東北最奥の蝦夷たちは芸術の香り高い土器とともに日常を送っていたのである。そればかりか奈良の都人の祖先たちも美しさを認め、蝦夷文化の香りに浴していた。これを驚くべき事実と言わずして、なんと言うべきか。
滝沢馬琴も
ちなみに亀ケ岡土器の発見は江戸時代初めのこと。津軽藩主がこの地に城を築こうとして、丘になった地形から大量の甕が出土した。「甕」が「亀」となり、「亀ケ岡」の名になったという。出土した土器は江戸の昔から「亀ケ岡もの」と呼ばれて評価が高く、全国の骨董好きに珍重された。なかには、その後売られて海外に持ち出される土器もあるほどだ。『南総里見八犬伝』の作者、滝沢馬琴(曲亭馬琴)も観賞会の記録を残している。古代東北の地は、高い芸術性においても西日本に勝(まさ)っていた。(続く)