斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

51 【重箱の隅を楊枝でほじくる】

2018年10月04日 | 言葉
 宮沢賢治はメタボ?
 3年前、本気で体重の減量に取り組んだ。大台の80キロに乗ってしまい(身長173センチ)、腹囲も95センチに達して、健康診断後に保健婦(師)さんから叱られた。そこで一念発起、食事制限と毎日3時間のウオーキングとで、何とか半年で10キロほど落とした。その頃よく見た夢が、あんこたっぷりの最中(もなか)と、各種てんぷら山盛りの天丼。もともと饅頭1つなら食べられても、2つ目は「饅頭怖い」派の辛党だから、最中を食べたいと思ったことは1度もなかった。揚げ物ではカツが好物だが、てんぷらはそれほどでもない。最中とてんぷらの夢を繰り返し見た理由は、甘い菓子と油ものを断(た)っていた反動だろう。どこかのキャッチコピーではないが、まさしく「うまいものは、砂糖と油で出来ている」のである。

 そんなことばかりが頭の中で行ったり来たりしていたせいか、当時、宮沢賢治『雨ニモマケズ』の中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」という一節が気になった。「賢治はメタボだったのか!」と。米を1日4合なら、朝昼夕の食事1回につき1・3合ずつ、つまり普通サイズの茶碗で3杯分ずつになる。保健婦さんなら「それではメタボのままです」と顔をしかめるだろう。
 ダイエットをしなければ「玄米と味噌、少々の野菜だけなんて質素だな」で素通りしていたに違いない。パソコンに「宮沢賢治 玄米四合」で検索をかけてみると、同じような疑問の書き込みがズラリとあった。同じ思いでいた人は多かったようだ。

 日本食品標準成分表によると、玄米100グラム当たりのカロリーは345キロ・カロリー。白米の356キロ・カロリーとあまり変わらない。玄米の重さは1合156グラムほどで、4合なら624グラム。カロリーは、345×6.24=2152.8キロ・カロリーの計算になる。カロリー面だけで考えると、農作業など激しく労働するには不足気味だが、現代のサラリーマンの標準値に近い。もちろんダイエットに挑戦するなら1500キロ・カロリーぐらいにまで抑える必要があるだろう。少食だったと伝えられる賢治にとっての「玄米4合」は、あるいは背伸びした数字だったのかもしれない。
 それでも朝昼晩、茶碗3杯ずつという満腹感は、うらやましい。筆者が次にダイエットするときは、最中と天丼のほかに玄米3杯が夢に出てきそうだ。

 本当はリッチな画家?
 おトキさんこと加藤登紀子さんの代表曲に『百万本のバラ』がある。<--貧しい絵描きが女優に恋をした。ある日、自分の小さな家と画道具のキャンバスを売って街中のバラを買い集め、女優の家の窓の下の広場を、百万本のバラの花で埋め尽くした-->(歌詞前半の概略)という内容だ。
 いまだ一度も女性に花を贈った経験のない筆者としてはロマンチックで羨ましい限り。一方で「百万本」という数に「ん?」と立ち止まってしまう。当時、バラ1輪の値段は、いかほどだったのか。映画ではバラ1輪で胸元を飾ったり、女性に1本だけ捧げたりするシーンをよく見るから、いくら安くても1本1円ということは、あるまい。10円でも安い。100円なら妥当だろうか。舞台になった国がバラの一大産地であれば、想像以上に安いかもしれない。それにしても1本10円だと「百万本」で1千万円。現代の日本では最低1本100円はするだろうから、こうなると1億円。とても「貧しい絵描き」の出来る仕業ではない。加えて、トゲのあるバラを広場一面に撒(ま)いたら、遊びに来た幼児が痛がって大迷惑になるかもしれない。
 ロマンチシズムとは反対のところで、こんなことばかり考えているから、筆者はこの先もバラの花1輪とて女性へは贈れまい。まあ、古希のジイジには今更そんな気もないのだけれど……。

  星屑とスターダスト
 詩に比喩はつきもの。「百万本」も比喩表現である以上、理詰めで云々するのは愚かしい限りだ。重箱の隅を楊枝でほじっているだけなことは筆者も重々承知なので、そのつもりで、つまり斉東野語(タワゴト)としてお読み願いたい。「比喩でも大げさ過ぎるとリアリティーが薄まる」などと主張しているつもりもありません。
 さて最後は「星屑」「小さな星」「名もない星」といった星にちなんだ言葉。新旧を問わず歌詞に多く、古くは三橋美智也が昭和30年代に歌った『星屑の町』(1963年)、比較的新しいところではゴスペラーズの『星屑の街』(2002年)など。坂本九の『見上げてごらん夜の星を』(1963年)には「小さな星」や「名もない星」の語が登場する。多くは『見上げてごらん--』のように「名もなき小さなもの」としてシンボル化されており、いわゆる宇宙塵ではなく、肉眼で見える星々を指す。そのほか加山雄三『蒼い星くず』(1966年)のように2つの星を「君と僕」にたとえたケースもある。
 もとより夜空に光る星々は何億光年の彼方から光を送り続けている恒星が多く、どれも立派な名前がある。たいていの場合、その1つ1つは太陽よりも大きい。しかし自身は光も発しない地球という小惑星上の、宇宙のモノサシからすれば一瞬だけ存在する人間が、まるで見下したように「小さな星」「星屑」と言う。人間サマは尊大である。「地球こそ宇宙の星屑。人間はもっと謙虚になり、宇宙の一員たる地球という視点で、せめて地球環境の保護を」と言うつもりはサラサラないとしても……。

 ちなみに英語のスターダスト(star-dust)には「星塵、星くず」のほかに「うっとりさせるもの」(研究社『デイリーコンサイス英和辞典』)という意味もある。ジャズのスタンダード・ナンバー『STARDUST』(1927年)中の<Love is now the stardust of yesterday>という一節。「stardust」を「うっとりさせるもの」の意味に置き換えて聴き直せば、曲のイメージは変わるかもしれない。