斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

42 【チベット侵略】

2018年03月19日 | 言葉
 もし日本なら
 明治維新までの日本は封建社会だった。当時、欧米いずれかの国が「日本人民を封建制から解放するため、我が国で改革する。他国の帝国主義から日本人民を守るためである」との理屈で植民地化しようとしたら、我々の父祖たちは如何に応じただろうか。世界には、このようにして国ぐるみ奪われた民族が存在する。「他国の帝国主義から守る」という甘言で微笑(ほほえ)みかけた国こそが収奪の張本人だった。チベットや内モンゴル(33【内モンゴル】、34【続・内モンゴル】参照)で起きたことを、他国の出来事でなく日本でのことと想定し直すと、実情が理解しやすい。

 毛沢東の「チベット解放」
 1949年9月、毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言すると、間を置かずチベット支配も主張した。翌50年10月には中国人民解放軍がチベット軍の抵抗を抑え、チベット東北部のアムド地方と東部カム地方を支配下に収める。それ以前の1912年以後、チベットは宗教(チベット仏教)と政治の指導者を兼ねるダライ・ラマ13世のもと、不完全ながら行政組織を備え、隣国インドやイギリス、ロシアと外交交渉する国家だった。
 人民解放軍がチベットへ侵攻する際の理由づけが、冒頭の「チベット人民を封建制から解放するため軍を駐留させる。帝国主義からチベット人民を守るためである」だ。この中の「帝国主義」とは、しかし、どの国を指したのか。マイケル・ダナム著『中国はいかにチベットを侵略したか』(講談社インターナショナル社刊)によれば、当時チベットに滞在中の外国人は計8人。内訳は、チベット政府がラジオ技術者として雇用したイギリス人が2人、イギリス人外交使節1人、オーストリア人登山家が2人、水力発電工事担当のロシア人技師1人、イギリス人宣教師1人、夏季短期滞在中のアメリカ人1人だった。帝国主義者としてチベットを侵略する陣容にしては、あまりに貧弱である。一方、翌1950年4月までに人民解放軍の兵士3万人以上がカム地方の商業都市ダルフェド(のちに四川省)を越えチベット国へ侵攻した。8人の「帝国主義者」を追い出すための3万人の兵士、だろうか。腹立たしさを越えて滑稽だ。

 「帝国主義者から人民を守るため」は、内モンゴルに人民解放軍を送り込む際にも使われたスローガン(33【内モンゴル】、34【続・内モンゴル】参照)でもある。古いドグマに従って状況を見ようとすれば、このようなスローガンになるのだろう。しかしモンゴルやチベットで実際に起きた出来事を振り返れば、どれほど不合理なスローガンであったかは明らかだ。むしろ漢民族を優位に置き、周囲の「北狄、東夷、南蛮、西戎」を未開の属国民族と見なす、差別意識の強い中華思想がバックボーンとなったと考える方が真実に近い(5【中華思想と覇権主義】参照)。文化も言語も宗教も異なる国々でありながら、漢民族側から一方的に「属国」とされ、侵略と支配を正当化されてはたまらない。見かねた諸外国からの抗議に対して「内政干渉だ!」の常套句で突っぱねる強弁ぶりは現在も同じ。チベットと中国が同一の国家であれば「内政干渉」の理屈も通るが、諸外国からの抗議の核心は「チベットと中国は別の国。だから中国はチベットに内政干渉するな!」なのである。
 
 相次ぐ抗議暴動
 1951年5月、ダライ・ラマ14世率いるチベット政府は、アボ・ジグメを代表とする交渉団を北京へ派遣し、中国側との話し合いの席につかせる。だが交渉とは名ばかりで、中国側は暴力的に協定書へ署名させた。名高い「十七条協定書」だ。アボ・ジグメは交渉団の代表だったが、ダライ・ラマ14世から全権委任されていたわけではない。であれば協定書は無効だが、以後中国側は協定書を根拠に「チベットは中国の1員として、外交と軍事は北京政府が扱う」「ダライ・ラマの地位と権力に変更はなく、仏教と信仰、チベット人の風俗習慣は尊重される」とした。

 チベットには旧式ながら銃器を備えた家が多く、伝統的に戦意も旺盛。各地で暴動の嵐が吹き荒れた。1956年のラサ民衆デモ、数千人が犠牲になったと伝えられるゴロク族の武装蜂起、同年春のリタン族大暴動など枚挙にいとまがない。暴動の理由について『中国はいかにチベットを侵略したか』は「中国側の言う改革がすべて大噓だと分かってきたため」と説明している。元AFP通信社北京特派員のピエール=アントワーヌ・ドネも著書『チベット受難と希望』(岩波現代文庫)に「1966年、あらゆる宗教上の習慣は中国政府によって例外なく厳禁とされた」と書いている。「十七条協定書」の「仏教と信仰、チベット人の風俗習慣は尊重される」など初めから無いも同然だった。

 報復の残虐行為
 暴動への報復として中国側は空からの爆撃で応じた。チベット人たちが集まる僧院が、もっぱら標的にされた。1956年のリタン族大暴動では爆撃機によりリタの街は破壊され、3千人から5千人が犠牲になった。地上でもチベット人に対する報復行為は残虐を極めた。
<妻、娘、尼僧は繰り返し強姦された。特に尊敬されていた僧は狙いうちにされ、尼僧との性交を強いられた。あくまで拒否した僧のある者は腕を切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はその上に小便をかけるよう命じられた。別の村では24人の親が、子供を中共の公立学校へ行かせるのを拒んだ罪で、目に釘を打ち込まれ、虐殺された>(『中国はいかにチベットを侵略したか』より)
<もっともひどい虐待を受けた囚人は尼僧たちだった。舌、足の指、胸に電気棒でショックを与え、性器の中にも突っ込まれた。他の尼僧は顔を煙草の火で焼かれた>(『チベットの受難と希望』より)
 1950年代のチベットへは外国メディアが入国出来ず、残虐行為の数々は報道されなかった。漢人の残虐行為に性的なものが多いのは内モンゴルのケースと同じ。戦力として微弱な尼僧へ残虐行為が集中した点は、いかにも卑劣だ。
 
 「チベット暴動」から10年
 2008年3月14日、中国チベット自治区の都市ラサで起きた「チベット暴動」から、まる10年。ダライ・ラマ14世は非暴力主義を唱えるが、武装闘争路線をとるチベット人グループの抵抗も根強い。すっかり抑え込まれた観の内モンゴルとは異なり、チベットの動向は流動的であり、今後も目が離せない。