斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

93 【オールド・リベラリストの憂鬱】

2023年03月25日 | 言葉
 「十年一昔」と言うけれど・・
 「一昔(ひとむかし)」の意味は<もう昔だと感じられる程度の過去。普通、10年前をいう。もとは一七年・二一年・三三年などを意味したこともあった。「十年一昔」>(『広辞苑』第七版)。しかしコトバの意味が変化する時間幅(スパン)として考えるなら、10年は短すぎるようにも思える。
 それほどコトバの意味は早く変わる。一例は「リベラル」というコトバ。一部メディアに限るかもしれないが、政治学用語としての「リベラル」が、いつの間にか「左派」と同義ないし近似の関係で使われるようになっている。

<立憲、「中道回帰」で目指す政権奪還の道 リベラル派にくすぶる反発>(3月18日付け朝日新聞デジタル版見出し)
 時代を遡(さかのぼ)らずとも「リベラル」は「liberal」である。「liberalism」は「自由主義」、「liberalist」なら「自由主義者」「リベラリスト」だ。時代により揺らぎがあっても「一昔前」の日本では、自民党はリベラル勢力に区分けされた。また、社会党(懐かしい名になった?)がリベラルと呼ばれることはなかった。ところが上記朝日新聞見出しのように、今は立憲民主党の左派を指して「リベラル派」と呼ぶ場面に、しばしばお目にかかる。

 東西冷戦時代の「リベラル」
 隔世の感、と言ったら大げさかもしれないが、かつての「リベラル」はメジャーなコトバだった。東西冷戦時代の「リベラル」のこと。

 旧ソ連の解体は1991年だから<十年一昔>なら<三昔>以上前の話になってしまう。ハンガリー動乱(1956年)、キューバ危機(1962年)、プラハの春(1968年)、ベトナム戦争(1955-75年)と続いた東西冷戦の時代、西側ヨーロッパ陣営を結束させたコトバが「リベラリズム」。共産主義の衣を纏(まと)った全体主義に対し、欧米を中心とした西側諸国はこのコトバのもとで結束した。「共産主義陣営」対「自由主義陣営」。オールド・リベラリストにとれば、コトバがメジャーなプラス・イメージから、胡散(うさん)臭いマイナス・イメージへと転落してしまった印象だろう。

 しかし実のところ「リベラル」が動いたのではなく、世の中全体が動いたのである。特に日本社会が動いた。右側へ向かって動いたのだから、世の中そのものが右傾化したと言える。コトバ自体や、その座標軸は動いていない。

 野党の抵抗路線?
 3月3日付け読売新聞朝刊政治面(13S版)に「おや?」と首を傾げる見出しが載っていた。<衆院憲法審 立民 抵抗路線が鮮明>と。憲法改正を審議する場で、慎重路線をとる野党立憲民主党の抵抗が強い、ということらしい。しかし「抵抗路線」では、ただの「駄々っ子路線」みたいだ。
 憲法改正は戦後政治にとって一つの総決算たる、重大問題のはず。保守勢力が昭和のうちに成し遂げようとして遂げられず、平成の30年間でもかなわず、令和の現在に至った。現代でも憲法改正には国民の間に半数近い反対意見があり、それゆえ立憲民主党は「審議は慎重に」と最大限の注意を払うように求めているわけだ。この論理、どこか、おかしいだろうか。

 国会は少数”異”見を聴く場 
 立憲民主党のような野党が「抵抗路線」をとらず、時の政権やお役人が線を引いた設計図のままに唯々諾々(いいだくだく)と追従していたら、国民は納得するのだろうか。
 立憲民主党支持者は少数派。国会審議において”異”を唱え、少数意見を代弁してこそ、政党としての役割を果たす。問題が重大であるほど「徹底抗戦」の度合を強くするのでなければ、少数派国民の代弁者とは言えない。
 「リベラル派」を左派と位置付けるのも、野党の反対を「徹底抗戦」と呼ぶのも、世の中の右傾化傾向のゆえである。両者に共通するのは少数”異”見を締め出そうとする姿勢であり、根っこの部分は同じだ。少数意見は切り捨てるべし、無駄な「抵抗」は止めるべしでは、全体主義の隣国と変わらない。

 気になる語に「権威主義」も
 政治学の分野では「いく昔前」から普通に使われているコトバのようだが、中国やロシアなどの一部全体主義国を指して「権威主義の国」と言うことがある。筆者は違和感を覚えて仕方がない。皆さんは、いかがでしょうか。
 国語辞書で「権威主義」の語を引くと<必要以上に権威(者)をたてにとって世事に処そうとする態度・行動>(『新明解国語辞典』)とあり、「権威」自体は<ずば抜けた実力やすぐれた判断力の累積によって支えられた、他を威圧し、追随せしめる人がただよわせる雰囲気。また、そのような雰囲気をただよわせる人>(同辞典)とされている。このコトバへの一般的な理解だろう。
 ところが、政治学の分野で見かけるようになった語の方は「独裁者」とほぼ同義。それなら、なぜ使い慣れた「独裁者」の語の方を使わないのか。雰囲気や威圧にとどまる「権威」と、権力による排除と強制の「独裁」。明らかに語義が異なる。それに「権威」の方は「再生医学の権威」や「松尾芭蕉研究の権威」など、真に尊敬に値する人を形容する場合にも多く使われる。
 一方でスターリンやヒットラー、現代ではプーチン。彼らのどこに<ずば抜けた実力やすぐれた判断力の累積>があるというのだろう。歴史に浮かび上がるのは、弱い国の人民、民族から流れた血の量ばかりだ。
 

2 コメント

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Unknown (クリン)
2023-03-25 10:40:42
まさにうちのお父さん(今天国にいます)が80年代に使っていた「リベラル」という言葉と2000年代と今では、人々の使い方やの受け止め方がちがいますよね!うちのチットはちょうどこの言葉が変わっていく「端境期」にいたのでむずかしくかんじたようです。今回のお話で、よく分かりました!さすが斉東さま・・✨🐻
Unknown (斉東野人)
2023-03-25 16:39:50
クリン様、コメントありがとうございます。このリベラルというコトバ、昔は人をひきつけたものです。ケネディが人気の頃でしたかねえ。

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