斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

59 【唱歌「朧月夜」】

2019年03月28日 | 言葉
 春は夕暮れ
 清少納言は「春はあけぼの」と書いたが、春ならではの風光は夕暮れ時にも色濃く現れ出るように思える。唱歌「朧(おぼろ)月夜」を口ずさむと、そんな思いを強くする。

 一、菜の花畠に 入り日薄れ 見渡す山の端(は) 霞(かすみ)ふかし 春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて にほひ淡し (高野辰之作詞、岡野貞一作曲)

 文化部の記者だった頃、この唱歌の取材で高野辰之の出生地、長野県豊田村(現在は中野市豊田地区)の高野辰之記念館を訪ねる機会があった。60代半ばの館長さんに教えられるまま、歌の原風景になったという、高野辰之の実家から1キロほど離れた菜の花畑を歩いた。まさしく「朧月夜」の世界だった。一方、鳥取市の岡野貞一生家近くにも、かつて一面に菜の花畑が広がる牧場跡があり、こちらにも取材にお邪魔した。近くに「見渡す山の端」を彷彿とさせる久松山(260メートル)が望まれ、やはり歌の世界そのまま。2人が幼い頃、実際に見た菜の花畑をもとに曲作りをしていたと分かり、妙に感激した覚えがある。
 唱歌「朧月夜」が生まれた大正年間、一面に菜の花畑が広がる光景は珍しいものではなかった。野菜としての出荷目的や菜種油の採取のため、あるいは牧場で牛のエサ用に、さらに水田にそのまま鋤(す)き込んで肥料にしていたこともあったらしい。現在は桜の花と組み合わせて観光ポスターに使われることが多く、桜同様に菜の花畑も健在かと思えるが、作付面積の増減はどうだろうか。今でも春先に出回る野菜として人気は高いものの、菜の花畑自体は毎年少しずつ減っている印象だが--。

 「おぼろ」は日本の春の特徴
 地理学者だった志賀重昴(しげたか、1927年没)は名著『日本風景論』(岩波文庫)に「日本には水蒸気の多量なること」と題して「光線はこの水蒸気の分子を透かして来たり、紅靄(こうあい)濃淡、曙色(しょしょく)特にいっそうの趣を加う」と書いている。朧(おぼろ)、春霞(はるかすみ)、春雨、春陰(しゅんいん)、花曇り。春の宵には南風が吹いて薄雲が棚引き、月は朦朧(もうろう)としてかすむ。「朦朧」と2字重ねれば「ぼんやりとして物事の確かでないさま」だが、もともと「朦」も「朧」も1字だけだと「月の光の薄ぼんやりとしているさま」を意味する(大修館書店『漢語林』)。おぼろに風景がかすむさまは、日本の春の特徴だ。

 二、里わの火影(ほかげ)も 森の色も 田中の小路を たどる人も 蛙(かわず)の鳴く音(ね)も 鐘の音も さながら霞(かす)める 朧月夜 

 里曲(さとわ)は「里曲輪」、つまり里の辺(あた)りの意味。いくつかの家が集落を形成しているのだろう。「火影」は家々からこぼれ落ちる明かり。どの家も夕餉(ゆうげ)の支度中で、カマドや囲炉裏には火が入っていたに違いない。刻一刻と背後の森が黒くなる。鍬(くわ)を肩に、田中の小路をたどり帰る農夫。とっぷりと暮れた山里には、カエルの声と山寺の鐘が響くばかり--。ここでは「田中の小路を たどる人」が効果的だ。自然描写で終始することなく、人の要素を加えたことで、歌に温かみを加えている。一日の労働の疲れと、それゆえの満ち足りた気分。農夫の帰る家には、家族と温かい夕餉(ゆうげ)が待っているのだろう。歌の不思議な安定感、安心感の理由は、夕闇に包まれ始めた春の山里を行く農民の存在である。二番の歌詞から「田中の小路を たどる人も」のフレーズを抜いて読み比べると、その違いが分かりやすいかもしれない。

 伝統的な美意識
 同じ情景描写でも、二番は「里わの火影」「森の色」「田中の小路を たどる人」「蛙の声」「鐘の音」と列挙されている。「枕草子」など日本文学伝統の「もの尽くし」と呼ばれる修辞法、レトリックである。もう一つ、列挙されたものが「火影」「森の色」「たどる人」といった視覚要素から「蛙の声」「鐘の音」といった聴覚要素へと変化する点。「かわず」は春の季語だが、特に「かわず鳴く」は「古今集」の昔からしばしば和歌に詠まれてきた。遠く霞んだように聞こえる鐘楼の音(ね)には「鐘朧(かねおぼろ)」という春の季語もある。ここでは聴覚要素も季節感に訴える。言い遅れたが、民家からこぼれ落ちる火影も「燈朧(ひおぼろ)」といって俳句の季語だ。
 高野辰之は文部省音楽編纂委員、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授として唱歌の作詞ばかりが知られるが、専門は国語・国文学で博士号を持つ。特に浄瑠璃研究で業績を残した。「朧月夜」の詞ににじむ確とした美意識は、日本の伝統文学に裏打ちされたものだ。

 漱石「三四郎」にも登場した岡野貞一
 やはり東京音楽学校教授だった岡野貞一は鳥取市生まれ。幼くして父を亡くし、貧困のうちに成長する。慕っていた姉に従って14歳でキリスト教の洗礼を受けた。音楽との出会いは、だから教会の讃美歌。東京に出て音楽学校の助手になってから40年間、日曜ごとに本郷中央教会でオルガンを弾き、聖歌合唱を指導した。教授に昇進し、数々の唱歌を世に送り出してからも、そうと知る信徒は少なく、尋ねられても無言で苦笑するばかりだったという。
 夏目漱石の小説「三四郎」に、こんなくだりがある。作家の阪田寛夫が短編「朧月夜」に書いている。短編の終わり近く、教会の外で美禰子を待つ三四郎は、讃美歌の合唱を聞く。場面から考えると本郷中央教会のはずであり、であるならオルガンを弾いていたのも岡野貞一のはずだ--と。なにより漱石自身が岡野貞一のオルガン演奏を聞いていたからこそ、この場面が書けたのに違いない。偶然の出会いが興味深い。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「朧月夜」の項を、書き改めたものです)