斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

64 【唱歌「旅愁」】

2019年10月12日 | 言葉
 一、更(ふ)けゆく秋の夜 旅の空の わびしき おもひに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路

 林芙美子の小説『放浪記』は唱歌「旅愁(りょしゅう)」で始まる。自らを「古里を持たない宿命的な放浪者」と呼んだ彼女が、母親と各地を転々とした幼い日々を、歌詞にダブらせて回想する場面だ。学校でこの歌を習いながら「ふるさと」はとても良い所に違いない、と想像する。だがすぐに悲しい事実に気づく。--同級生の誰もが小学校のある、この土地こそが古里だった。なのに自分だけが違う--。もの心ついた時から旅ばかりの身に古里と呼べる地はなかった。「なつかし父母」が待っているわけでもない。つのる、わびしさ。「幼い私の人生にも暴風雨が吹きつけてきた」。そうとまで幼心に感じたという。
 林芙美子など多くの人に愛唱された「旅愁」は、明治40年発行の音楽教科書『中等教育唱歌集』に掲載されて世に出た。作詞は犬童球渓(いんどう・きゅうけい)、作曲はアメリカ人、j・P・オードウェイ(1824-80)。球渓は当時29歳、旧制県立新潟高等女学校の音楽教師だった。原曲は「夢にも見る家庭と母」という題で、詞もオードウェイの作。ここからメロディーだけを拝借した。つまり「旅愁」の詞は翻訳ではなく球渓の創作である。ちなみに『中等教育唱歌集』には計33曲が収められ、メロディーはすべて外国産というユニークさ。<幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風>で始まる、もう一つの球渓の代表作「故郷の廃家」も、初出はこの教科書だった。当時の唱歌には「埴生の宿」や「庭の千草」「夕空晴れて」など外国産メロディーの名歌が多い。

 球渓は熊本県人吉(ひとよし)市の出身。本名は信蔵(のぶぞう)。「球渓」は古里の川、球磨(くま)川渓谷に因(よ)る。熊本県内で小学校教師の後、県の援助で東京音楽学校(現在の東京芸術大学)へ入学。やはり小学校教師だった長兄が東京行きを熱心に勧め、資金援助を約束してくれた。球渓24歳の初夏5月。上京を前に自宅裏山にクスノキを独り記念植樹し、前途に決意を固めた。ところが入学4か月後、その長兄が急逝してしまう。一転、写譜のアルバイトに追われる毎日になるが、頑張り抜き、音楽のほかに国語の教員免許も取っている。
「音楽でも言葉を大切にしなさい」
 球渓の口癖だったという。国語の授業では源氏物語や古今集を講じた。詩情あふれる歌詞の理由である。

 新潟高女での教師生活は明治39年1月から41年4月までの2年3か月と短い。この間「旅愁」や「故郷の廃家」といった代表曲を作り、結婚もしている。この後、晴れて熊本県立第一高女へ異動となった。むしろ充実した新潟時代であり、鬱屈した心情を吐露する「旅愁」と対極の印象がなくもない。実は球渓は新潟高女の前に、つまり音楽学校を卒業してすぐ兵庫県内の旧制中学へ赴任している。「旅愁」に込められた強い望郷の念には、この中学での出来事に因るところが大きかった。

 二、窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遥(はる)けき彼方(かなた)に こころ遊ぶ
恋しやふるさと なつかし父母 思ひに浮かぶは 杜(もり)のこずゑ


 オルガンを弾き始めると、途端に教室内が騒然とし始めた。床を踏み鳴らす生徒がいた。ヤジが飛ぶ。無言の生徒たちも手で机を叩いた。
「西洋音楽は軟弱だ!」
 何人もの生徒が叫び、青年教師は立ち往生した。胸をふくらませて臨んだ犬童球渓の初授業。生徒たちを突き動かしていた時代の空気も見逃せない。赴任前年に日露戦争が勃発、赴任した明治38年は国を挙げて戦勝気分に沸いた。音楽教師というだけで排斥運動に遭ってしまった球渓。1年足らずで最初の赴任校を追われ新潟の女学校へ。熊本から見れば新潟は兵庫のずっと先であり、それも赴任は雪降りしきる1月。「旅愁」の歌詞そのままに、挫折感に打ちのめされての2度目の赴任だった。望郷の思いが唱歌として結晶したのが「旅愁」なのである。歌詞二番最後の「思ひに浮かぶは杜のこずゑ」は、希望に燃えて植樹した裏山のクスノキを指すのだろうか。

 県立熊本高女への異動は明治41年。大正7年、球渓41歳の春には古里の郡立人吉実科高等女学校へ移った。熊本に帰ってからも創作意欲は旺盛で、作詞・作曲した歌は200曲以上に及び、盛んな創作は生活の充実ぶりをうかがわせる。人となりについては人吉の郷土史家、種元勝弘さんが1986年に出した本『犬童球渓伝』に詳しい。
「人さまとは違った生真面目さがあったようです。冗談など言う人でなく、静かなことが好きで‥‥楽しみといえば、歌うこと、ものを思うこと、書くことであったようです」(みの夫人)
「謙虚、簡素、質実‥‥芸術家にありがちなクセは一つも見られなかった」(人吉高女時代の同僚)
「授業は厳しいが、ふだんはとても優しかった」(教え子たち)
 典型的な明治人のイメージが浮かぶ。

 昭和10年、57歳で人吉高女を退職し、念願だったという晴耕雨読の生活へ。ところが、ほどなくして座骨神経痛や胃下垂を患う。不眠症もひどくなり、日に日に球渓の心と体をむしばんだ。昭和18年10月19日、自宅裏山のクスノキにロープを掛け、自ら命を絶つ。享年64。クスノキは、東京音楽学校への入学を控え、若き球渓が希望に燃えて記念に植樹した、あの木だったという。
<難治ノ病床ニ臥(ふ)シテ‥‥徒(いたずら)ニ陛下ノ貴重ナル粟(ぞく)ヲ食(は)ム罪、万死ニ当ル>
 遺書。やわらかな感性で明治の青春を生きた詩人にしては、あまりに考えの硬直した死だったかもしれない。あるいは明治人らしい死と言い直すべきなのか。葬儀や近隣へのあいさつ、遺産処理などを事細かに指示したうえでの、念入りに準備された死でもあった。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「旅愁」の項を、書き改めたものです)