斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

19 【すっごく チョー 全然 &とても】

2017年01月25日 | 言葉
 午後の散歩道で
 天気の良い日の午後は出来るだけ歩くようにしている。冬真っ盛りの今なら風のない穏やかな日を選び、少しでも曇っていれば行かない。気まぐれ気ままなウオーキングだから、平均して週に2度、たまに3度がいいところ。よく行く場所は東京・多摩地区を東西に延びる玉川上水緑道だ。江戸時代初めの1653年、幕府の命を受けた玉川兄弟が急造都市江戸の飲料水用にと、現在の羽村(はむら)市・多摩川取水堰から四谷まで、43キロにわたる導水ルートを完成させた。三鷹市内では太宰治の入水自殺場所が有名だが、この辺りから西は羽村までグリーンベルト状に延びてウオーキングの名所になっている。初夏の芽吹きシーズンも美しいが、葉を落とし切った明るい裸木(はだかぎ)が透明感を演出する冬場は、なかなかのものだ。
 同好の士は多い。ウイークデイの午後だから、たいていは高齢者たち。すれ違って挨拶を交わし合う人はまれで、まるで修行僧のように黙々と歩いている。とはいえ筆者も他人の目から見れば、そんな一人に見えているかもしれない。皆それぞれに足腰の衰えを日々痛感し、血圧の改善を願い、認知症の予防にと、高齢者ならではの理由で歩く。真剣な目的や目標があるから一心不乱に見えてしまうのだろう。
 静かな小道でも、時おり賑やかな声が上がる。女子中学生や高校生たちだ。この道を通学路に使っている学校が何校かある。
「だって、ウチのお母さんはチョーうるさいよ。おまけにケチだもん!」
「うそッ! この間行った時、○○ちゃんちのお母さん、全然、やさしかったよ! おやつにケーキもご馳走してくれて。ケチじゃないよ!」
「そうよ、○○ちゃんのお母さんは、すっごく、やさしい!」
「違うよ! なんて言うのか、ソトヅラがいいのよ。ワタシには文句ばっかり! チョー厳しいンだから!」
 聞くつもりがなくても聞こえてしまう。3人は次の日曜日に遊園地へ遊びに行く計画のようで、親からもらう小遣いの相談らしい。

 強調表現の変化
 若い人は強調した表現が好きだ。「すっごく」の登場は1980年代からだろう。女子の間に男子のような荒い言葉遣いが流行り始めると「すっげえ」を使う女子も多くなった。一方で女の子らしく「すっごく」と言い換える例も目立った。「すごい、すごい!」の形で現在も継承され、賛意賛同を示す好意的な表現として受けとめられている。相手を励ます言葉だから、聞いていて心地よい「すごい!」だ。
 「チョー(超)」が出てきたのは「すっごく」の後。競泳平泳ぎの北島康介選手が2004年のアテネ五輪・男子100メートル平泳ぎで金メダルを獲得し、インタビューで「チョー気持ちいい」と叫んだ。すでに当時「チョー」は若い人の口癖だったが、金メダリストの口をついて出た率直な感想には実感がこもり、チョー新鮮に聞こえた。感動の余韻が残るなか「チョー気持ちいい」は同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれている。
 また、この頃は短期間ながら「すっげえ」と「チョー」がドッキングして「チョーすげえ」や「チョすご」の語も流行ったように記憶する。ただし「超」には「超現実主義(シュルレアリスム)=反現実主義、非現実主義」のように、後に続く語の強調でなく、打ち消して反対の意味にしてしまうべく働くこともあるから、やっかいだ。

 ノーテンキな「全然」?
 それでも「チョー」には「限度を超えた」や「比較を絶している」といった本来の意味があるから、たとえ女子高校生が「お母さんはチョーうるさい」と言っても「お母さんは、うるさくない」というように反対の意味に取る人はいない。それに比べると「お母さんは、全然うるさい」に眉根を寄せる筆者のようなオールド世代は多い。「ぜんぜん(全然)」が否定に先立つ副詞だと説明されなくとも、聞いた途端に違和感を覚えてしまうはずだ。
 もとより女子高校生たち限られた集団で通じる言葉は隠語に近い。世間一般のルールや価値観と異なるからこそ、隠語として存在意義がある。そう考えれば「全然」は肯定型で使うからこそ新鮮味があり、仲間うちの連帯意識を強めるのに役立つのだろう。三省堂の『新明解国語辞典』は<俗に、否定的表現を伴わず「非常に」の意味にも用いられる>と、良し悪しの評価は抜きで用例を説明している。

 芥川龍之介は「とても」に違和感
 コトノハは時代とともに変わる生き物だ。今はまだ不自然な印象しかない「全然」付きの肯定文も、いずれ普通に使われる日が来るかもしれない。現代は違和感なく使われている「とても」という言葉でさえ、大正時代の頃には「全然」と同じように否定をともなう用法が正しいとされていた。
 この「とても大きい」や「とても美しい」の「とても」について、筆者の新聞社時代の同僚だった石山茂利夫さんが自著『裏読み深読み国語辞書』(草思社刊)で興味深いエピソードを紹介している。芥川龍之介は大正13年3月発行の雑誌『随筆』に「雑筆」の題で、大正になってから東京では「とても」が肯定文に使われ始めたと指摘した。違和感を覚えたらしい。「全然」と同じく「とても」は元もと否定文で使われる副詞だった。だが、そう説明されても現代人にはピンとこない。それほど「とても」と肯定文の組み合わせに慣れてしまっている。『岩波国語辞典』(第四版)は「とても」について、まず①で「どんなにしても。とうてい。『――出来ない』『――だめだ』」と否定文を例示し、次に②で「程度が大きいこと。とっても。『――いい』『――きれいだ』」と肯定文を示している。また「本来は、下に必ず直接的・間接的に打ち消しを伴った」と付け加えている。「とても」の語も大正時代には現在の「全然」と同じように、流行り出した用法が芥川の顔をしかめさせていたわけだ。

 言葉は変わる
「○○ちゃんちのお母さん、(とても)やさしかったよ!」
「ワタシには文句ばっかり! (とても)厳しいンだから!」
 平凡な言葉は、女子高校生らしい元気の良い印象を弱める。大げさに言えばコトノハの違和感こそが、ある意味、彼女たちの存在証明かもしれない。