斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

18 【願わくは】

2017年01月20日 | 言葉
 願わくば?
 新年早々、叔母の告別式のため北関東の地方都市を訪れた。式場に隣接するS市はすでに旅立っている筆者の母の出身地で、近在には今も親戚縁者が多い。亡くなった叔母は、母の兄弟姉妹の、末弟の妻に当たる。叔母の死により母の兄弟姉妹とその連れ合いの代は、皆が天国へ旅立ったことになる。
 残された筆者たち“次の世代”の者には、叔母の死により一つの時代が過ぎた、という感慨が強かったのだろう。叔母の思い出話の端はしに、その事実が察せられた。
「私にとっては、ここがイナカでしたから……」
 いくらか感傷的になっていた筆者は小学校に入る前、母に手を引かれてS市へやって来た時の思い出を、隣に座わる同年輩の女性に話した。正午前の控え室にはサンドイッチと稲荷寿司が用意され、式の開始を待つ参列者たちが故人の思い出に話の花を咲かせていた。
「イナカ? 今日は、どちらからですか?」
「東京からです」
「ここはイナカでしょうネ。東京からみれば……」
 女性の言い方が、どこかヘンだった。S市は女性の出身地でもあるのだろう。自分の出身地を東京から来た人間に「イナカ」呼ばわりされて、プライドが傷ついたのかもしれない。窓の外には、よく晴れた冬空と東京近郊の住宅地と寸分変わらぬ光景が広がっていた。
「私にとって、というより私の死んだ母にとってのイナカ、故郷という意味です。幼い頃は夏のお盆の頃、毎年のように連れられて母の実家に来ていました。畑でスイカを採ったことや、小さな川で水遊びをしたことも覚えていますよ!」
 あわてて言い添えた。「母のイナカ」ではなく「私にとってのイナカ」と言ったのが、誤解の原因だったようだ。
「そう、昔は畑ばかりでした」
 誤解は解けた。かつてのスイカ畑は大規模な工業団地に変わり、最近のS市はアウトレットでにぎわう。都心から高速利用の客も増えているらしい。「イナカ」と言われては女性が違和感を覚えるのも当然だったに違いない。
 イナカ=田舎には「都会から離れた所」「人家が少なく田畑の多い所」のほかに「郷里、生まれ故郷」の意味がある(『岩波国語辞典』)。ちょっとした言い方の違い、文脈の違いで思わぬ誤解が生じるから、やっかいだ。そんなことが頭の隅にあったからか、式で住職さんが上げるお経の言葉が、妙に引っかかった。「願わくば」と言う言葉が頻繁に出てきたことだ。
 
 正しくは「願わくは」
 叔母の家は浄土宗で、寺の住職さんは50年配の女性だった。
「お寺さんも今は後継者難らしいですね。あとを継ぐ男性がいないので、寺の娘さんが実家の住職を継いだようです」
 筆者にとっても女性の住職というのは初めてだが、さきの待合室で従兄弟からそんな話を聞かされていたので違和感はなかった。細くとも高い声だから、お経の文句はよく聞き取れた。
 読経がテンポよく進む。仏の教えを唱えて故人の冥福を祈ることがお経の目的だから、神仏にお願いする件(くだり)が多い。そこで、お経の中に「願わくば」の語が頻繁に登場する。「願うことは」の意味だ。だが「ば」と濁るのは正しい日本語ではなく、正しくは「願わくは」で「は」は濁らない。手元の『岩波国語辞典』(第四版)は<「願わくば」は誤り>と断じている。とはいえ言葉は生き物であり、時代とともに変化する。厳密には誤りでも使う人が多くなれば、その用法が正しいことになる。『大辞林』(三省堂)は<「願ふ」のク語法に助詞「は」のついたもの。「願わくば」とも>と説明している。「願わくば」の方も現在は広く許容されていることが分かる。

 お経の「ば」と聖書の「は」
 ちなみに「ク語法」とは、動詞や形容詞の語尾に「く」を付けて「○○すること」という意味に名詞化する用法。同類には「惜しむらくは」(おしまれることは)や「すべからくは」(すべきことは)、「望むらくは」(望むことは)などがある。有名なのは平安時代末の歌人・西行法師の<願わくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月(もちづき)のころ>の歌だ。奈良・平安の昔にさかのぼる語法のうえ分かりにくさもあり、誤用の例は多数にのぼる。要するに「願わくば」は、眉を顰(しか)めて排すべき言葉だとは言い切れない。
 信頼性にも正確性にも欠ける筆者の印象によると、仏教のお経では「願わくば」と濁る場合が多く、キリスト教の聖書では「願わくは」と濁らないように思えるが、どうだろうか。漢文学者は国文学者の親戚(?)でもあるし、漢文調のお経が「ば」で翻訳文の聖書が「は」では逆転しているようで、納得しにくい。ちなみに浄土教の主要経典である「観無量寿経」の漢語文を『浄土三部経(下)』(ワイド版岩波文庫)で調べてみると、この語はすべて「願わくは」と濁らずに正しく記載されていた。

 時代で変わる語、変えては早計な語
 言葉の使い方に厳格なNHKは、放送用語として「願わくは」で統一しているようだ。言葉は時代により変わるから、どちらの語で統一するかを決めるのは微妙で難しい作業だ。よく例えにされるのが「ら抜き言葉」である。NHKは、画面の話し手が「ら抜き言葉」で喋っても同時に字幕で「ら」を入れ直して流している。丁寧な姿勢に感心させられる。
 ただ、そろそろ「ら抜き言葉」は許容されても良いのではないか、とも思える。「ら」抜きで使うときは必ず「可能」の意味になる、というのが理由だ。例えば「見られる」には「(誰かに)見られる」=受け身、「(誰にでも)見られる」=可能、「(王様も)見られる」=尊敬語、「(自然に)見られる」=自発の意味があり、それらのどれに当たるかは文脈いかんで判断しなければならない。ところが「見れる」は可能の場合に限られ、字数も「見られる」よりシンプルだ。より正確に、より簡単に表現出来るなら、使用は可とされるべきだろう。
 では「願わくば」はどうか。最近は「願いが叶(かな)うならば」の意味で、つまり仮定形の「○○ならば」や「××すれば」の「ば」と同じように使われている。「願いは」よりトーンが強い。お経の場合、意味が少し違ってしまうようにも思える。