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潮汲坂について

2016-09-11 08:25:04 | 日記
 横浜ミナトマプに基づき、JR石川町駅から元町ショッピングストリートを歩いていくと厳島神社の鳥居を見過ごし初めての丁字路が潮汲み坂でありました。「横浜元町140年史 編著者 元町の歴史編纂委員会 発行 杉島和三郎」によるとによると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 坂の名の由来ははっきりしないが、文字通り、山手の丘に住む住人が塩を求めて海水を汲みに降りた坂と考えるのが普通だろう。戦災で焼けるまで、この坂の両側に女学校(略して横浜高女、いまのフェリスの前身)があった。横浜高等女学校の先生だった中島敦は「かめれおん日記」の中でこの坂を転げ落ちるみかんを追う先生の姿を描いている。坂を上りつめ、反対側の坂を下れば元町小学校の正門にでる。とあった。
 一方、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光に、坂の斜面にある学校のふんいきの出た文章が、その女学校の教師であった「中島敦」の書いたエピソード「かめれおん日記」を紹介すれば、潮汲坂が巧まず浮かんでくるのでその一節に「今年の正月のこと、何処かのクラス会で、生徒が三・四人、密柑や煎餅を買い出しに行った。
 学校の前は山手から降りて来る坂になっているのだが、その坂の途中迄、風呂敷をぶら下げて買い出し係りの生徒等が上って来た時、一人のもっていた風呂敷が解けて、中から密柑がこぼれた。二つ、三つ、四つ・・・・七つ、八つかなり急な坂とて、鮮やかな色をした密柑が続々ところがり出した。その生徒は思わぬ失策に、ひどく顔を赤らめ、風呂敷を結び直すのがやっとで、転がる密柑を追いかけるどころではなかった。
 学校以外の人々の往来も相当にあるので、一寸恥かしかったであろう。丁度その時坂の上に立っていた吉田は、之を見るいなや猛烈な勢いで駆け下り始めた。小石を蹴飛ばし、砂利で滑りそうになり、つんのめりそうになり、途中に立つ生徒を突き飛ばして、短足の彼は、背中を丸くして、密柑を追いかけた。一度転んだが直ぐに起き上がり砂も払わずに又駆け出し、到頭十五、六の密柑を悉く拾い上げ、坂の片側の溝に転げ落ちるのを防いだのである。
 生徒等も通行人も呆気にとられて立ち止まり、彼の猛烈な勢いに見とれていた。吉田は密柑を手に持ち、ホケットにも入れて、『みんなポーと見とっちゃ駄目やないか』と生徒等に叱言を言いながら、又登って来た。」(「かめれおん日記」)であります。この坂が 「潮汲坂」であろうが、「潮見坂」であろうが、どちらでもよろしい。このような小さな事件をもひとつの歴史として、この坂は生きているのである。とあり由来には触れていなかったことを記述し、併せて投稿いたします。

(本町本通りにある潮汲坂表示)

(下校する女子生徒)

(坂の途中ね様子)

(同じ)

(同じ)

(坂の上り口)

(同じ)

(上り口を上から)

(町案内版)

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