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極楽寺切通しについて

2017-07-01 08:29:45 | 日記

 極楽寺切通しについて「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、次のようなことがらの記述がありました。古典文学史上に名高い「十六夜日記」は作者の阿仏尼が鎌倉を訪れた時の記録です。「日記」には京からの道中、歌枕に触発されて詠んだ歌や、鎌倉での暮らしからにじみ出る都への望郷の思いがちりばめられています。しかし、阿仏の鎌倉下向の本当の目的は、見物遊山でも歌枕を尋ねての旅でもなく、裁判のためでした。
 時代は、「関東紀行」の作者が鎌倉を訪れてから、すでに半世紀近く経過しています。阿仏を迎える鎌倉では、幕府トップが頼経、頼嗣父子の摂家将軍から宗尊、惟康の宮将軍へと引き継がれ、執権も経時から弟の時頼、さらには長時、政村を経て、八代目時宗の代になっていた。
 女の旅と言っても実は、御年60歳に近い阿仏の道中は一人旅でありません。「十六夜日記」の文脈をやや子細に分け入ってみると、出発前に阿闍梨の君なる山伏をしている息子が登場します。どうやらこの旅の案内人なのです。この阿闍梨の君は道中、大井川を渡り宇津山を越えるあたりでも再び文中に登場して、しっかり案内役を果たしています。他に三河路では、八橋で泊まりましょうと提案する「人々」が出てくし、天竜川の渡しでは、「供なる人」まで登場します。
 どうやら、阿仏一行は総勢4、5人と結構賑やかな顔触れなのです。しかも阿仏は京の出口として知られる粟田口までは牛車に乗っていて、そこで車を返しています。以後の道中も馬を乗り継いでいたとみる研究者もいます。高貴な生まれとはいえないまでも、やはり、京歌檀の名門の名に恥じないご一行なのです。
 さて、阿仏とは、そもそもどんな女性なのでしょうか。実は、彼女の氏素性ははっきりとはわかっていません。生まれはあくまでも推定です。実の父母の名もまた不明のままです。佐渡守をしていた貴族の養女となって公家社会に入り、初め、天子の姫君に仕えて四条と名乗っていましたが、貴族の出ではなさそうです。しかし、持ち前の勝ち気と才気を武器に、当代屈指の歌壇の名門、藤原為家の下で秘書として仕えているうちに、男女の仲になったことから運が開けました。為家との年の差は25歳ほどひらいており、為家50の半ば、阿仏は30に届いていたらしいのです。側室になったときには、すでに前夫との間にできた2人の子連れの身でしたが、阿仏は為家との間に新たに3人の男子をもうけ、藤原家の立場をゆるぎないものとします。
 為家の家系は祖父が俊成、父が定家と三代にわたる歌道の超エリートとして知られていました。為家には本妻との間にすでに為氏、為教という2人の後継者がいて、しかも、長男の為氏は阿仏と同年配でした。為家が78歳で無くなったと、遺産相続の問題が起きることは当然の成りゆきでした。為家は、亡くなる少し前に長子為氏に譲る予定の所領の一部を阿仏との子為相に遺しますが、これを認めない為氏を相手どって、未亡人阿仏の闘いが始まったのです。
 「十六夜日記」は全体が四部構成で、その一部で、阿仏の裁判にいたる経緯と鎌倉に下る事情を明快に述べています。
 「さても猶 東の亀の鏡に映さば 雲らぬ影も顕はるゝと」
 亀の鏡とは、古来、亀の甲羅を焼いて吉凶や正邪を判断した事故を指します。京の朝廷にはすでに裁定の力はなく、阿仏は為氏横領の事実を関東の新政権、鎌倉幕府に訴えるしかなかったのです。旅日記の題名にも固い決意がこめられていたのです。旅立ちの十六日は前日十五夜よりも月の出が遅れます。ためらいがちに出る月です。こころ進まずためらいがちの旅立ちをそのままの本の題名として、ただならぬ才気を感じさせるネーミングです。
 第二部は紀行文、第三部は鎌倉での暮らしとなっています。さて、その阿仏の鎌倉入りに入りましょう。ヒントは「はるばる浜路を行く」だけです。はるばる浜路を伝って行けば、腰越を抜け稲村ケ崎に突き当ります。やはり、稲村ケ崎を越えたのでしょうか。
 しかし、滞在地は「月影の谷」です。月影ケ谷は昔も今も極楽寺地区にあり、当時は鎌倉の外になります。内側の由比ケ浜に出るには稲村ケ崎に連なる霊仙山を越えねばなりません。そんなに不便な土地に、尼御前とはいえ京歌壇の女あるじの阿仏がなぜ住むはめになったか。「日記」には何の説明もありません。
 ただし、極楽寺の切通しが完成していれば話はべつです。稲村ケ崎の手前の七里浜から谷沿って入って行けば比較的容易に極楽寺まではたどりつけます。そこに切通しができれば、それを抜けると目の前は由比ケ浜です。稲村の岩壁沿いに危険を冒してまで越える必要はありません。
 極楽寺はすでに建立されていました。切通しは完成していたのでしょうか。極楽寺の創建は1259年(正元1)、阿仏が下向する20年も前のことです。開基は三代執権泰時の弟で北条一門の有力武将重時で、開山には僧忍性が京から招かれました。阿仏の鎌倉入りのときはすでに切通しは完成していた可能性が高いのです。しかも阿仏の滞在先は極楽寺近くの月影ケ谷です。切通しの開通が先きで、その後、極楽寺周辺にも人家が建つなど開発が進んだと考える方が自然でしょう。と言う記述がありましたので、投稿いたします。
 なお、訴訟は結局のところ、10年裁判のすえ阿仏の息子為相の勝訴に終わりましたが、当の阿仏はすでにこの世のものではありません。また、阿仏の訴訟に賭ける執念と活力は息子たちに引き継がれました。為相、為守兄弟は冷泉家を創始して、京と鎌倉往復するうちに、歌道師範として双方に重きをなし、冷泉家は、古書や家伝書、写本などを貯蔵し続けました。為相は鎌倉で客死し、浄光明寺に眠っています。との記述がありましたことを申し添えます。

(江の島電鉄 極楽寺駅からの現在の極楽切り通し 一般道の変身)


(極楽寺の表示版)

(総門からの本殿)

(極楽寺境内)

(鎌倉十井戸の一つ星の井の表示版)

(現在の切通しは、一般道の変身)

(同じく現在の切通しは、一般道の変身)

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