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代官坂(箕輪坂、ヘフト坂)について

2016-09-03 08:18:48 | 日記
 横浜の坂一覧図に基づき、山手本通を港の見える丘公園に向っていくと代官坂の道路標識がありました。「横浜本町140年史 編著者 元町の歴史編纂委員会 発行 杉島和三郎」によるとによると次のような記述がありましたので、投稿いたします。1丁目と2丁目の間を車も通れる緩やかな坂がある。この坂を「代官坂」地元では「お代官坂」ともいっている。坂の中腹に、元町の旧家石川家の屋敷がある。開港時、石川家の当主は11代石川徳右衛門で、横浜村の名主であった。のちに町惣年寄になるが、この第11代を含めて石川家の当主が幕府の「代官」であったことはない。だが、元治元年ごろ、幕府が浪人の取締を強化した際、石川徳右衛門宅に代官が立ち寄ったことから、石川家を通称お代官と呼ぶようになった。坂の名もそれに発している。
 代官坂の名で呼ばれるようになったのは、明治17年山手居留地の町名改正のときからで、それ以前は箕輪坂(三ノ輪坂)と呼ばれていた。箕輪坂の名の由来は、「この本の”元町史跡散策”に」山手の丘を越えて北方・本牧へ行く道で箕輪坂と称していましたが、坂の途中この地に横浜村名主石川右衛門が居住していたことから、代官坂と呼ばれています。箕輪家からは久良岐郡郡長を務めていた箕輪三郎も出ている。
 一方、この坂をヘフト坂あるいはヘキ坂と呼ばれたこともあつた。山手が外国人居留地になったとき、蘭人「ノールトフーク・ヘクト」がこの坂の周辺を数ブロック借りて、そこに自分の居邸を建てたことがある。そこへ上る坂を自力で整備したところから、地元民の中でヘフト坂またはヘキ坂と呼んだ。ヘフトは「ゲーテ座」をつくった人としても知られている。
 元街小学校や上野町、本牧へ通ずる代官坂トンネルが開通したのは、昭和7年7月である。

(代官坂付近の見取図)

(石川町駅側の代官坂標識)

(本町本道り入口の代官坂標識)

(坂道の中間付近)

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