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鎌倉五山第二位円覚寺について

2017-04-29 20:46:28 | 日記
「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 JR北鎌倉駅をおりると、そこはもう広大な敷地をもつ円覚寺の寺域です。臨済宗円覚寺派大本山・瑞鹿山円覚興聖禅寺「蒙古襲来」という空前の国難が収まった弘安5年(1282年)鎌倉幕府八代執権北条時宗は、鎮護国家(仏教により国を守ること)への思いと、戦死した敵味方両者の菩提を弔うために円覚寺建立を発願し、渡来僧、無学祖元を開山として創建しました。
 「円覚」の寺号は、寺地選定の際、鶴岡宮の神が白鷺となって、この地に降り立ち、土地を掘ったところ石櫃が出土し、中から「円覚経」という経典が出てきたことに由来します。円覚寺の門前、JR横須賀線と鎌倉街道の間に小さな池があります。池の名は白鷺にちなんで白鷺池、かつては現在の倍以上の大きな池で、中央にかかる橋を隔てて、左右対称の宋風様式を示す風雅な造りだったといいます。まず、この池を望んでから、円覚寺を参詣することにしましょう。
 境内入口に立つと急峻な石段があります。石段の上に総門があり、総門をくぐると、「円覚興聖禅寺」の額の掛る僧銅不羈の堂々たる三門(山門)が聳えています。円覚寺の象徴ともいえる三門ですが、五山第一位の建長寺の三門より二割ほど小さく、三門楼上には、観世音菩薩、羅漢が安置されています。
 正面に仏殿があり、仏殿の左を進むと、右側に方丈。さらにそのまゝなだらかな坂道を歩くと妙香池があり、池に沿って左に折れると、門の向こうに国宝・舎利殿があります。内陣には、源実朝が宋から請来した仏舎利(釈迦の遺骨)が納められていますが、ふだんは非公開のため、門の手前から唐様式の美しい屋根を眺めるのみとなります。すぐ先には、多くの参詣者が訪れる佛日庵があります。佛日庵は、現在、境内に十八ケ寺ある塔頭(支院)の一つですが、開基、北条時宗の廟所です。ここで一服、抹茶をいただき、お参りしてから、また散策するとよいでしょう。
 境内にはたくさんの見所がありますが、なかでも見逃せないのが鎌倉三名鐘の一つである国宝の「洪(おお)鐘(かね)」でしょう。九代執権貞時が鋳造させたという鎌倉時代を代表する梵鐘です。などと言う記述がありました。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のような事柄の記述がありました。
 円覚寺は、鎌倉の北西にあって、山ノ内往還より東方の六国見山に向かって入る谷戸と周囲の山陵を寺地とし、西面して伽藍を開く。臨済宗円覚寺派の本山である円覚寺は、中世において鎌倉五山第二位に位した。
 円覚寺は、北条時宗により弘安5年(1282年)12月8日に開堂された。開山無学祖元は大光明澱 (仏殿)に慶讃陞座した。「仏光国師語録」「円覚興聖禅寺開山語録」同日の法語によると、仏殿の本尊は華厳世界の教主毗廬遮那仏であり、その左右に観世音菩薩と十二菩薩、天龍八部が祀られていた。
 円覚寺の創立の趣旨と事始め時期について、わが国の安泰隆昌を祈り、かつは文永・弘安両役における両軍の戦死者の霊を弔おうとしたことは明らかである。また、時宗の国難に対する苦心からすれば、弘安の役以前より逼り来る国難に対して戦勝を祈願して一寺を建立しょうとしたことも考えられる。その何れにせよ、円覚寺創立の実質的な工事は弘安4年(1281年)夏の戦勝以降である、とされた。
円覚寺は、弘安10年(1287年)12月24日に火災炎上した。この火災で三門、仏殿、僧堂、庫院などの中心堂宇を焼失した。また、正応2年(1289年)12月12日条に「円覚寺焼失」と記す。この火災はほかに見えず未詳である。この時期、円覚寺は住持を欠いていた。
生安3年(1301年)8月、北条貞時により円覚寺大鐘鋳造された。現在の大鐘(国宝)がそれで、鐘身190センチ、口径142センチの大きさである。
白鷺池は総門前庭にある方形蓮池の雅称であり、放生池であったと推察される。偃松橋は、江戸時代に左右白鷺池を繋ぐ水路に架かる橋の雅称であった。双池は間を繋ぐ水路に橋を架ける形式が一般的である。それは池の給排水を一系統にするためである。「円覚寺境内絵図」は白鷺池に架かる橋を描かないが、偃松橋の名は南北朝期に遡るので橋を略した可能性がある。
妙香池は舎利殿(正続院)前にある池で、「円覚寺境内絵図」に描かれている。虎頭岩は妙香池北岸に張り出した岩壁である。
応安7年(1347年)11月23日、円覚寺は主要伽藍の三門、仏堂、僧堂、庫院、法堂などを焼失した。主要伽藍は、その後至徳3年(1383年)にほぼ再興されたと推察される。このうち、方丈に関する資料に「円覚寺方丈什物交割帳」がある。この資料は、応安7年(1374年)の円覚寺大火災に再建された新方丈の什物を記すと考えられる。「方丈交割帳」記載順に客殿、小客殿、書院、小書院、囲炉間、小寮、衣鉢閣、同閣炉間、同小寮、中室の什物を記す。などの記述があったので、併せて投稿いたします。

(白鷺池)

(当初白鷺池を渡橋であったが、今は、白鷺池を眺める道となっている)

(圓覚寺を見上げる階段下、中央に見える総門)

(総門)

(山門)

(山門の説明標)

(仏殿)

(仏殿の説明標)

(方丈)

(方丈の説明標)

(百観音霊場)

(百観音霊場の説明標)

(大鐘(国宝)への階段)

(大鐘(国宝))

(大鐘説明標)