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鎌倉五山第一位建長寺について

2017-04-22 08:21:10 | 日記
「マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 JR鎌倉駅から徒歩で、鎌倉街道を30分ほど行くと、建長寺バス停前に「臨済宗五山第Ⅰ位」と記された大きな石碑があります。すぐ後ろに、天下禅林」の額を掲げた西外門が建っています。かつては東外門もありましたが現在はありません。
 門を入って駐車場を横切ると、左手に山号「巨福山」を掲額した総門が見えます。京都の天台宗般船三昧院と言う歴代天皇の御位牌を祀る表門を昭和15年に移築したものです。この門から三門、仏殿、法堂が、一直線上に並んでいます。境内を平らに造成し、左右対称に伽藍配置した造形は、中国の禅宗様式を範としたもので、同じ臨済宗の禅刹でも山や谷の起伏を巧みに取り入れた円覚寺や浄智寺のもつ表情とは違い、異国的な雰囲気・力強さをたたえています。
 さらに進むと、威風堂々とした三門が見る者を圧するように建っています。これは江戸期の安永4年(1775年)に再建されたものですが、その大きさ、風格といい、日本初期の臨済宗の一大道場として君臨した禅刹の意気込みを感ぜずにはおられません。
 建長寺、正しくは「巨福山建長興国禅寺」といい、鎌倉幕府の執権北条時頼が宋の高僧・蘭溪道隆を迎えて開山とし、建長5年(1253年)に創建した臨済宗建長寺派の大本山です。三門の右手、東側の鐘楼に建長7年(1255年)鋳造の鐘(国宝)があり、鐘には蘭溪道隆による「建長禅寺」の銘が浮き彫りにされています。
 最初に建てられた仏殿ですが、創建当時の建物が火災で焼失したため、芝増上寺に在った徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋を正保4年(1647年)に移築したもので、本尊の地蔵菩薩が安置されています。
 建長寺の境内があるこの土地は、かって刑場があり、地獄谷と呼ばれていました。そのため、処刑された罪人を弔い、冥府の救済者とされる地蔵菩薩を本尊とした心平寺という寺院がありました。そうした仏縁を重んじて、建長寺は地蔵菩薩を本尊にしたとのことです。現在の仏殿には、地蔵菩薩のほかに、道教の土地神を守護神とした中国禅宗の習慣を取り入れた伽藍神(本年3月に国重文指定)や千体地蔵菩薩などが祀られています。
 境内の見所はいくつもあります。仏殿の後ろにある法堂(国重文)は、文化11年(1814年)築造の関東最大と言われる木造建築で、法堂後方の唐門(別名 勅使門 国重文)その向こうには方丈、方丈の背後には禅宗様式の庭園があります。境内は方丈の後方一帯の山を含み、年間を通じて多くの参拝者の散策路となっています。などと言う記述がありました。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
建長は鎌倉の北西、小袋坂の北にあって主山勝上巗に向って北東に入り込む谷戸とその周辺の枝谷および山陵を寺地とし、中心伽藍は南西を正面とする。建長寺の開山は宋僧蘭溪道隆、開基は執権北条時頼である。建長寺は山号を巨福山、寺号を建長興国禅寺といい、中世において鎌倉五山第一位に位した。現在、建長寺は臨済宗建長寺派の大本山である。
建長寺は、建長3年(1251年)11月8日に建長寺事始めがあり、2年後の同5年11月25日に蘭溪道隆を導師として、仏殿の落慶供養が営まれた。仏殿は中尊に丈六の地蔵菩薩坐像を安置し、また千体地蔵像を安置していた。
さて、建長5年(1253年)11月の建長寺供養の時に三門、仏殿、選仏場、庫院および住持の住房である方丈はできていたと推察され。その後、建長7年(1255年)2月北条時頼は建長寺の巨鐘を鋳造して、鐘楼に懸けた。その鐘銘(住持道隆題)に『雲斂まり霏開く、楼観百尺。嵐敷き翠掃く、勢諸方を圧す。』とあるのは、二階楼閣門である三門の高大を表現したものである。
正応6年(1293年・永仁元年)4月13日の大地震により、建長寺は最初の火災に遭い中心伽藍を焼失した。また、正和4年(1315年)3月9日、鎌倉大火の飛火により建長寺の華厳塔が焼失し、同年7月9日にも火災があった。
元弘3年(1333年)5月の兵乱によって鎌倉幕府は倒れ、北条氏一門は東勝寺において自滅した。山の内にある建長寺、円覚寺、浄智寺などの禅寺はこの兵乱に安泰であったが、大檀那を失ったことは大打撃であった。
その後、建武中興を経て、建武3年(1336年)11月足利義詮の弟基氏を鎌倉御所とした、足利尊氏は、京都に室町幕府を創設した。北条貞時の代に定められた禅寺五山制度を継続し、中国禅寺の制度を模倣して五山・十刹・諸山の三階級からなる寺格を制定し、それを官寺とみなした。
鎌倉時代末から南北朝期の建長寺は五山第一位の寺格を有し、中国禅僧の指導のもとに盛期の宋朝風伽藍を誇り、優れた禅僧を多く育成した。
主要伽藍は、南北中軸上に総門、仏殿、法堂、礼間、得月楼を配し、仏殿前方左右の回廊に接して大徹堂と庫院を相対して建て、三門前方の左右両辺に浴室と西浄を置いた左右対称の大陸的配置であった。などと言う記述がありましたので併せて投稿いたします。

(「天下門」ここが最初の入口)

(総門)

(総門について)

(仏門)

(仏殿)

(仏殿について)

(樹齢1500年中国から)

(柏槙の木について)

(龍王殿)

(龍王殿について)

(鐘銘(住持道隆題))

(梵鐘について)

(庭園)

(庭園について)

(天園ハイキングコースへ繋がる)

(展望台)

(相模湾 天気がよければ遠くは富士山を眺められます。)