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時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(83)

2018年11月20日 | 『弟子規』日本語解説
能親仁 無限好 德日進 過日少
néng qīn rén wú xiàn hǎo dé rì jìn guò rì shǎo
【解説】能夠親近品德高尚的仁者,學習聖賢學問,就會得到無限的好處。德行就會一天比一天增進,而過失就會一天比一天減少。
【和訳】仁者(じんしゃ)・聖賢(せいけん)に親しみ学び、教えを守り、実践できれば、無限(むげん)の益(えき)をもたらしてくれます。道徳・学問は日ごとに高まり、欠点・過ちは日ごとに減少することができるからです。



●簡単解説:
★聖人君子は少ない現実生活環境では、仁者・聖賢にいったいどのようにして親近しますか。その大切な方法の一つは経典を読むことです。聖賢が子孫である私たちのために、残した経典を読誦することはすなわち聖賢に親近することであって、聖賢と友人になることであります。経典を開けば、聖賢の近くにいることとなります。このようにして「親仁」して、仁義、因果応報の理論、十善などを学び守り、自分自身を救います。自分が助かったら、今度、自分の家庭を救います。家族から、親戚、友人、近隣の人、同郷の人などを、だんだんと、多くの人を助けることができるようになります。一人からはじめ、最後、社会、国家、世界までを救えます。すべて自分自身からスタートさせることです。自分の心から始めます。自分が「今日から、すべての良くない習慣を直します」と大いに決心しましょう。その良くない習慣の中で、一番多くて、一番大きなのは、時間を無駄に使うことです。それで、命、人生が無駄に費やされています。一日24時間でいったい、何をしたのでしょうか。重要でないことばかりしたてはありませんか。本当に自分に一番有益なことをなにもしていないではありませんか。

「親仁」は人生にとって一番大事なことであるのです。ゆえに、『弟子規』に「能親仁 無限好 德日進 過日少」(仁者(じんしゃ)・聖賢(せいけん)に親しみ学び、教えを守り、実践できれば、無限(むげん)の益(えき)をもたらしてくれます。道徳・学問は日ごとに高まり、欠点・過ちは日ごとに減少することができるからです。)と説かれています。
 仁慈の人はどこにいますか。経典にいます。ぜひ、より多くの時間を使って、できるだけ、古の聖賢に親しみましょう。聖賢の書物を読めば、気質が全然違ってきます。本当に決意し、半年でも読み続けば、法楽に満ち溢れる気持ちになれます。一年間も読み続けば、あなたはきっと悟ります。

(下記の内容は浄空法師様の説法によります)

 ★現代の誘惑が実に多すぎます。テレビ、インターネットなどのマスメディアの誘惑は本当に強いものであります。私は一切見ません。新聞・雑誌の誘惑もまったく見ません。私のほうから、これらかのマスメディアの誘惑を拒絶しています。私は、仏法を勉強し始めた最初の何年間、まだ少し見たりしていましたが、それ以降、とくに出家してから、まったく見なくなりました。もう、それらの汚染を受けいれません。しかし、生徒達のなかにも熱心の人がいまして、彼たちは、ネットなどから、世界の重要な出来事を印刷し出して私の所に持って来てくれています。

私は、このようにして、自分自身を守ることができています。

さらに、私は賑やかなところや人の多い場所にも足を踏み入れません。ゆえに、私の生活範囲はとても狭いです。大きな都会のなかに住んではいますが、この都会のどこもあまり知らないのです。唯一知っている道は私の住む所から講経する道場までの道路です。この道だけに比較的に詳しいです。他の道路をまったく知りません。

このようにして、シンプルで単純で生きれば生きるほどよいのです。なぜでしょうか。なんといっても、もし「今日は如何ですか?」と私に聞けば、きっと、「天下泰平です」と答えることでしょう。本当に、なにこともありません。平穏無事穏やかそのものです。もし、マスメディアをばかり接触していれば、きっと、「天下大乱です」となるでしょう。

それがゆえに、私のこの一生の暮らしは、本当に、日々是好日(にちにちこれこうじつ)です。毎日、まったくの太平治世であります。悠々自在です。本当に、この通りです。
そのうえ、私が毎日会う人も皆同じ仏道を修行する人ばかりで、皆善人であります。まさに、『仏説阿弥陀経』が説く「諸上善人倶会一処」(諸上(しょじょう)善人(ぜんにん)と倶(とも)に一処(いっしょ)に会(え)する)のようです。喜ばずにいられません。自由自在を感じずにいられません。

ゆえに、このような社会のなかでも、これほどの太平治世の生活を送られ、善人と一堂に会する喜び時を得られるということは、すべて、自分自身が「一心制(いっしんせい)意(い)」(心を一つにして、意を制する)ができるからです。つまり、一心にして自分の意念を自制・制限して、少しもの悪念邪念を生じさせないようにすることです。だれでも、これをできれば、このような素晴らしい生活を送ることができるでしょう。

★ 仁者・聖賢のような大善人に必ず親近するべきです。なぜならば、近くにいられてこそ、学べるからです。なおかつ、その方に生涯変わらぬ敬意を抱き続けることもとても大事であります。もし、大善人であることを知りながらも、彼を尊敬しないでいれば、その聖賢の方も自然と淡々と接してくるでしょう。いわゆる、「交浅不可言深」(交わり浅くして深きを言うべからず)のお言葉であるように、付き合いが浅ければ、包み隠さず深い話も話してはいけないものです。

 そして、聖賢の教えをむやみに批判してはなりません。比較してもなりません。ある時、私がインドネシアに行きました。そこのイスラム教大学から名誉博士号を贈られ、大学でその授与式(卒業式でもあった)に出席するためです。授与式が終わり、私は校長先生と一緒に会場のホールから出て、大学キャンパスの庭で散歩していました。そこ時、校長先生からある話を聞きました。それは「私たちの大学に『比較宗教学』という科目があります」。私がそれを聞くとすぐ校長先生に報告しました。「宗教を比較してなりません」。校長先生が理解しがたい様子で私を見ていました。

なぜ比較してはいけないでしょうか。私は「どの宗教の教祖も大徳、大智の持ち主であります。私たちの智慧と道徳は、どうしてその方たちと比べることができるのでしょうか。イスラム教大学ではイスラム教を信じています。ここの生徒、先生方、誰一人が、ムハンマドより優れているでしょうか、それとも、イエス・キリストよりも優れている人がいるでしょうか、また、釈迦牟尼仏より優れているのでしょうか。本当です。誰一人も彼たちのような智慧がありません。彼たちのような智慧ももっていなければ、彼たちの道徳とも比べものになりません。それなのになぜ、彼たちの教学を批評できるのでしょうか」と言いました。校長先生もだんだんとお分かりになられたようで、「それでしたら、どうしましょう」?私は答えました。「比較するのではなく、学ぶのです。どの宗教の経典も学びます。なぜなら、彼たちは聖人であって、その大徳・大智がすべて私たちの上にあるから、皆、私たちの先生であります。私自分自身も、仏法を学ぶときには、私は釈迦牟尼仏の弟子であると思います。同時に、私はイエス・キリストの生徒でもあります。私は『聖書』も読みます。さらに、私はムハンマドの学生でもあって、私は『コーラン』も勉強します。私には、勉強する身分のみであって、批評する資格はありません。素直で、老実にこれらの仁者に親しみ、『能親仁 無限好』のように、徳行の高く、智慧のある先輩方の教えを受け入れて、自分の道徳・智慧を成就させます。このような姿勢は正しいです。そのため、学校のこの『比較宗教学』科目の名前を『多元文化の課程』に変えたほうかよいでしょう。多元文化を学ぶべきです。批評するような、比較するようなことをしてはなりません。清浄な心、平等な心、真誠な心をもって、その教えを受けるべきです。そうすれば、自分自身が大きな利益を得ることができます」。

今この時代、交通が便利で、通信手段・情報伝達方法も発達していて、地球は本当に地球村のようになっています。現在地球上でいかなる小さな場所で発生したことも、どれほど小さなことであっても、マスメディアの報道、SNSの拡散などがあれば、すぐさま、全世界の人に知られます。ゆえに、地球を地球村と呼ぶ人がいます。確かその通りです。地球は今、一つの村よりも、一家になったような感じがします。関係が家族のように密接になっているからです。そのため、私たちは、今、改めて、自分たちの「地球家族」を認識しなければなりません。今、この星に住んでいるすべての人類は、私たちの家族であります。

以前、今のような交通手段・通信手段もなく、本当に、「民至老死不相往来」(民(たみ)老(ろう)死(し)に至(いた)るまで、相(あい)往(おう)来(らい)せざらしむ)の通りで、人々は年老いて死ぬまで、隣の村・県や国と一度も往来することがありませんでした。ゆえに、それぞれが住んでいる地域で、それぞれの文化が出来ていました。もちろん、それも当時にとっては、合理的なことであります。現代になると、科学技術が発達しているので、その細々とした各地域・各国のそれぞれの文化を全部繋げて、一つにして、地球全体の文化として変貌させました。これは事実です。私たちはこの事実を受け入れなければなりません。決して、分裂させたり、対立させたりするようなことをしてはいけません。対立、排斥、衝突をすれば、玉石倶(ぎょくせきとも)に焚(た)くという結果になるのみです。これは間違いです。

現在のこの時代では、「私たちは一つの村です。どのようにして団結できるのか」を、や「私たちは一つの家庭です。どのようにして和睦を結び、仲良く付き合い、尊重し合い、敬愛し合い、協力しあえることができるのか」を、講じるべきです。提唱するべきです。すべての宗教もこのことを提唱するできであって、すべての民族・団体もこのようなことを勧めるべきではありませんでしょうか。国家、宗教、民族、団体、皆よく行き来して、互いに訪問して、見学し合い、学び合い、話し合い、文化の中で、生活のなかで、求同存(きゅうどうそん)異(い)(小異を残して大同に就く)をして、異なる点はとりあえず残しておいて、同じところを、皆一緒に勉強して、共に努力してやり遂げましょう。

たとえば、「親を大事にする、目上や師長を尊敬する」について、どの宗教もこのようなことを教えています。すべての宗教は「愛」を説かれています。キリストは世の人を愛しています。神さまも世の人のことを愛しています。アラーは仁慈であります。仏陀も慈悲であります。一文字の「愛」で、すべての宗教を団結することができます。愛がなければ、宗教ではありません。慈悲がなければ、仏法ではありません。

このように、「愛」の心をもって、団結して、共に向上すれば、地球人は幸せになれます。幸福と円満な人生は全人類のものです。どれか一つの民族や団体だけのものではありません。

ゆえに、以前から、私がいくたびもある願いを述べてまいりました。本当に、いつか、そうなりますようにと心から願っております。その願いはこのようなものです。ある日、ある時で、すべての国は一つの大きな宗教大学をお持ちになって、その大学のなかで、すべての宗教がそれぞれ一つの学院・学部を設けていて、それぞれの宗教は一つの大学に集中します。これで、どの宗教の学生も皆同じ母校の出身になります。宗教の違いは、学部の違いだけとなります。皆、同学の身分です。大学授業の中で、『宗教学概論』という科目で、すべての宗教の経典を含ませて、それぞれの重要な部分を紹介するようにします。このようにして、宗教と宗教が密接的に協力、提携しあいます。これは宗教大学です。国にこのような宗教大学があれば、次は、もう一つの大学を作りましょう。それは、「多元文化大学」です。その大学で不同な民族とそれぞれの伝統文化を団結します。

このような願いは本当に実現できれば、その成果は、まさしく、仏経経典の『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』が説くようになります。『大方広仏華厳経』の経(きょう)題(だい)は一つの比喩です。「華」は「花園」、「大きな花園のよう」との意味です。宇宙はまさしく一つの大きな花園であるように、異なる民族や異なる宗教がそれぞれ種類の違う花のようで、ありとあらゆる美しい花々がこの宇宙大花園のなかで咲き誇ります。色彩豊かな壮大な素晴らしい光景です。『大方広仏華厳経』の経題はこれほどの広い心を表現し、示してくださっています。その心は宇宙を広く包み込み、度胸は世界よりもはるかに広いです。この上なく円満で、美しく、幸せなのです。

『大方広仏華厳経』の中だけに円満の倫理、円満の道徳、円満の因果、円満の科学・哲学があるのではなく、他の宗教も、他の民族、中国伝統文化のなかにもあります。ゆえに、このような時代に生まれただから、高い科学技術のある時代だから、ますます、このような方向へ邁進するべきではないでしょうか。この目標に向かって、努力するべきではないでしょうか。そうすれば、この世界を本当に救えることができます。世界を良くしたければ、唯一の道は、宗教の教育と中国伝統文化の教育です。これらは、この世界に安定と平和をもたらしてくれます。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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