終には覚むる 夢の世の中 

組織や団体等には一切所属致しておりませんが、日蓮聖人の法華経信奉者です。日々の所感の記録・備忘録として活用させて頂きます

玉磨かざれば光なし

2014-01-29 05:48:13 | 大切なことの為に
いかなる事ありとも
なげかせ給うべからず

(南条殿御返事) 日蓮


食には三の徳あり。
一には命をつぎ、二にはいろをなし、三には力をそう、
人に物をほどこせば 我が身の助けとなる・
譬へば人のために火をともせば・
我がまへあきらかなるがごとし、

悪をつくるものをやしなへば・命をますゆへに気ながし、
色をますゆへに眼にひかりあり、
力をますゆへに・あしはやく、て(手)き(利)く、
かるがゆへに食をあたへたる人・かへりていろもなく・
気もゆわく・力もなきほう(報)をうるなり

(白米一俵御書) 日蓮


~<一枚の葉っぱから>~ Mr.mount-hat 

以前、ネパール人の医師と共に登山する機会を得ました。
彼は自己紹介のとき、登山メンバー一人ひとりに向き合い
「ナマステ」と言いながら合掌礼をなさっていました。
その仕草に興味を覚えた私は、彼の後ろについて登って参りました。

途中「タラヨウ」の木を見つけたので、
この木の葉は紙が無い時代に経文を書きつけて残したことから、
仏教には大変縁の深い木ですと云うと、

「ネパールでは今でも経文が書かれた古い葉が残っていますし、
メモ代わりにして今も使っています。」

と云う返事が返ってきたので大変に驚きました。

親しくなったその医師に、再び

「先ほど為されていた合掌礼とナマステという言葉は、
貴方のお国ではどなたでもなさっているのでしょうか?
そこにはどのような意味が込められているのですか?」

と尋ねましたら、彼はこう仰いました。

「このナマステというのは、想像もつかない程遠い昔から
為されていますが、今は気軽に お早う御座います・こんにちは・
はじめまして・どうぞ宜しく・・といった意味合いの挨拶の言葉として
用いられます。
私の国のみならず、インドでも大部分の方がナマステ、と云う
挨拶をなさいます。
本来の意味は、日本語になおすと難しいのですが、
日本の仏教で唱える南無妙法蓮華経の南無と同じ意味です。」

と答えられたので、タラヨウのことといい二度驚かされました。

帰山したその晩、記憶を辿って時間をかけて書庫を探し、
以前に読んだ「多羅葉(タラヨウ)」について記されている本を
やっと見つけたときには本当に嬉しく思いました。

「今此の妙法蓮華経は天竺亀滋国の沙門鳩摩什三蔵、
直に阿難自筆の多羅葉の法華経を 霊山浄土の結集堂より
伝へ来て之を翻訳す」

(通訳)
この妙法蓮華経は亀滋国の僧・鳩摩什三蔵が、
お釈迦様のお弟子の阿南が多羅葉に書き記したという法華経を、
長安・・今の西安市に持参してきて、
サンスクリットから漢文に翻訳した。(法華本門宗要抄)

注:亀滋国・・・西域の古国。今の中国新彊省クチャ地方。
         唐時代にウイグルに併合される。


お釈迦様が御入滅なされた後、最初の経典結集の頃は
多羅葉などの葉っぱに書き付けて残されたのでしょうか。
長期保存はできませんので、書いては口に読み・口伝えに膾炙し・
石や板・動物の皮・やがては紙などに書き残されたサンスクリットの
経文が、
亀滋国から長安に亘ってきた僧・鳩羅摩什三蔵によって漢訳され、
時を経て今、
私たちもがその妙法蓮華経を拝読させて頂いていることを思う時、
仏の御心と言葉を未来へ伝え残そうとなされた修行僧達の
熱い情熱・執念の思いが伝わって参ります。

遠い昔から「ナマステ=帰命します」という合掌礼が
日常に行われている国で、一人の修行者が

「私はあなた方を決して軽蔑致しません。
あなた方は決して軽蔑されることはありません。
何故ならあなた方は、将来仏様になられる方々だからです」

といって合掌礼拝して歩いていた話が伝わっています。
その修行者には「常不軽」という綽名がつけられました。
日常誰もが行う合掌礼が、何故この修行者に限っては
軽蔑しない者とか軽蔑された者という意味の「常不軽」
という綽名をつけられ呼ばれたのでしょうか。

ナマステと言いながら合掌礼をする国の人々が、
同じ合掌礼をする修行者を見ても誰も気にも止めないでしょうが、
ナマステに付け加えて
「私はあなた方を決して軽蔑致しません。
あなた方は決して軽蔑されません。それは、あなた方が将来、
仏様になられる方々だからです」
と言われたらどうでしょう。

軽蔑もされていない衆生が、どこの馬の骨かも分からない
薄汚い格好の修行者からいきなり言われるのですから、
衆生は気味悪がり、修行者にサダー・パリブータ(常不軽)と
綽名を付け、終いには石を投げつけ追い払ったりもしました。

それでも衆生は必ず仏になる日が来ると確信していた
修行者は、罵詈打擲され・投石されながらも尚

「私はあなた方を決して軽蔑致しません。
あなた方は決して軽蔑されません。
その訳は、あなた方は将来・仏様になられる方々だからです」
と言い続けたのです。

それは、衆生を尊敬して礼拝する以外に菩薩行は無いという
確信に基づいた行為であったからこそ、
何度でも・どんな目に遭っても止めることは無かったのです。
誰もが帰命しますと気軽に挨拶を交わしている中での此の行為。
これは、相手を尊敬する、ということを際立たせるものであり、
物語として書き伝えた人物が思いを込められた部分ではないかと
推察致します。
これを漢文に翻訳した鳩羅摩什三蔵は
「われ深く汝等(なんだち)を敬う、敢えて軽慢せず」
としています。
当時の中国では、ネパールやインドでのナマステの合掌礼は
なされていませんでしたから、
合掌するだけでも敬う姿勢となった訳です。

人々は仏性を求めることを忘れ、小さな我見に囚われて
地獄(解決の方法を見出せず・どうしたら良いのかと悩み苦しみ)
餓鬼(金銭や物を貪り)
畜生(弱い者を利用し)
修羅(すぐに怒りを表して自分を大きく見せようとしたり、
    強者には諂い)
人 (時に友人であると偽り)
天 (時に貴方の味方だと嘯く)

・・そのような一生を繰り返します。そんな人間の中にも、
本来具わっている南無妙法蓮華経という仏を内に見る。
その仏性を、
己の菩薩行を通して人々に覚らせようとなされたのでしょうか。

鳩羅摩什三蔵は、
高慢ちきな衆生に追われても追われても、その追う人々を敬い、
決して軽んじませんと言い続けた常不軽と綽名された修行者に、
過去世のお釈迦様の姿を御覧になっていたのではないでしょうか。

常不軽や鳩羅摩什三蔵の振る舞いを学び、
道を求めるには決して諦めてはいけませんよ、という声を
聞いたように感じました。



夫れ水は寒積れば氷と為る
雪は年累なつて水精と為る
悪積れば 地獄となる
善積れば 仏となる

(南条殿女房御返事) 日蓮

わづかの事をへつらひて、
心うすくて悪道に堕ちて
日蓮をうらみさせ給ふな

(兵衛志殿御返事) 日蓮

智者たる上、二百五十戒かたくもちて
万民には諸天の帝釈をうやまふよりも・
うやまはれて・
釈迦仏・法華経に不思議なり、提婆がごとしと・
おもはれまいらせなば、
人目はよきやうなれども後生はおそろし・おそろし。

(上野殿御返事) 日蓮




金子みすずの「明るいほうへ」が好きだ。
実生活では苦難を抱え・真摯に現実に向き合って生きた
彼女の言葉だからこそ、胸に尚迫る。

明るいほうへ。

植物は太陽に向けて顔を向けて丈を伸ばす。

日影を好む植物であっても、やはり陽光は必要不可欠の
栄養分。

どうせ伸ばすなら、明るいほうへ伸び伸びと。

明るいほうへ。明るいほうへ。


有り難う御座います!

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