終には覚むる 夢の世の中 

組織や団体等には一切所属致しておりませんが、日蓮聖人の法華経信奉者です。日々の所感の記録・備忘録として活用させて頂きます

南無阿弥陀仏 無間地獄

2016-06-09 05:28:01 | 大切なことの為に
又人をも・わずらはさず・我が心もなを(直)しく

我とはげみて善根をして候も 仏にはならぬ事もあり、

いはくよきたねをあしき用にうえぬれば たねだにもなき上かへりて損となる、

まことの心なれども供養せらるる人だにも、あしければ功徳とならず、

かへりて悪道におつる事候  日蓮

 

 
Mr.Mount-hat氏のお便りから
 
 
<念仏宗><浄土宗>とはどの様な宗派か
 
 
念仏宗は中国において派生した宗教です。主な祖師達をあげれば
 
・開祖 
 
曇鸞(どんらん)(476~542年)は、中国南北朝時代の浄土宗の祖であり、
北天竺(インド北部)の菩提留支三蔵に会って観無量寿経を承(う)け、
阿弥陀仏の絶対他力により極楽往生が出来ると説いて念仏を弘める。
 
・二祖 
 
道綽(どうしゃく)(562~645年)は、当時涅槃経の研究で高名をあげていたが、
ある時、曇鸞の刻んだ碑文を見て念仏に帰依する。
 
・三祖 
 
善導(ぜんどう)(613~681年)は、道綽に師事して無量寿経を信仰するに至り、
人人の盛んに南無阿弥陀仏と唱えることを勧めていたが、後についに気が狂い、
弥陀(みだ)の来迎(らいごう)を願うあまり、寺院の前の柳の木で自殺を図るも
日照り続きの地面に落ち腰の骨を折って、二週間の長きにわたり苦しみ抜いたあげくに
息絶える。
 
以上が中国における念仏宗(浄土宗)の祖師達です。
 
 
この中国の念仏宗の影響を受けて日本で浄土宗(念仏宗)を開いたのは法然(ほうねん)です。
法然は十五歳で比叡山延暦寺に登り、諸宗を研鑽し善導の観経散善義および源信(げんしん)の往生要集にふれて
悟りを得たといわれます。
そして観無量寿経の「一心にして専ら弥陀の名号(みょうごう)を念ず云々」という文章を読んで、
今までの一切の修行を捨てて弥陀の誓願を信じ浄土宗を開いたとされます。
その後、浄土への往生(極楽浄土へ往って生まれること)を願うならば、
ただひたすら念仏を修行すべきことを説いた選択集(せんちゃくしゅう)を著します。
 
この浄土宗は一時的に弘まるも、強引な不軽・宗徒らの風紀の乱れ、そして後鳥羽上皇の官女を
出家させたことで上皇の怒りにふれて念仏を禁じられ、法然は讃岐に流され、弟子数名も処刑されました。
法然没後、勅命によりその墓をあばかれ、遺骨は鴨川に捨てられたことによって浄土宗は
浄土真宗の教勢に押され衰退していきました。
 
 
<浄土真宗>について
 
浄土真宗。この宗名は明治五年から用いられている名称で、単に真宗とも呼ばれ、
それ以前は一向宗(いっこうしゅう)、門徒宗(もんとしゅう)とも呼ばれていました。
 
開祖といわれる親鸞(しんらん・1173~1262年)も比叡山において修行をしましたが、
建仁元年(1202年)に法然の門に入つて教えをうけ、五十二歳で教行信証を撰したと
されています。
法然が罰せられた時、親鸞も越後に流されたと伝えられています。
其の時に非僧非俗(ひそうひぞく)となり、自ら愚禿(ぐとく)親鸞と名乗ります。
後に妻帯して四男三女をもうけ、晩年は娘夫婦の世話のもとに90歳で寂します。
 
親鸞亡き後の浄土真宗は仏光寺派・専修寺派・三門派・本願寺派等に分派し、
互いに経勢を競っていましたが、中興の祖と云われる蓮如(れんにょ・1415~1499年)
(親鸞より八代目の子孫)によって各派が統一され、本願寺派が主流になります。
この頃には一向一揆をおこすなど、大名も侮ることのできない勢力を持つようになっていきます。
 
本願寺は親鸞の血を引く者が法主を継ぐ世襲制をとっていますが、蓮如の曾孫である
十一世顕如(けんにょ)の死後、後継者争いが起こり東・西本願寺に分裂します。
 
戦国時代の荒廃した世の中にあって厭世的な教えを説く念仏宗並びに真宗は大いに発展し、
巧みに天皇家や豊臣・徳川家等の権力者にすり寄り、ますます教勢を拡大して今日に至っています。
 
 
<念仏宗の教義>
 
無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経のいわゆる浄土三部経を所依(しょえ)の経典としています。
 
法然は選択集において、この世は穢土(穢れた世界)であり、
死んだ後に西方極楽浄土へ往生する事を根本・理想としました。
その為、釈尊一代の仏教を浄土門・聖道門の二つに分けます。
 
浄土門とは
この娑婆世界を穢土として嫌い、西方に極楽浄土があるとしてそこへ往生(死後他の世界に行って
生れること)することを目的として修行するように教えた浄土三部経を言います。
 
聖道門とは
あくまでもこの娑婆世界で悟りを開き、成仏するための修行を説いた浄土三部経以外の
大乗経と小乗経を指しています。
 
浄土三部経以外の一切の経教を修行するのは難行道(なんぎょうどう・難しい修行)であり、
浄土三部経の教えは易行道(いぎょうどう・易しい修行)であると説いて、大乗の教えを退けます。
 
聖道門に対しては「未だ一人も得道したものがいない」とか「千人の中に一人も成仏するものがいない」
といって、それら聖道門の教えを離れて「百人が百人とも往生できる」念仏に帰依するべきだと主張します。
また捨閉閣抛(しゃへいかくほう)と言って、浄土三部経以外の経を一切否定し、
捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)てと説いて、法華経をも悪口誹謗しています。
 
このように、法然の浄土宗並びに親鸞の浄土真宗は、二宗ともに浄土三部経を依経としており、
専ら弥陀の名号を唱え、西方極楽浄土の阿弥陀仏の元へ往生することを目的としている点において同一です。
 
 
<浄土三部経に説かれている教え>
 
釈尊の熱心な信者に摩訶だ陀国(まかだこく・王舎城)の国王・頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)と
その妻韋提希夫人(いだいけふじん)という方がいらっしゃいました。この夫妻に纏わる話です。
 
この夫婦は非常に仲が良かったのですが、国王の跡継ぎとなる子供がいなかったのです。
そこで夫婦はインドで最も有名な占い師にどうすれば子供が授かるか相談したところ、
「此の国の東方の山中に一人の仙人が住んでいる。その仙人が死んだなら、お前たちの子として
生れてくるだろう」とのことでした。
そこで仙人の死を待ちきれなくなった国王は悪心を起こし、家来に命じてその仙人を毒殺してしまいました。
そうして王子(善見太子・ぜんけんたいし)が誕生しました。
 
しかしその王子は怨みを含んだ眼をもって生まれてきました。
過去に自分が殺されたという怨みの眼だったのです。
そのため事情を知る人人はその王子のことを密かに「未生怨(みしょうおん)」(生れるまえから怨みをもっている)
と呼んでいました。
妻韋提希夫人はこの王子が成長した時、必ず自分たちに仇をなすだろうと恐れ、
ついに城壁からその王子を投げ捨てたのです。
しかし不思議なことにその王子は足の小指一本を折っただけで助かりました。
泣き叫ぶ我が子の姿を見た両親は本心に返って反省し、それ以後はどんなことがあっても
その王子を育てようと決意しました。
 
やがて阿闍世と名を変えた王子は立派に成長していきました。
その頃に頻婆沙羅王も妻韋提希夫人も釈尊に帰依しました。
 
当時、もともとは釈尊の弟子だった提婆達多(だいばだった)が釈尊の教団を乗っ取ろうとして
色々と画策していました。あろうことか阿闍世王太子はこの提婆達多に誑かされてしまいます。
提婆達多は阿闍世に頻婆沙羅王夫妻の過去の仕打ちを全て話してしまいました。そればかりか
「やがてお前は父王に殺されてしまうだろう。その前にお前の方から父王を何とかしなくてはならない」
とまで唆しました。
 
提婆達多の策略に乗せられた阿闍世は父王を城内の牢に幽閉し、一切の食物を与えず
餓死させようとしたのです。そして自ら王位に就き、父王に密かに食(蜂蜜)と薬を与えていた
母・妻韋提希夫人までも幽閉したので、父王は餓死してしまいました。
悲しみに暮れた妻韋提希夫人は牢の中から霊鷲山(りょうじゅせん)に向って一心に祈り、釈尊に
この苦しみから逃れる術を求めました。その祈りを知った釈尊は夫人の願い通り、弟子の目連と
阿難を連れて夫人の幽閉されている牢内に神通力をもって出現されたのです。
夫人は号泣して釈尊に尋ねました。
 
「世尊、私にどのような過去の罪があってこのような悪逆な子を産まなければならなかったのでしょうか。
世尊もまた、何の因縁によって提婆達多という大悪人と眷属なのでしょうか」(注・提婆達多は釈尊の従兄)
 
釈尊は答えませんでした。夫人は更に訴えます。
 
「もうこのような苦しみの世界に居たくはありません。どうか安楽の世界・仏の御住まいである
極楽世界をお見せ下さい」と。
 
すると釈尊は眉間より光を放たれ、次々と十方の極楽世界(一切の苦が無い、諸の楽のみを受ける世界)
を神通力をもって夫人に示されたのです。それを見た夫人は阿弥陀仏の極楽世界に往生することを
願い出ました。そこで釈尊は阿弥陀仏(無量寿仏ともいう・脇士は観音菩薩と勢至菩薩)と西方極楽浄土
について説かれたのです。
 
 
<無量寿経に示されている話>
 
「過去無量の昔、錠光如来(然燈仏・ねんとうぶつの別名)(然燈仏は法華経寿量品に出てきます。釈尊の垂迹仏)
を始めとして次々に五十三の仏が衆生済度(さいど)の為に出現されました。五十三番目の世自在王仏
(せじざいおうぶつ)の時、一人の国王が王位を捨てて得度(とくど・僧侶となること)し、法蔵比丘となって
修行しました。そして終に菩薩の位に至り、世自在王仏に四十八の誓願を立てて阿弥陀仏となって
仏国土(西方極楽浄土。菩薩が仏になると自分の世界を持つことができるとされる)を持つことができました」
云々と説かれています。
 
 
<阿弥陀経に示されている話>
 
「阿弥陀仏の西方十万億土の極楽浄土を讃嘆し、此の娑婆世界は穢土(穢れた国土)であり、
阿弥陀仏の名号を唱えることによって死後、極楽世界(清らかな国土)に往生することができる」
云々と説かれています。
 
 
以上の様な三部経の教えのもとに、念仏並びに浄土真宗では自分の力で仏に成るのではなく、
ただひたすら阿弥陀仏の四十八願(本願)に縋って極楽に往生することを願います。
そしてひたすらに「お念仏」と称して「南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)」と唱えるのです。
これを「他力本願」といいます。
 
日蓮聖人は念仏宗を指されて「念仏は無間地獄の業因なり」云々(災難対治抄)「念仏無間地獄・
阿弥陀経を読むべからず」云々(下山御消息)と一言のもとに「念仏は無間地獄」だと決判されています。
何故かといいますと、「浄土宗・浄土真宗が依経とするところの浄土三部経が釈尊の本懐の経ではない」からです。
 
仏の語には権教(ごんきょう・爾前教・にぜんきょう)と実教(法華経)という二つの経があります。
権教は仮の教えで実教は仏の本懐(本意)を説かれたものです。浄土の三部経は権教です。
「実教を捨てて権教を中心に据えるのは大変な罪である」と日蓮聖人は示されているのです。
 
また、たくさんの経経にはたくさんの仏とその住まわれている世界が説かれています。
東方浄瑠璃世界には薬師如来・西方極楽浄土には阿弥陀如来・東方宝浄世界には多宝如来・
そして私たちが住むこの娑婆世界には釈迦如来という具合です。
そこで、「此土(しど・私たちの娑婆世界)の仏」と「他土(たど・娑婆世界以外の世界)の仏」
ということが言われます。
阿弥陀如来は他土の仏で、私たちには縁のない仏様です。
それに対して私たちに最も縁の深い有縁の仏は此土(娑婆世界)の釈迦如来で、
「今此の三界(さんがい)は皆是れ我が有(う)なり、其の中の衆生は悉く吾が子なり」云々
(法華経譬喩品)
「我、常に此の娑婆世界に在つて説法教化す」云々(法華経寿量品)
と仰り、他土の仏を廃されて此土有縁深厚(しどうえんじんこう)(此の娑婆世界に最も縁の深いこと)
を説かれています。
 
そこで日蓮聖人は「有縁の釈迦如来を捨てて無縁の阿弥陀如来を中心に据えるのは
大変な罪である」と示されているのです。それ故、中国天台宗の智度法師(ちどほっし)の
「東春(とうしゅん)」という書物にも、「法華経を中心に据えない者は何故に地獄に堕ちるのか」
ということに対して「法華経は成仏の経である。その極妙の法を謗る(中心にしない)から、
極苦の地獄に堕ちるのだ」と記されています。
 
 
 
<浄土の三部経は、間違いなく法華経(実教)以前に説かれた権教である>
 
「観無量寿経」には
「王舎城(おうしゃじょう)に一の太子あり、阿闍世と名づく」とあり、
阿闍世が王に成る前の太子だったことが示されています。
しかし法華経序品第一には、法華経を聴聞するために霊鷲山に参集した人々の中に
「妻韋提希の子阿闍世王、若干(そこばく)百千の眷属と倶(とも)なりき。
各(おのおの)、仏足(ぶっそく)を礼(らい)し、退いて一面に坐しぬ」云々、とあります。(開結)
即ち観無量寿経で太子だった筈の阿闍世は、法華経では王になっているのです。
このことからも、浄土三部経は法華経より以前に説かれたお経であることがわかります。
 
何が言いたいかというと、法華経の序分である無量義経に(浄土三部経の無量寿経ではなく無量義経です)、
「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」と釈尊自らが宣言なされている通り、
この浄土三部経は明らかに法華経以前に説かれた権教なのです。
 
釈尊は三十歳で悟りを開かれ仏に成りました。そして七十二歳に至る(四十二年間)まで色々な経を説かれ、
八十歳で入滅されるまでの八年間で法華経を説かれたのです。
ですから法華経以前の経経を「権経(ごんきょう・権教・爾前経)と云い、法華経には
釈尊自らが「我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」
(法師品第十・開結390頁)と宣言されていることから、法華経を「実経(実教)」というのです。
 
 
 
<法然等が「百人が百人とも往生できる(百即百生)と主張している、
 「無量寿経」の「弥陀の四十八願>
 
その第十八願に
「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、
もし生ぜずんば正覚(しょうがく・仏になること)を取らじ。唯五逆と正法を誹謗するを除く」と、
阿弥陀仏自身が仰っています。つまり、五逆罪(父を殺す・母を殺す・阿羅漢(僧侶)を殺す・
仏の身体から血を出す・和合僧を破る)の内、父を殺した阿闍世王などは、無量寿経では
絶対に往生できないことになります。また、「正法を誹謗するを除く」とありますから、正法(法華経)
を誹謗した人人(法華経信仰をやめる人々)も同じく往生できないということになります。
 
法華経には
「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん(乃至)其の人命終して
阿鼻獄(無間地獄)に入らん」云々(譬喩品第三・開結240頁)と記されていますから、
これ等の経文に依って日蓮聖人は「念仏無間地獄」と決判されているのです。
 
第三十五願は女人往生(にょにんおうじょう)を阿弥陀仏が説いたものです。
「若し我仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界にそれ女人ありて、
我が名字を聞いて歓喜信楽(かんきしんぎょう)し、菩提心を発(おこ)して女身を厭悪(けんお)
せんに、寿終(じゅじゅう)の後また女像(にょぞう)とならば正覚を取らじ云々」とありますが、
これは女性は女性のままでは往生できない。往生させる為に男性に生まれ変わらせてあげよう
という意味です。法華経に説かれる「女人の即身成仏」の教えとは天地雲泥の差があります。
即ち法華経には「若し法を聞くこと有らん者は、一人として成仏せずということ無けん」
(方便品第二・開結183頁)とあり、此の法華経を聞いたすべての衆生が皆仏道を成就すると説かれています。
実際に阿闍世王と同じ五逆罪の提婆達多さえ成仏し、爾前経(三部経)では
成仏が許されなかった女人たる龍女(りゅうにょ)も、南方無垢世界で仏となったことが
説かれています。
(提婆達多品十二で、八歳の竜の女が蛇身のまま即身成仏したことは、女人成仏とともに
畜生界のものでも仏界という所謂十界互具を明かした法華経の大事な法門です)
 
また念仏宗では阿弥陀仏の名号が無量寿仏(無量の寿命をもった仏)であるところから
釈尊よりも遥か昔の無始の古仏(こぶつ・久遠の仏)であると言っています。
前述の無量寿経には阿弥陀仏は然燈仏(ねんとうぶつ・錠光如来)より数えて五十四番目の
仏であることが明かされています。
しかし法華経寿量品第十六には
「我成仏してより己来(このかた)、復此れに過ぎること百千万億那由侘阿僧衹
(ひゃくせんまんのくあそぎこう)なり。~中略~是の中間(ちゅうげん)に於いて、我然燈仏等
と説き~中略~是の如きは皆方便を以つて分別せしなり」云々、(開結498頁)とあります。
これは無量寿経の最初の仏である然燈仏(ねんとうぶつ)ですらも、久遠の釈尊の垂迹仏
(すいじゃくぶつ・もとの仏が真実の身を隠して化現した仏)であることがわかります。
つまり、久遠の釈尊の方が古い仏である。真実の仏であるということです。然燈仏として現れたのは、
人を教化する為の方便として現れた仏なのです。
 
また「観無量寿経」において韋提希夫人が、自分と阿闍世の母子の因縁、釈尊と提婆達多との
従兄の因縁について釈尊に尋ねましたが、釈尊は答えませんでした。なぜかといえば、一つには
浄土三部経を説かれたときの釈尊は、始成正覚の仏といって難行苦行の末に初めて悟りを得た
というお立場だったからです。一つには夫人も阿闍世王も法華経と涅槃経で救われると説かれて
います。実際に阿闍世王と同じ五逆罪の提婆達多との因縁については「法華経提婆達多品第十二」
に於いても明かされています。
 
この様に法華経と浄土三部経との勝劣は明らかで、念仏宗の教義がいかに虚偽に満ちた捏造で
あるかは歴然としています。また浄土三部経はどこまでも死後の世界の安楽を説く厭世的な教え
であって、未来の往生を願う教義でした。その後室町時代後期のころより阿弥陀仏は過去・現在・
未来を救う、「聖道門」の教えと同じような教義に改変されていきました。しかし、仏の本地を
最初からこの娑婆世界に定められ、その中で私たち一切衆生の過去・現在・未来を救うと説く
法華経とは天地雲泥の勝劣があります。
 
日蓮聖人は御書にこう認められています。
 
「浄土の三部経は釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出たり。
此四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏の出世の本懐にも非ず、
唯暫く衆生誘引の方便なり。譬えば塔をくむに足代(あししろ・足場)をゆふが如し、
念仏は足代なり法華は宝塔なり、法華を説き給うまでの方便なり、
法華の塔を説き給いて後は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。
然るに法華経を説き給いて後、念仏に執着するは、塔をくみ立てて後、
足代に著して塔を用ゐざる人の如し、豈に違背の咎無らんや、」云々、
(念仏無間地獄抄)
 
「阿弥陀仏は十方億のあなた(他土)に有つて此の娑婆世界(此土)には一分も縁なし」云々
(一谷入道御書 日蓮)
 
転載以上
 
 
混乱するのは目に見えているのに、なぜわざわざ方便を説かれたのか?
それは病に譬えられるそうだ。
病気の軽い者にはそれなりに弱い薬でも治癒できる。
しかし重篤な病気の時にはそれ相応の強い薬を処方しなければ治らないのと同様、
人の心の汚れが薄いうちにはそれなりの易しい教えで十分救えるが、
悪世で人の心も僻み歪んでいるときには非常に難解だが最高級の薬となる
教えを用いなければ病は癒えないということだそうだ。
 

 

大難来たりなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし。

火に薪をくわへんに さかんなる事なかるべしや。

大海へ衆流入る、されども大海は河の水を返す事ありや。

法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども、かへす事とがむる事なし。

諸河の水入る事なくば大海あるべからず。

大難なくば法華経の行者にはあらじ。

 

(椎地四郎殿御書 日蓮)

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。