終には覚むる 夢の世の中 

組織や団体等には一切所属致しておりませんが、日蓮聖人の法華経信奉者です。日々の所感の記録・備忘録として活用させて頂きます

伊勢志摩サミットに寄せて♪

2016-05-26 03:42:23 | 大切なことの為に
 
行者の尊重の事 必ず人の敬ふに依つて法の尊きにあらず・
されば仏は依法不依人と定め給へり、
 
我伝え聞く上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り
行雲廻雪には死屍の想(おもい)を作(な)す 而るに今の律僧の振舞を見るに
布絹・財宝をたくはへ 利銭・借請を業とす 教行既に相違せり誰か是を信受せん、
 
次に道を作り橋を渡す事 還つて人の歎きなり、
飯嶋の津にて六浦(むつら)の関米(せきまい)を取る諸人の歎き是れ多し
諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい 只此の事に在り
眼前の事なり 汝見ざるや否や。
 
(聖愚問答抄 日蓮)
 
 
 
其の時愚人の云く 実に小を恥じて大を慕ひ 浅を去(すて)て深に就(つく)は
仏教の理のみに非ず世間にも是れ法なり
我早く彼の宗にうつらんと思ふ 委細に彼の旨を語り給へ、
彼の仏の悲願の中に五逆・十悪をも簡(えら)ばずと云へる五逆とは何ぞや
十悪とは如何、
 
智人の云く五逆とは父を殺し母を殺し阿羅漢を殺し仏身の血を出し
和合僧を破す 是を五逆と云うなり、
 
十悪とは 身に三・口に四・意に三なり
 
身に三とは 殺・盗・婬・
口に四とは 妄語・綺語・悪口・両舌・
意に三とは 貪・瞋・癡
 
是を十悪と云うなり、
 
(聖愚問答抄 日蓮)
 
 
 
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(神社信仰について Mr.Mount-hat氏)
 
 
神道は仏教が日本に入ってくる前から、日本に土着の信仰として発生し形作られていました。~
 
最初は神社という社殿・建物はなく、土地土地に住む人たちが共通して感ずる、いわゆる「聖なる地」を祭場として
集まり、神をお招きして祭りが行われました。
 
神社という建造物が設けられたのは、日本に渡来した仏教が全国に寺院を設けたのとほぼ同じ時代と
言われています。
 
自然信仰・先祖崇拝という形で信仰形態を整え始めた神道は、~大陸からの道教やシャーマニズム・
アニミズムなどの様々な文化や信仰との複合を繰り返してきました。
 
六世紀中ごろ(538年)、公式に仏教が朝鮮半島の百済を経由して日本に渡来します。
 
このころ共に渡来した文字文明によって、八世紀初め「古事記」「日本書紀」が編纂され、
神話として神道が初めて登場します。また神道という言葉が登場したのもこのころです。
 
仏教伝来当時、朝廷において最も勢力があったのが蘇我氏と物部氏という二氏の豪族で、
両氏は婚姻関係を結びながらも互いに勢力を競っていました。
 
仏教が伝わり、聖徳太子と共に蘇我氏が「仏教を礼拝すべし」と主張したのに対し、
昔から神祇崇拝を重んじてきた物部氏はこれに反対して議論の衝突が起きます。
 
こうした流れの中で用明天皇が仏教に理解を示した為、群臣は二派に分かれて争うような
状況になり、ついに仏教擁護派の蘇我氏は、聖徳太子と共に神道派の物部氏を滅ぼし、
推古天皇の摂政になった聖徳太子によって仏教が弘められました。
 
701年、大宝律令で神祇令が発せられ、神社行政の大綱が定められました。
 
最初、神道と仏教は別々のものでしたが、日本各地の信仰・更には大陸からの文化や
信仰の融合を繰り返してきた神道は、自然の流れとして、渡来した仏教とも融合していきます。
 
そして神道と仏教はほぼ同じようなものという説に変化し、神社の中に寺院が入り込み、
寺院の中にも神社が取り込まれ、神仏習合・神仏混淆という現象が起きます。
 
例えば日本の神々の名前に仏教の菩薩(仏道修行をし、人々を教化する人)などが重なります。
 
更に神と仏は同体で、神は仏の化現(衆生を救うために姿形を変えて現れる)だという
本地垂迹思想が平安中期に成立します。代表的なものに八幡大菩薩があります。
 
箱根権現・伊豆山権現などの権現は仮に現ずるという意味で、仏や菩薩が仮に
神の姿をもって現れたとしています。徳川家康の死後、家康を東照権現と呼称したのはその最もたるものです。
 
 
こうして神社と寺院との区別がつかなくなる現象は、江戸時代まで続きます。
現在でも鳥居がある寺院などが見られますが、これは永い神仏習合時代の名残です。
 
神仏習合時代は約一千年続きますが、江戸時代後半に入ると神道と仏教とは異種の信仰で、
日本独自の特徴的信仰を回復すべきと主張する本居宣長などの神道学者が次々と登場します。
この主張を復古神道と云います。
 
これは幕末の尊王攘夷思想と共鳴する所となり、結果廃仏毀釈運動がおこり、
明治維新後、神社は仏教からの独立を実現します。
 
また、天照大神の御心のままに、その子孫である天皇が日本を統治するという宣長の提唱した考えは、
明治維新後、富国強兵をスローガンに中央集権国家を目指す政府により帝国憲法に反映されていきました。
 
この天皇を中心とした神道思想を、国体神道・国家神道といいます。
 
国民は天照大神の子孫である天皇の子として奉仕し、天皇もまた天つ神(あまつかみ)の命令
として位置づけられ、神社は国家の手厚い庇護をうけるようになったのです。
 
※天つ神の命令=天皇の御位の永遠と、国家の平和・国民の幸福を体現するもの
 
明治中ごろから昭和の終戦に至るまで続いた「国家神道」は、敗戦後GHQの神道指令に(1945年)によって解体され、神社は国家の祭祀ではなく一宗教法人としての扱いを受けるようになりました。
 
 
 
神道は教祖を持たず、教義・経典・教団・さらには明確な組織をもちません。
ではなぜ神道は成り立つのでしょう。それは人間の感覚に始まります。
 
自然界を構成している空気・光・水・土・風・木・岩・山・海・岬・谷などの森羅万象
の中に神々しさを感じ取る感覚、その感覚によって、漠然とながら自然の中の
神秘的なものを神と崇めました。特に日本に農業が入ってきてからは、
豊作や不作といった自然や生命の営みなど、人間にはどうすることもできない問題、
大きな力に遭遇します。それに対して畏怖の念を持ち、それを慰めよう・
封じ込めようと考えました。また、大きな恵みを与えてくれるものに対して畏敬の念を持って感謝し、
自然現象を神の力として崇めるようになりました。
 
これら畏怖、畏敬、あやかり等から出た行為が神道信仰の基本なのです。
 
祀るという言葉は、儀式をして慰める、崇める、清めるという意味です。
 
また日本の神は八百万の神と云われるように大変多くまつられています。
大別すれば次のような神々に分別されるでしょう。
 
○自然神に対する崇拝から生じた自然神・・・山の神・海の神・火の神等。
 
○先祖を尊ぶ風習から生じた祖先神・・・藤原氏の氏神を祀った春日大社等
 
○個人崇拝から生じた人格神・・・菅原道真・平将門・東郷平八郎等
 
○人間の想像によって作られた観念神・・・天之御中主神・国之常立神・イザナギノミコト・
 イザナミノミコト・スサノオミコト等
 
○戦没英霊・・・靖国神社等
 
○仏教に説かれる神・・・帝釈天・鬼子母神・大黒天等
 
 
以上の様に神道と一言で表されるこの信仰は、大陸渡来のものを含めた全国各地の様々な信仰が融合していった
共同体といえるでしょう。
 
神道は教義や経典を持たず、祭祀・つまりお祭りによって神を慰め崇めます。
 
 
 
前述の通り、神社信仰は教祖・教義・経典などは無く、原始信仰に始まり、
現在その形態は実に内容の無いものになっています。
 
多くの人が「何の力を持った何という神が、何が原因でどのようにして祀られているのか」ということを知りません。
酷い人は、どうして自分が参詣するのかという明確な答えすら持たない人もいます。
 
この内容のない信仰形態こそが日本古来の土俗信仰・原始信仰から受け継がれてきた民間信仰であり、
日本人に根付いている信仰姿勢なのです。
 
 
 
神道では神がこの世の中、つまり人間をはじめとして全てのものを造りだしてきたとしています。
それではその神は、一体どこから来たのか。
 
この世の中が始まった天地開闢という神話には、
高天原という聖なる空間に天之御中主神(あめのみなかぬし)を始めとしてイザナギノミコト・イザナミノミコトに至るまでの神々が「成れる」「成り坐せる」とあります。
 
つまり、神々はおのずと出現したとあるのです。
 
無かったものが自ずと出現した。これがどのようなことか。
そこには理由も原因も何も説かれていません。
 
出現する以前は一体何だったのでしょう。
 
このように神道は、仏教で説かれる因果などは全く無視しています。
 
 
日本に伝わる神は大変多くあります。しかしそれらは果たして全てが本当の神なのでしょうか。
歴史学的に見ると随分と曖昧で、怪しい神が多いようです。
 
例えば古事記、日本書紀、風土記などにおける神々の名称・数はそれぞれ異なっています。
これは当時、神話を編纂するにあたり、製作者の意図がそれぞれで違ったからです。
 
部族や集団によって異なる神話や異なる神が、作者の意志や政治的な意図によって省かれたり、
作られたりしたからなのです。
 
これは神社の御神体にも見られます。
 
例えば有名な八幡神社。
 
総本社とされる宇佐神宮では応神天皇を主祭神として左右に比売神と神功皇后を配祀します。
しかし全国の八幡神社を見渡せば、
仲哀天皇と神功皇后を配祀したり、玉依姫命・住吉神を配祀したり、あるいは応神天皇だけを祀った神社もあり、
全てが一定している訳ではありません。
 
また、大国主命等のように、大和朝廷が滅ぼした民族の怨霊を鎮める為に神に祀り上げている例もあります。
 
神道が根拠とする神話や伝説の多くは古代の政治政策の産物であり、是を信仰の基礎に置くことは
実におかしなことです。
 
 
 
神にも色々あります。
 
○観念神・・・この世の中を作ったとされている出所の解らないこの神は、
 人間の想像上の産物といえるでしょう。
 
○人格神・祖先神・・・日本各地にある天満宮には菅原道真が祀られています。
  神田大明神には平将門といった人間が神として祀られています。
  日本では英雄であると同時に不遇の死を遂げた人は神になれるようです。
 
 ※菅原道真は平安時代前期の人。讒言により配所の大宰府にあること二年で
 没しました。彼の死後間もなく皇室などに災異が続発したため、貴族たちはこれを
 彼の怨霊によるものと考え、彼の例を北野に祀り、これより天神信仰が次第に
 盛んになりました。現在、北野天満宮と太宰府天満宮を根本社として約五千の
 社があります。
 
 ※平将門は平安時代に承平・天慶の乱を引き起こした武将。
 やがて関東の大半を押さえて自ら平新皇と称しましたが、彼が殺した叔父の平国香
 の子・貞盛に倒されました。後世、律令体制に反抗した英雄として民間の信仰を
 集め、神田明神などに祀られました。
 
 
過去の偉人や先祖を偲び敬う行為は当然の心情であり大切なことですが、
これは道徳の領域です。過去の偉人に対してこれを神と崇めて
其の偉業にあやかろう、または祟りを恐れてなぐさめようなどとすることは
後世の人々の勝手な思いです。この神は当に祭り上げられた存在といえるでしょう。
 
 
○自然神・・・自然神の中には仏教に説かれる諸天善神が多くあります。
 しかし仏教に説かれない自然神は如何なものでしょう。例えば山の量感・威厳・
 秀麗雲霧・登山の危険・火山等に対し、山そのものを畏れ人格化したものや、
 単に山を神霊の住所としたものが山岳信仰と呼ばれるものです。
 大きな山・大きな岩・大きな木等の偉容に対して畏怖することにより、そこには
 神が宿っているのではないかというこれら自然発生的な信仰は原始宗教であり、
 教義的根拠はありません。
 
○動物の神・・・動物を祭神にして拝むことは、畜生の生命に感応するということです。
 四悪道(地獄・餓鬼・畜生・修羅)に自ら落ちようとするこの信仰が、御利益
 どころか害をもたらすのは当然の理と言えます。実際に、蛇憑き・狐憑きという現象
 も見られます。
 
○仏教上の神・・・神の中には、日本古来の神道独自のものではなく、実は仏教に
 説かれている神もいます。正法を持つ人を守護する働きを持つといわれる
 諸天善神です。大梵天王・帝釈天王・四天王などの善神です。
 
  ※東方守護の持国天王・南方守護の増長天王・西方守護の広目天王・北方守護の
   多聞・毘沙門天王。
 
 
全国で最も多いとされる八幡神社。実はここに祀られている八幡神は、自らを仏様の弟子と名乗っています。
 
延暦二年(783年)、宇佐八幡宮では神託(神の言葉)が下ります。
神が自らを護国霊験威力神通大自在王菩薩と称するというものですが、
これは八幡神が仏の弟子であることを示したものです。
 
神号に使われている神通や自在の文字は、仏教から来た言葉です。
これにより八幡神は、八幡大菩薩と呼ばれるようになるのです。
 
 
転載ここまで
 
 
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ヤフオクで入手した情報文献全書(文献保存会)によると、
栄光の歴史ある賎民族が実は徳川幕府に於いて突如出現した訳ではなく、
古代・中世から「みやびなる」支配者・貴族と共に協力して
社会の底辺に於いて日本文化を築いてきたそうだ。
 
ではこの嗜虐的日本人狩り・特殊工作集団ストーキングも、
やんごとなき雅なお方との連係プレーということか・・・?ふう。
 
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抑(そもそも)上は悲想の雲の上・下は那落の底までも
生を受けて死をまぬかるる者やはある、
 
然れば外典のいやしきをしえ(教)にも
朝(あした)に紅顔有つて世路に誇るとも 夕には白骨と為つて郊原(こうげん)に朽ちぬと云へり、
雲上に交つて雲のびんづらあざやかに廻雪たもと(袂)・を・ひるがへすとも
其の楽みをおもへば夢の中の夢なり、
 
山のふもと(麓) 蓬(よもぎ)がもと(下)はつゐ(終)の栖(すみか)なり 
玉の台(うてな)・錦(にしき)の帳(とばり)も 後世の道にはなにかせん、
 
小野の小町・衣通姫(そとおりひめ)が花の姿も無常の風に散り、
攀噲(はんかい)・張良が武芸に達せしも 獄卒の杖をかなしむ、
 
されば心ありし古人の云く 
あはれなり 鳥べの山の夕煙(ゆうけむり)をくる人とて・とまるべきかは・
末のつゆ本のしづくや 世の中の・をくれさきたつ ためしなるらん、
 
先亡後滅(せんぼうこうめつ)の理(ことわり) 始めて驚くべきにあらず
願ふても願ふべきは仏道・求めても求むべきは経教なり、
 
抑汝が云うところの法門をきけば 或は小乗・或は大乗・位の高下は且(しば)らく之を置く
還つて悪道の業たるべし。
 
(聖愚問答抄 日蓮)
 
 
 
夫れ三界の教主釈尊は十九歳にして伽耶城を出て檀特山に籠りて難行苦行し
三十成道の刻(きざみ)に三惑頓(とみ)に破し 無明の大夜 爰(ここ)に明しかば
須く本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといへども 機縁万差にして其の機仏乗に堪えず、
 
然れば四十余年に所被の機縁を調(ととの)へて後八箇年に至つて出世の本懐たる
妙法蓮華経を説き給へり、
然れば仏の御年七十二歳にして序分無量義経に説き定めて云く
「我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年にして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり、
仏眼を以て一切の諸法を観ずるに宣説す可からず、
所以は何ん 諸の衆生の性慾不同なるを知れり 性慾不同なれば種種に法を説くこと方便の力を以てす
四十余年には未だ真実を顕さず」文、
 
此の文の意は
仏の御年三十にして寂滅道場菩提樹の下に坐して 仏眼を以て一切衆生の心根を御覧ずるに
衆生成仏の直道たる法華経をば説くべからず、
是を以て空拳を挙げて嬰児をすかすが如く様様のたばかり(方便)を以て四十余年が間は
いまだ真実を顕さずと年紀をさして 青天に日輪の出で 暗夜に満月のかかるが如く説き定めさせ給へり、
 
此の文を見て何ぞ同じ信心を以て仏の虚事(そらごと)と説かるる
法華已前の権教に執著して、めずらしからぬ三界の故宅へ帰るべきや、
 
されば法華経の一の巻 方便品に云く「正直に方便を捨て 但無上道を説く」文、
此の文の意は前四十二年の経経・汝が語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨てよとなり、
此の文明白なる上 重ねていましめて 第二の巻譬喩品に云く「但楽(ねが)つて大乗経典を受持し
乃至余経の一偈をも受けざれ」文、
此の文の意は 年紀かれこれ煩はし所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり、
 
忝なくも善導和尚は弥陀善逝の応化・或は勢至菩薩の化身と云へり、
法然上人も亦然なり善導の後身といへり、
上古の先達たる上・行徳秀発し解了・底を極めたり 何ぞ悪道に堕ち給うと云うや、
 
聖人云く汝が言然(しか)なり 予も仰いで信を取ること此くの如し
但し仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず 只経文を先きとすべし
身の賤しきをもつて其の法を軽んずる事なかれ、
 
有人楽生悪死・有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は
帝釈の師と崇められ諸行無常等の十六字を談ぜし
鬼神は雪山童子に貴まる是れ必ず狐と鬼神との貴きに非ず 只法を重んずる故なり、
 
されば我等が慈父・教主釈尊・そう林最後の御遺言・涅槃経の第六には依法不依人とて
普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵・法門を説き給ふとも経文を手に把(と)らずば用ゐざれとなり、
 
天台大師の云く「修多羅と合する者は録して之を用いよ 文無く義無きは信受す可からず」文、
釈の意は経文に明ならんを用いよ 文証無からんをば捨てよとなり、
 
伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文、前の釈と同意なり、
 
竜樹菩薩の云く「修多羅白論に依つて修多羅黒論に依らざれ」と文、
 
意は経の中にも法華已前の権教をすてて此の経につけよとなり、
経文にも論文にも法華に対して諸余の経典を捨てよと云う事分明なり、
 
(聖愚問答抄 日蓮)
 
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有難うございました。
南無妙法蓮華経
 
 


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