大河ドラマ「義経」 覚え書き 第三十九話 下6

「もはや頼むところは、大江広 元殿の御慈悲に頼る以外はありません。どうか、情けをもって義経の胸のうちを、兄君にお伝えいただきたいと思います。もしも願いが叶い、疑いが晴れて許さ れることがあれば、ご恩は一生忘れません。
今は ただ長い不安が取り除かれて、静かな気持を得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断をお願い申 し上げます。
義経 恐惶謹言
元暦 二年五月 日
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿 」
原文は次のようである。
「所憑非于他。偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預 芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。
元暦二年五月日
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿」
読み下せば、次のようになる。
「たのむ所は他にあらず。ひとえに 貴殿広大のご慈悲を仰ぐ。便宜を伺い高聞を達せしめ。秘計を廻らされ。無誤の旨を優ぜられ。芳免によれば、積善の余慶を家門に及ぼす。永く栄花を子孫に伝 え、よって年来の愁眉をひらく。一期の安寧を得ぬ、詞に尽くし書かず。あわせて省略せしめ候おわりぬ。賢察を垂れられるを欲す。
義経 恐 惶謹言
元暦二年 五月 日
左衛門少 尉源義経
進上 因 幡前司殿」
直訳すれば、次のようになる。
「もはや他に頼む所はありません。ひたすら貴殿の広大無辺な慈悲心にお縋りするのみです。便宜をはかって、言い分を聞いてくださり、間に立って、誤りなき 旨を代わって申し述べてください。(その結果)放免となれば、善行を積んだ慶賀は貴殿の家門に及び、その栄花は末永く子々孫々に伝えられることでしょう。 それによって、私の年来の愁眉は開かれ、生涯の安寧を得ることでしょう。(これ以上)言葉に書き尽くさず、省略し終わりたいと思います。どうかご賢察のほ どをお願い申し上げます。義経 恐惶進言・・・」
義経は大江広元に慈悲を求め、すがっているようである。何故、大江広元にこれほど期待を抱いているのか。ある意味では不思議である。それはまず、広元が公 文所別当としての実力者ということもあるが、義経が広元に対して、ある種、京都育ち同士ということで、親しみの情のようなものを感じてのことではないかと 感じるられる。またこの文章の起草者が、義経の右筆の中原信康が書いたとなれば、なおさらのことである。あるいは、腰越状という款状(かんじょう:嘆願書 のこと)を出すことについて、広元自らが不仲の兄弟の間に立って努力をしたとも決して考えられないことではない。
ところで、腰越状について、碩学の角田文衛氏(1913ー)は、このように言っている。
「腰越状には、・・・はなはだしい文飾と虚構が見られ、一事が万事真正な款状とは認められない。義経が腰越駅に滞在中、頼朝ないし大江広元宛に款状を提出 したことは否定されない。しかし現存の腰越状は、十三世紀の初め頃、判官贔屓の学者ー義経の祐筆を勧めた中原信康のようなーが鎌倉の幕営に提出された、ま たは差し出されたであろう款状に仮託して筆をとった可能性が高い。なお、腰越状の宛名には、『因幡前司殿』とあるが、それは『因幡守大江広元殿とあるべき であろう。彼は、寿永三年(1184)九月から文治元年(1185)一二月、まで因幡守に在任していたからである。」(腰越状 「歴史読本」第三十八巻第 十一号掲載 新人物往来社 1993)
因幡の守の「前司」ではなく「現職」であったというのは、以前から言われてきたことであるが重要な指摘である。ただこの事実誤認をもって、腰越状を偽文書 とすることも難しい。義経の心情を聞いた上で、義経の右筆である中原信康のような人物が書いたとしたら、かつては同族であった大江広元の肩書きを間違える ことは考えづらい。またこの文書に、大江広元が義経に憐憫の情を感じて、手を入れたとして、自分の地位を誤ることは考えづらい。もしもあるとすれば、鎌倉 の公文所別当という立場を考えて、「前司」と敢えて因幡守を辞しているように表現した可能性は残ると思われる。
つづく
今は ただ長い不安が取り除かれて、静かな気持を得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断をお願い申 し上げます。
義経 恐惶謹言
元暦 二年五月 日
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿 」
原文は次のようである。
「所憑非于他。偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預 芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。
元暦二年五月日
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿」
読み下せば、次のようになる。
「たのむ所は他にあらず。ひとえに 貴殿広大のご慈悲を仰ぐ。便宜を伺い高聞を達せしめ。秘計を廻らされ。無誤の旨を優ぜられ。芳免によれば、積善の余慶を家門に及ぼす。永く栄花を子孫に伝 え、よって年来の愁眉をひらく。一期の安寧を得ぬ、詞に尽くし書かず。あわせて省略せしめ候おわりぬ。賢察を垂れられるを欲す。
義経 恐 惶謹言
元暦二年 五月 日
左衛門少 尉源義経
進上 因 幡前司殿」
直訳すれば、次のようになる。
「もはや他に頼む所はありません。ひたすら貴殿の広大無辺な慈悲心にお縋りするのみです。便宜をはかって、言い分を聞いてくださり、間に立って、誤りなき 旨を代わって申し述べてください。(その結果)放免となれば、善行を積んだ慶賀は貴殿の家門に及び、その栄花は末永く子々孫々に伝えられることでしょう。 それによって、私の年来の愁眉は開かれ、生涯の安寧を得ることでしょう。(これ以上)言葉に書き尽くさず、省略し終わりたいと思います。どうかご賢察のほ どをお願い申し上げます。義経 恐惶進言・・・」
義経は大江広元に慈悲を求め、すがっているようである。何故、大江広元にこれほど期待を抱いているのか。ある意味では不思議である。それはまず、広元が公 文所別当としての実力者ということもあるが、義経が広元に対して、ある種、京都育ち同士ということで、親しみの情のようなものを感じてのことではないかと 感じるられる。またこの文章の起草者が、義経の右筆の中原信康が書いたとなれば、なおさらのことである。あるいは、腰越状という款状(かんじょう:嘆願書 のこと)を出すことについて、広元自らが不仲の兄弟の間に立って努力をしたとも決して考えられないことではない。
ところで、腰越状について、碩学の角田文衛氏(1913ー)は、このように言っている。
「腰越状には、・・・はなはだしい文飾と虚構が見られ、一事が万事真正な款状とは認められない。義経が腰越駅に滞在中、頼朝ないし大江広元宛に款状を提出 したことは否定されない。しかし現存の腰越状は、十三世紀の初め頃、判官贔屓の学者ー義経の祐筆を勧めた中原信康のようなーが鎌倉の幕営に提出された、ま たは差し出されたであろう款状に仮託して筆をとった可能性が高い。なお、腰越状の宛名には、『因幡前司殿』とあるが、それは『因幡守大江広元殿とあるべき であろう。彼は、寿永三年(1184)九月から文治元年(1185)一二月、まで因幡守に在任していたからである。」(腰越状 「歴史読本」第三十八巻第 十一号掲載 新人物往来社 1993)
因幡の守の「前司」ではなく「現職」であったというのは、以前から言われてきたことであるが重要な指摘である。ただこの事実誤認をもって、腰越状を偽文書 とすることも難しい。義経の心情を聞いた上で、義経の右筆である中原信康のような人物が書いたとしたら、かつては同族であった大江広元の肩書きを間違える ことは考えづらい。またこの文書に、大江広元が義経に憐憫の情を感じて、手を入れたとして、自分の地位を誤ることは考えづらい。もしもあるとすれば、鎌倉 の公文所別当という立場を考えて、「前司」と敢えて因幡守を辞しているように表現した可能性は残ると思われる。
つづく

