腰越の満福寺

満福寺は、「腰越状」を義経がしたためたとされる古寺である。こんもりとした高台にある寺からは、西に江ノ島が見え、その遙か彼方には富士山が聳えている。東を見れば七里ヶ浜越しに鎌倉を望むことができる。この寺に籠もって、義経は兄頼朝に思いの丈を綴ったのである。この寺を訪れる度に、余りに美しい江ノ島の海と霊峰富士の偉容を眺めながら、涙がこぼれるのである。 腰越の古寺に籠もりし判官は波間の富士をいかに眺めむ . . . 本文を読む
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


大河ドラマ「義経」覚書 第三十八話

【「義経記」によって形成された哀れな義経のイメージ】 38話を観た。つくづくと源義経という人物のイメージに対し、「義経記」の果たした役割というものの大きさを痛感させられた。 というのは、大河をこれまで見てきて、ご承知の通り、義経の人物像は、一ノ谷、屋島、壇ノ浦でも、何かにつけて悩んでおり、少しも清々しい印象には描かれていなかった。早い話が本居宣長の「もののあわれ」かどうかは知らないが、カッコウ . . . 本文を読む
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


大河ドラマ「義経」 覚え書き 第三十七話

【安徳天皇替え玉説の虚妄】 大河37話を観た。そのタイトルが「平家最後の秘密」とあった。「最後の秘密」とは、何のことかと思っていたが、見終わってはっきりした。それは大河の原作、宮尾登美子版「平家物語」にある安徳天皇身代わり説のことであった。つまり守貞親王と安徳帝が入れ替わって、安徳帝は生き残ったというものである。これはいくら虚構としても、あり得ないことで、最悪の筋立である。それは頼朝という人物の . . . 本文を読む
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


大河ドラマ「義経」 覚え書き 第三十六話

【義経にとって壇ノ浦とは何だったのか?】 36話を観た。はっきり言って見るのがアホらしくなるようなまとまりのない散漫な回。論じるに値しない回であった。よくぞ、こんな無駄を作ったと言いたくなった。 こんなところで、なぜ総集編のような編集をしなければいけないのか。この時点での長々とした冗長過ぎる回想シーンは、まったくの「無駄尺」である。時間が足りないと、どなたか以前言っていた。こんな無駄をするから . . . 本文を読む
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


義経にとって屋島の合戦とは? 5

【梶原の讒言問題は東国武者の義経批判の象徴か?!】 さて義経を愛するものは、この梶原景時を、個人的に嫌う傾向にあるが、よくよく冷静に考えてみれば、梶原の讒言の中には、義経に同行していた東国の武者たちの義経に対して抱いていたある種共通の認識が象徴的に込められているようにも感じられる。 つまりそれは価値観の違いとも云えるもので、義経はたとえば周囲との軋轢があることについて、どこか無頓着なところがあ . . . 本文を読む
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )