平泉の弁慶の心境」という権力者の弁に一言

「平泉の弁慶の心境」という権力者の弁に一言


義経・弁慶の話というものには、とかく判官贔屓が付きもので、力の弱い者が、情や忠義というものを背負って権力に立ち向かうような話が多い。ところが、何を勘違いしたのか、06年11月25日、自民党の中川幹事長は、昨年の郵政民営化法案一本で争われた衆議院選挙で、党を離れた12名の復党問題に絡み、自らの心境を「平泉の弁慶の心境」とコメントしたものだから、日本中がハトが豆鉄砲を喰らった状態となった。

理の幹事長が情の弁慶を持ち出すのだから、ずいぶんトンチンカンな喩えだ。「平泉の弁慶の心境」とは、実は弱い立場の12名を束ねる平沼氏側の心境のはずだ。それとも近頃は、権力にある側も弱き者を気取って、世論を自らに引き込もうとする傾向なのだろうか。

別に私はどっちの陣営に義理があるわけではないが、どっちと言われれば、判官贔屓で、平沼氏を応援したい。理ばかりの世で本当に良いのかと単純に思うからだ。

平泉の中尊寺に弁慶堂がある。月見坂を登り切った位置にあり、この御堂からは衣川が丸見え、立ち往生した辺りも良く見える東物見の直上にある。もちろん弁慶はほとんど伝説上の人物と言ってよく、もし実在したとしても、剛胆で大柄な武に長けた物というよりは、知略の人か右筆というようなイメージの人物であったと推測される。

平泉の弁慶の心境の前に義経である。義経は父とも慕う藤原秀衡亡き後、次第に平泉においても孤立を深めていた。情を解さぬ頼朝は、ここぞとばかりに、まだ若いリーダー泰衡を嚇し、義経の首を差し出せと迫るのである。

さて、現在の政局で、それぞれの役回りを考えてみれば、頼朝の立場は、安倍首相である。安倍さんの背後には、当然義経憎しの念に凝り固まる梶原景時がいる。もちろん景時は、弁慶を気取る幹事長。一方、イメージから言って義経は野田聖子氏で弁慶は平沼赳夫氏という構図にしかならないようである。この復党問題にも、どうも弱い者イジメの世相が反映しているように見えてしょうがない。(06年11月26日 佐藤記)
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