判官贔屓 14 亀田・ランダエタの世界戦における判官贔屓

 【倫理思想としての判官贔屓】

2006年8月2日に行われた亀田興毅の世界戦が内外で物議を醸している。一見日本人亀田興毅が、負けたかに見えた判定が勝ちとなって、日本中から「あの判定はどう見てもおかしい」との声が上がった。

そして驚くべきことは、敗れたファン・ランダエタ選手の母国ベネズエラの日本大使館に、日本から数千通にも及ぶ激励のメールが殺到したというのである。その内容は、「あなたの勝ちだった」、「こんな問題で日本を嫌わないで欲しい」、「あなたがチャンピオンだ」など、そのほとんどが、ランダエタ選手に対する日本人としての謝罪と激励のメールであった。

このニュースを聞いた時、「おや?」と思ったのである。それは「判官贔屓」でこのニュースを解いたらどうなるか?ということだった。

周知のように一般に判官贔屓は、「立場の弱いもの、あるいは敗者に対する日本人特有の憐憫の情」と言われる。この場合、それが当てはまりそうであるが、もうひとつの事実を発見した。それは、「公正さ」ということである。英語で言えば「フェア」である。これまで「判官贔屓」というものは、『歴史的事実に対して「フェア」なジャッジや解釈を施し、これを検証する態度』というようには、考える考察は一度もなされたことはなかった。

考えてみれば、亀田興毅に対する日本人のバッシングは、アンフェアな判定に対する抗議の情であった。またそれに油を注いだのが、敗れたランダエタ選手に対し、その健闘を讃えようともしない亀田興毅とその取り巻きたちのスポーツマン精神を逸脱した態度であった。通常、どんなに試合前に、いがみ合っていた選手同士でも、いったんリング上での戦いが終われば、互いの健闘をたたえ合うのがスポーツマンシップである。私はこれを見て日本人が、素朴な正義感に打たれ、亀田陣営に立腹した、と推測する。

義経と頼朝のことに限定してみれば、誰が見ても平家追討の最大の功労者は義経である。しかし当の義経は、公正なる評価を受けないばかりか、反逆者の汚名を着せられるという陰険な追い落とし工作まで受けてしまう。発端は、勝者に対する公正なジャッジメント(判定)がなされないところに、判官贔屓という心情の発生源はあった。そこから余りにも執拗な頼朝の陰険さと陰謀に対し、「そこまでやるか!」ということで、頼朝の冷たさに対し強い怒りを覚えたのである。

結論である。亀田興毅の世界戦の不公正なジャッジから類推できることは、日本人の心の奥には、不公正そのものを、日本人・外国人というワクを越えて、正当に評価しようとする美しい心根が眠っているのではないかと思うのである。

これは「判官贔屓」の一般的解釈にも適用できる。つまり「判官贔屓とは、立場の弱い者、あるいは敗者に対する憐憫の情であると同時に、その人物の公正な歴史評価を求める日本人特有の心情」ということになるのではなかろうか。


 *佐藤弘弥の亀田世界戦評
亀田興毅の世界戦を評す
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« ジダン伝説の... 源義経終焉の... »


 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。