義経にとって屋島の合戦とは? 4

【壇ノ浦前の義経と景時の決定的対立を読む】

平家物語(高野本)によれば、周防の国(山口)に渡った義経は兄範頼軍と合体。熊野水軍を味方に引き入れて、二千の兵と二百余艘を我が配下に治め、また伊予からは河野通信が百五十艘の兵船を従えて合流。源氏方の船数は、三千艘に、一方の平家の船は千艘となった。もっとも、平家物語の将兵の数や船数については、脚色が多く、実数については、信用性がない。しかし海戦不利と思われていた源氏方に熊野水軍がついてことは、潜在的に形勢が逆転していることを物語っており、これを平家物語の作者が、「鶏合」(とりあわせという)のエピソードとして、一章にまとめたことは懸命な編集判断であった。

時は、文治元年三月二十三日のことである。既に、源平両軍、翌日二十四日豊前の国門司の赤間の関で、双方矢合わせの上に、決戦をすることになっていた。まさに壇ノ浦の戦いの前夜の話である。


「今日の先陣は、この景時が賜りたく存じまする」
「義経がいなければのことだ」
「それはよろしくございませぬ。殿は大将軍ではございませぬか」
「大将軍であると・・・思いもよらぬこと。大将軍は鎌倉におわす頼朝殿ただひとり。義経は代官を賜った身なれば、他の皆さまと同じ身分に過ぎないのだぞ」


景時が先陣を受けるというのは、武将としての名誉を賭け、平家追討の勲功を是が非でも成し遂げようとする当時の関東の武将達が持つ心情の一旦である。それを義経は強く否定する。義経には、平家を打ち破るのは、容易なことではないことを勘づいている。その為にも、自分が先頭に立ち、風を読み、潮の流れを読みながら、変幻自在に戦術を変える必要があると思っている。そこに頼朝派の急先鋒の戦奉行景時が、自分を先陣にと訴えたものだから、義経は梶原の頭の中にある頼朝への忠誠心を逆手にとって、自分も代官(奉行)のひとり。他の御家人と変わらないのだというレトリックを使って、梶原の先陣を退けるのである。義経の中には、逆櫓をいうような人物が先陣では、戦術が立てられないという不安がある。義経の中では、瞬間に組み立てる戦の中の臨機応変のイメージが、堅物の景時のような者の行動によって、崩れることがたまらないのである。

義経は戦においては完璧主義者である。義経の天才はそこにある。壇ノ浦の海戦は、平家も背水の陣で構えており、結果論で考えるように、源氏有利の戦ではなかった。その意味では先陣のにおける一瞬の判断が味方を窮地に追いやる可能性もある。そこに頼朝絶対主義の景時のような頭の堅い武将が居るとすれば、どうなるか。義経にとっては瞬時の戦術イメージをぶち壊されるのがイヤなのだ。そして義経の怒りを爆発させる切っ掛けとなった景時の本音が漏れる・・・。


「この殿は、まったく根っから侍の主君にはなれないお人じゃ」

これを聞いた義経は完全に切れた。
「何だと。日本一の愚か者めが」
そして、義経は刀に手をかけた。

「ワシは義経殿の郎等ではない。鎌倉殿の他に主君は持たぬわい」
景時も、刀に手をやって、にらみ合う。

そこに梶原の子供三人が寄り合って、義経を対峙した。

そこに佐藤忠信、伊勢三郎、源広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などが、梶原一族を囲み、俺がこいつを討ってやるというように一色触発の雰囲気となる。

そこに義経を三浦義澄がなだめにかかり、景時には土肥実平が抑えにかかる。そしてこのふたりが手をするようにして、言うのである。
「このほどの決戦を前にして同士戦などしていては、平家を利するのみと存ずる。こんなことが鎌倉殿の耳にはいったらどうなさる。穏便にはすみませぬぞ」


この言葉に義経は、冷静さを取り戻した。義経が切れた理由は、景時の嫌みったらしい一言であるが、双方開戦前で、気がいらだっていることもある。また義経からみれば、逆櫓を主張し、屋島の段階で平家との海戦を主張した景時の凡才ぶりを見るに付けても、自分の戦のイメージを崩されるようなこの男の存在が許せないところまで来たということであろう。

平家物語の作者も、この事件が決定的な契機となって、梶原景時は、義経を心底恨むようになって、とうとう滅ぼすことになったと推測する。つづく
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コメント
 
 
 
義経と景時 (jnk024)
2005-08-26 02:28:25
はじめて訪問させていただきました。



義経と景時の対立は刃傷ざたになるくらいまで激化していたのですか。ドラマではそこまで描いていませんでしたね。武士の世界ならありうることと納得しました。
 
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