イジメの視点でみる義経と頼朝

 イジメの視点でみる義経と頼朝の関係


イジメの視点で、義経と頼朝の関係を考えると別のものが見えてくるかもしれない。言ってみれば、義経は平泉からの転校生である。しかもである。その転校生は、取り巻きのぴかぴかの騎馬軍を100名も随えて、現代のベンツとも言える奥州馬に金ぴかの鞍を付け鼻息あらくやってきた。苦労の挙げ句、やっと関東の粗野な言葉にも慣れた、関東のガキ大将頼朝は、日頃の転校生義経の豪奢な生活ぶりが、チラホラと見え隠れする義経のお坊ちゃん面がハナにかかって仕方ない。

ましてや、ふたりが血を分けた兄弟であるとすれば尚更だ。頼朝の周囲の者たちも、日頃の義経の天衣無縫な言動や有り余る奥州の黄金を使用して、大盤振る舞いをする姿をみるにつけ、また義経の家来の態度もすこぶる横柄に見えて、「こいつら何も分からないくせに金ばかり持ち上がって」と、何を見てもハラワタが煮えくり返る気持ちになる。

こうなると、頼朝に近い者たちは、盛んに義経の悪口を頼朝に吹聴する。頼朝は自分が源氏の跡取りであるというその一点で、関東の武者たちが自分を大将として担いでいることを熟知している。したがって頼朝における義経憎しの感情は、頼朝の個人的な安楽に生きてきた弟に対するジェラシーも含まれているが、概ね関東の武者たちが、抱いた義経とその背後にある黄金によって栄華を極めた奥州に対する敵意のようなものが、空気として出来上がったと推測される。

こうして義経に対するイジメが始まったのではなかろうか。周囲は、義経のことを御曹司と呼んでいたらしい。しかし腹の中では、「何が御曹司だ。奥州のスパイ目が?!」などと思っていたのではあるまいか。また流れとしては、頼朝と義経が仲よくするような方向に行くことを警戒し、これを意図的に阻むような動きもあったと思われる。

この結果、頼朝は周囲の空気を読んで次第に義経を遠ざけるようになり、「義経自身も御家人のひとりに過ぎない」ということを周囲に見せつけるために、鶴岡八幡宮を造営(鶴岡若宮宝殿上棟=1181.7.20)に功のあった大工に褒美の馬を義経に引かせるという屈辱的なイジメを行うことになったのではないだろうか。このことは、事実上「御曹司」の立場を義経から剥奪して、義経を単なる御家人のひとりとして扱うという宣言でもあった。

考えてみれば、現代のイジメというものにおいても、自分がいつイジメの立場に立つかもしれないということがあって、イジメに参加するようなこともあると聞く。数十年前に起きた連合赤軍による「総括」と称した壮絶な同志間のリンチ殺害事件も、このような「次は自分がその立場になるかも」という心理によって助長されたものであった。(06年12月8日佐藤記)
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