藤沢の伝源義経公首洗い井戸




源義経公首洗い井戸
(06年9月21日 佐藤撮影)


2006年初秋の頃、藤沢にある伝源義経公首洗い井戸に向かった。白旗神社で神となった義経公の御霊に手を合わせると、周辺は思いの外、整備されていた。まず首洗い井戸の前には、昔風の交番が出来ていて、義経公の身の回りを守っていてくれている雰囲気がした。井戸の周囲には竹垣が廻らされ、秋の陽射しによく映えていた。ところ構わず侵入しがちな俗なる景色を払う強い意志が感じられ頼もしく思えた。

井戸の前には、三脚を置き、写真を撮っている人がいた。大型のキャメラで時間を掛けて丹念に撮っておられた。プロのカメラマンだろうか。

私は斜交いにあるベンチに腰掛けながら、817年前の夏の日の出来事を思い出していた。義経公の御首は、間違いなく藤原泰衡の弟高衡(高平)がここまで運んできて、ここで清めが行われたのである。

高衡はどんな面もちで、敬愛する義経公の物言わぬ御顔を洗ったのか。また彼の近従たちはどうだったか。そしてまた藤沢の里人たちは、この稀代の英雄の悲しい帰還をどのように見ていたか。

藤沢周辺には、義経公にまつわる多くの伝承とそしてナゾがある。そのひとつが義経軍団の駐屯地跡である。義経公は、兄頼朝が「平家打倒に立つ」との知らせを奥州平泉で聞き、直ちに鎌倉に馳せ参じた時、100名近くに及ぶ義経軍団を抱えていたと推測されている。その軍団の駐屯地は、鎌倉から茅ヶ崎までの周辺のどこかにあったと推測される。その比定地は今のところ不明だが、中でも藤沢周辺は有力な候補地である。だとしたら、人に好かれる義経公のことだ。藤沢の里人たちも、やはり涙で義経公の悲しい帰還を見ていたのだろう・・・。

この首洗い井戸は、元々白旗神社境内であった。そしてこの井戸の数十m東方に盛土された首塚が築かれていたとされる。江戸期の古地図には、その様子が記録されている。また近くには御仮屋があり、白旗神社の祭礼の時の神輿は、ここを最初に訪れ、町に繰り出していく。もしかするとこの御仮屋の場所は、頼朝が母堂の法要のため義経公の御首の鎌倉入りを許さなかった時、義経公の御首が安置されていた場所かもしれない。とすると、毎日義経公の御首は、この井戸の前で、お浄めが行われていた可能性もある。

中尊寺の三代の御遺骸はその妻たちが毎日一年間洗い浄め、腐敗しない御身体にしたという伝承が残っている。腐敗を防ぎ、これを永久保存する技術を奥州藤原氏は持っていた。それがどんなものか、今日ではまったく伝わっていない。

そんなことを考えていると、元気な赤とんぼが井戸の前にやってきて、石碑やら竹垣に留まり、やがて秋空に飛び去っていった。

秋晴れの空舞降りし赤とんぼ井戸のそちこち飛びはね消ゑぬ
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